7
吐き出した息が、ほんの一瞬白くなる。
騎道がバイクを取ってくる間、彩子は病院前のスロープで、透明さの増した青い空を見上げていた。
登校前に、彩子は騎道と、駿河の病室を見舞った。
心配していたよりも回復が速かった。実際には、肋骨二本と左上腕の骨折が最大の外傷ということだった。全身の殴打、それによるショック症状と大量出血、発見の遅れが、駿河を瀕死の状態に追い込んだ。
危険な時期を脱すれば、あとは体力の回復を待つだけ。
重傷人は、それをわかっているのかいないのか。腫らした顔を気にして、見舞いの二人には背中を向け続けていた。
……本当の所は、騎道との仲の良さを見せつけられるのが気に食わなかっただけ。
なんとなく、幼友達の嫉妬を感じていた彩子は、素直じゃないんだから……と、内心で笑っていた。
「今日で、最後だと思ってるの?」
ヘルメットを手渡す騎道に、彩子は尋ねた。
意地になっている駿河を、騎道は普段通りの穏やかで優しすぎる目で見守って、病室を辞した。いつも通り過ぎて、彩子は、黙っていられず聞いてしまった。
生徒会長選挙は昨日の4時で終了した。開票は、翌日。
今年の二限目後の休憩時間に、発表になる。
「まだ解らないじゃない? 結果が出てもいないのに……」
言い出してはいけなかったかと、彩子は口ごもった。
「最後だと思ってるよ」
「! 騎道!? そんな弱気で……!」
フルフェイスのバイザーを上げて、騎道は笑みを見せた。
「怒った? 彩子さん、すぐにムキになるんだよね」
…………。おばかばかっっ。
ヘルメットを被って、彩子はトスンとバイクに横座った。
「……最後かもしれない。そうでないかもしれない。
あんまり、未練が無いんだ。学園を離れても、彩子さんと三橋が居るから。そうだろ?」
彩子は、スエード・コートの肩に手を乗せた。
「あたしは嫌……。学園に居る間、騎道が居ないなんて」
「怖がらなくていいよ、彩子さん。
側に居るから。離れていても、君を見てる」
彩子の手を取って、腰に回す。エンジンを吹かす。
「いままで通りだよ」
「そういう意味じゃないよ!? あたし……、騎道の側に居たい。君を見ていたい……。
……私も、学園を辞めるわ……」
もう一度高まる排気音に、騎道は聞こえない振りをした。
その背中にしがみついて、彩子は声を張り上げた。
「わたし、辞めるからねっ!」
「どうぞ。止めませんよ? 困るな。彩子さんの方が、今日で終わりだって信じてるみたいだ」
「!」
走り出す風圧に、彩子は頭をすくめた。飛ばされそうになるサーモン・ピンクのマフラーを顎で押える。
「……でも絶対、一緒に辞めるんだから……」
呟きは、騎道に聞こえる大きさではなかった。
『どうぞ。止めませんよ?』
他の人間なら、そんなこと言わない。
高校を中退してどうすんのよ!? 園子なら、怒ってそう言う。駿河は呆れ返る。隠岐はびっくりして何も言えない。
「進路、どうするつもり?」
以前、園子が聞いてきた。あの頃は、白楼后の影に内心怯えて、騎道への気持ちも認められなくて、ガチガチに身構えてた。だから、進路なんて言葉、非現実的で、よく考えずに答えた。
「あ、うん……。父さんは短大くらいなら出してやるって言ってたから、進学する予定よ」
「進学だけ……?」
「何よ。何が言いたいの? そっちはどうするの?」
「勿論、大手出版社を目指すわよ。あの椎野も目標は同じみたいだから、なんか燃えるわ」
「私は……。何んになろうかな……?」
「……。たしか、目標がありませんでした?」
「警官になるとか検察官になるとかっ?」
自分で茶化して、彩子は答えを教えてやった。
「みんなでヤメロって言うじゃない? ……危ない真似はよせって……。わかってるわよ。ヤメます。
フツウの女になりますっ」
……普通って何? 騎道、教えて?
『止めませんよ……?』
騎道は、引き止めたりしないよね? 私を、信じてくれるよね?
……何が起きても……。
選挙結果は、休み時間開始と同時に、校内放送された。
朝から待ち構えていた、お祭り騒ぎ好きの生徒たちは、お喋りを遮り耳を澄ませた。
当選は、新役員に選ばれた者の名前と役職、その得票数とともに読み上げられる。一番最後に、新生徒会長。
その名に、広い学舎がしんと静まり返った。
結果に納得し、選挙より自分たちの日常に関心を切り替えると、若いに賑やかさが校内に戻ってきた。短く最後に伝えられた投票率が、まだ興味のある生徒の目を見張らせた。
「……とーぜんだろ?
この三橋クンが、負ける喧嘩するわけないでしょ?」
自分の椅子の上にのけ反って、大意張りしている。
後ろに倒れてしまいそうなほど傾く椅子を、背後で騎道が、黒子のようにさりげなく支えていた。
2年B組の教室からは、誰も部屋を出ていこうとはしない。全員が、三橋のデカすぎる態度にニヤニヤしていた。
「今朝まで、引きつった顔してたのは、誰でしたかねー?」
浜実が、束ねた髪を揺らして、大きく笑った。
「ほんとに。……ま、こっちも三橋のことは笑えないが?」
友田はニヒルぶって、軽く鼻先をこする。
青色吐息だったのは、選挙参謀の三橋だけではなかった。
5人全員が、納得できない選挙戦に与えられる当然の結果を、死刑の判決を待つ囚人のように、覚悟していた。
「とにかく勝ったわけだ。我々の押す、新副会長和沢と。
新生徒会長、騎道若伴」
松茂が立ち上がり、頭二つ分高い位置から、騎道を見下した。教室内の44人分の視線も、騎道へ向いた。
「そーゆーことっ。おい、新会長! 何か言うことあるんじゃないのかな?」
三橋も立ち上がり、松茂の横に並んだ。浜実も、友田も。
和沢に腕を引き起こされ、憮然としている東海も、一列に並んだ仲間に加わった。
「おめでとう、騎道君。これで、学園を辞める必要はなくなった。
得票率92%。学園長代行の現役時代には届かなかったか、高い数字だよ。もう、異論を挟む余地はないだろうね」
和沢は、彼にしては珍しく興奮ぎみに続けた。
「君の得票率は、僕の記憶では、歴代二位と同率だ。
現会長、秋津静磨と並んで、君は生徒の指示を得た。
……君はほとんど、何の選挙活動もしていないのに……」
「こんなことなら、俺たち要らなかったのじゃないの?」
浜実が茶化す。友田はぼやく。
「……気苦労ばっかりで……」
ブレーン東海が釈然としない中で、ぽつんと言った。
「何んにも、着飾る必要なかったんだよな。お前って。
自分の感情を出すだけで、みんなの気持ちを引き付ける。
簡単にさ。俺たちが巻き込まれたのと同じように、追いかけてみたくなる」
分析する東海は、冷静さを取り戻した。
「断っておくが、お前の喧嘩の度胸に惚れたんじゃないぜ。衆人監視の中で頭を下げた、あの根性に負けたんだよ」
「呆れた奴だぜ」
松茂が目を細める。友田は得意気に言った。
「俺たちは、最初っからわかってて、見込んだんだけどさ」
「わかってたんじゃなくて、惚れ込んだんでしょ? 騎道君、美少年だしぃ」
軽い浜実に、さすがに和沢も顔をしかめた。
「気色の悪いこと言わないでくれよ……」
「付いてってやるぜ、新会長?」
三橋が騎道を促す。クラスメイトの視線が待っていた。
彩子と軽く目を合わせ、騎道は言葉を選んだ。
「意外な、結果だったけど……。
退学勧告がこれで撤回されるなら。僕はここに居たい。
……推してくれた、みんなの期待に応えられるかどうか、まだわからないけど」
「だいじょーぶっっ。全然、期待してないから。
ただちょっと、お前のこと、気に入っただけだよ。もう少し、バカやるお前が見てたい、ただの野次馬根性。構えなくていーからさっ」
口の軽い軽い三橋に、騎道は苦笑した。
「そっか。なら、今まで通りにさせてもらうか。
ブレーンは最高の人材が揃っているから、僕にはすることがなさそうだし」
どっと、全員が笑い出す。騎道は片手で頭をかいた。
「なーんか頼り無い新会長ですがっ! どーぞ、皆さん宜しくお願いしますっっ、って言うんだよ、キドウくんっ」
慌てて頭をペコンと下げた。
「これからも、宜しく」
突き上げるような歓声が、2年B組の教室から沸き上がった。
この日の昼休みに、当選者全員が生徒会室に集まった。
当選を通知するだけの略式の承認式。正式な引継ぎ式は、学園祭の閉会式で行われることになっている。
この場で、主な役員全員が、始めて顔を合わせる。
新会長である騎道を、新しい彼の手足となる役員たちが、期待と好奇心に満ちた目で受け入れる。
新副会長の和沢も、誇らしく、どこか緊張していた。
立会いには、新聞部長椎野鈴子、デイリーフォーカス編集責任者青木園子が呼ばれていた。
「おめでとう、騎道君。君には、二重の勝利だな」
略式であるので、静磨の口調は砕けたものだった。
整列した新役員の前に、一歩進み出た騎道。秋津の言葉を黙って受け止めた。
秋津の背後には、学園を二分する精力の一派として。白楼会会頭藤井香瑠の姿もあった。いつもながらの凛とした、煙るような艶やかさに包まれ佇んでいる。
黙したままの騎道に、周囲が怪訝に思い始める寸前。
藤井香瑠が、二人にやんわりと割って入った。
「私からも、お祝いを申しますわ。騎道様。
これで、退学勧告は撤回となりましょう。いかがでしょうか、凄雀学園長?」
この場に招かれていた凄雀は、場違いであるかのような態度で、学生たちを無関心に眺めていた。藤井の指摘に慌ててたのは、凄雀に従ってきていた篠屋教頭の方だった。
「藤井君、そのように性急なことを。引き合いに出す場が違うとは思われませんかな?」
「差し出がましいとは承知しております。ですが……」
憂える視線を騎道に流す藤井。
「藤井さんにまで、ご心配をおかけし、申し訳ありません」
真っ直ぐに藤井を見つめ、騎道は謝罪した。
「いえ……。当然のことですわ……」
毅然とした騎道に、藤井は微かに恥じらい、目を伏せた。
騎道への尋常ではない思い入れは、他の学生たちにも、たやすく伝わった。
熱もなく、涼しい顔で受け流す騎道は、なんの事情も知らない者たちにとって、嫉妬と羨望の的となる。
それは藤井の望む通りの事態。見えない火花を散らす、秋津と騎道の間を流れる、冷え切った空気を乱してくれる。
「……いいだろう。力より勝る数の論理、認めよう」
さっと、凄雀に対して、騎道は姿勢を正した。
「退学勧告は停止だ。民意とやらを、大事にすることだ」
「? 停止ですか?」
すかさず、椎野が聞き返す。
「停止だ。撤回する気はない。私個人は、本学園の生徒として相応しいとは思ってはいない」
「いずれ、何か起きた時、彼を即刻退学させると?」
「停止で十分だとは思いませんか、椎野さん。
騎道様が、全学園生徒の信任を得た以上。何が起きても、生徒たちが守りますでしょう」
藤井は、凄雀への批判をも遮った。
凄雀の思惑に動じた表情も見せず、淡々と騎道は頭を下げた。顔を上げると、言葉もなく安堵の笑みを向ける藤井と目が合う。策謀も掛け値もない、心を込めた微笑みに、騎道は一瞬心を奪われた。
向けられたわけでもないのに、他の学生たちまでも、魅了されたのは無理もないことだった。
「いい知らせは、もう一つある。
駿河君から、今朝電話があった。彼を襲撃した人間は、磯崎でも、剣道部員でもなかったと証言を得た」
目の色を変えた、椎野と青木。当選伝達式の情景とともに、磯崎の潔白を伝えるのも、彼女たちの使命だった。
「私もこれで安心したよ。優秀な人材を失って手痛いが」
暗く目を伏せた秋津。その深い落胆を眺めながら、騎道は苛立ち続ける自分を押さえつけた。
秋津との間に巧妙に割って入り、騎道を目覚めさせようと、引き止める藤井の為に。
せめて、この場では。
物分りのいい。寛大な、最高の指導者の仮面を守り続ける。秋津静磨の思うままにさせて構わない。




