5-2
彩子の傍らで、一瞬、沢木の体が支えを無くした。
「沢木先輩……!」
彩子の目を見て、黙ってと、沢木が頭を振る。
彼女は、動揺を知られてはならないのだ。こんな時には。
「全員、着替えなさい。先生方には、私から許可を申請します。磯崎主将に、……会いに行きなさい」
「沢木。学園長として私が許す。全員を連れていけ」
促され、涙を堪えながらのろのろと動き出す部員たち。
その直中に、投げ出された竹刀の乾いた響きが広がった。
「! 騎道……?」
彩子は目を疑った。沈痛を乱したのは騎道だった。
出口へと踏み出す騎道。無表情。不機嫌な種類の。
「騎道! お前はここに残れ!!」
その場の全員が、騎道と凄雀を見比べた。
明らかに、凄雀の目的は騎道にあった。それを見取り、部員たちは静かに、立ち尽くす騎道を避けて出ていった。
凄雀が動く。壁にかけられた木刀を二本取り上げた。
重みを形で確かめ、一本を騎道に投げ付ける。
右肩口を狙った凶器を、騎道は左手で柄を握り止めた。
「まだ、遊び足りないようだな」
道場中央に進み出る凄雀。最後に残った沢木と金井は息を詰めた。隠しようのない凄雀の気迫に畏怖さえ覚えた。
気持ちを切り換えたのか、言われるまま凄雀と相対する騎道。態度だけは卑屈な抵抗をみせ、木刀を握る左肩を不自然に落としている。
「何があったんだ?! 一体……」
飛び込んできたのは剣道部顧問だった。代行の姿と、険悪に向き合う雰囲気に、すぐに飲み込まれおどおどと代行を仰いだ。
「早朝稽古をつけていた。磯崎の件を処理してもらいたい」
顧問を追い返す凄雀に、騎道は堅い声で尋ねた。
「あなたを倒せば、行ってもいいんですね?」
何のことかと、彩子は三橋と顔を見合わせた。
「ああ……。可能ならば好きにしろ」
その答えを聞いて、ようやく騎道は下段に身構える。
痛ましいというように、凄雀は眉間に皺を寄せた。
「頭を冷やせ。なぜ時を待てない?
貴様の悪い癖だ。感情のままに動く。それが周囲に混乱を招く。わからないのか!?」
「もう待っていられません。彼は狂ってる……。
僕に手を下しても無駄だとわかって、周囲の人間に今度は……!
次は誰が狙われるかわからないのに!?」
「狂っているのは貴様も同じだ。
一人を叩いて、それで終わると思っているのか?」
「!」
凄雀の指摘に、騎道は目を見開いた。
「挑発に乗り隙を与え、守るべき者をさらわれたいか!?」
「そんな罠に、僕は陥ったりしない!」
木刀を握り直し、騎道は言い切る。
凄雀の目には、ただをこねるだけの子供にしか映らなかった。
「……。女に目のくらんだ大馬鹿者が……」
吐き捨てた呟きが、騎道の耳に届いた瞬間。
騎道は顎を引いた。体を低くし、踏み込む。
下からの振り上げを、凄雀は交錯した峰で受け止める。長身を生かし、上から押え付ける。
力が拮抗し、退くことも撥ね除けることもできない騎道。
耐える騎道に、凄雀は足払いをかけた。
回避するすきを狙い、凄雀が木刀を水平になぐ。
床に転がる騎道。素早く正確に、急所を狙い、突き出される剣先。逃げきり、かろうじて上体を起こす。
待っていたかのように、凄雀はその頭上に振り下ろす。
「!」
水平に掲げた刀身で、騎道は受け止めた。
渾身の一撃は、ずっしりと重い。痺れる指先。騎道は歯を食いしばる。すでに剣を交える前から、圧倒され、騎道は劣勢だった。
見守る者にとっては、まさに電撃の闘争。閃き続けたのは、付け入る隙のない凄雀の剣技と非情な攻撃だった。
剣道部員たちを相手にしていたのとは違う。早くも騎道は肩で息を継ぎ、額から頬へと汗を光らせている。
瞳の色だけが生気を放ち、光を込めていた。
「……やばいぜ……」
三橋が彩子の肩を掴み、支えた。
彩子は、騎道を気遣いながらも、凄雀との言い合いを耳にした瞬間、青ざめた沢木が気にかかっていた。
「……大丈夫よ。騎道は強いもの……」
それでも、怖さに彩子は目を逸らしたかった。
手を緩めた凄雀の剣から逃れ、騎道は体勢を立て直した。
「! 危ねぇ……っ!」
体の大きな副主将が声を殺す。
素早い凄雀の振りを食い止める。
二度、三度。受け止め突き返しても、じりじりと押しやられ、背後には武道場の板壁。
押えつけられ、引くことも不可能な状況に追い込まれる。
騎道は乱れた前髪の隙間から、凄雀を見上げた。
戦いの最中だというのに、涼しい顔をしている。
ただ、木刀を挟んで。棒一本が、凄雀という脅威を阻む唯一の拠り所。死に物狂いで、騎道は跳ね除けると決意していた。
……凄雀には勝てない……。わかっていても
「くっ……!」
一瞬。汗で滑った指先。
ガードが緩んだ瞬間。ねじ伏せるように、右肩を砕くような圧力で、容赦なく刀身が食い込む。
凄雀は一度、身を引いてやった。
痛みを無視し身構える騎道。
狙い済まし、凄雀の剣は胴に。庇う木刀ごと、騎道は真横に吹き飛ばされた。
「……え……、何……?」
彩子は目を疑った。肩を掴んだ人影が、目の前を、のめるように走ってゆく。
騎道は……?
焦点を絞ると、床に這う、頬を引きつらせた騎道が目に飛び込む。
見上げ。確実に頭上に振り下ろされる、凄雀の刀を見据えながら。逃れることは出来ないと悟っていた。
「…………!」
動けない騎道に、覆い被さる白いワイシャツの背中。
凄雀の一撃は、その背を打った。
「…………あったーーーっ……」
「……な……? 三橋……?」
全身を脱力させ、騎道の腹の上で背中の痛みに呻く三橋。
「三橋っっ!!」
瞬きの後、我に返った騎道は、三橋を抱え起こした。
「のやろーっ。こいつお前相手だと、全然手加減無しだな……」
打たれたはずの背中に触れないよう、騎道は支えた。
「……僕なら、何をしたって這い上がるとわかっているから。
動くな、三橋。骨折の可能性もある」
「……けどな。本気で頭冷やせよ? 体、もたないぜ?」
痛みを必死で堪えながら、三橋はしっかりと騎道の腕を掴んだ。その顔から、脂汗が吹き出し血の気が引き始める。
「いいか……? 俺が勝手に飛び込んだんだ。敵取ろうなんて、考えるなよ……?」
目を開けているのに、暗くなって行く視界に、三橋は仕方なく瞼を閉じた。強打のショックで、意識が遠くなる。
「……三橋……?」
力を失う体の重みを抱き留めながら、騎道は呆然とした。
「何してるの!? 医務室に運んでよ、速くっ!」
彩子の叫びに、声を辿るようにして騎道は振り返った。
凄雀は、まだ目の前に立っている。
今の騎道からは、凄雀への怒りは失われていた。三橋の受けた痛みで、すべてが無になった。騎道はそんな気がした。
駿河を襲った張本人への、殺意でさえ。
休養室は、付き添う騎道と、ベッドにうつぶせに横たえられた三橋の二人きりにされた。
保健教諭の水野は、気を失った三橋を診察して、ただの打ち身だと笑い飛ばした。木刀の木目まで残りそうな、綺麗なアザが残るわね。との、保証付きで。
「すまない三橋。大事な試合前なのに、まきこんで」
目を覚ました三橋に、最初にかけた言葉だった。
三橋は、深刻な表情の騎道を横目で眺めた。
「……そういえば学園祭明けか、試合は。
忘れてたぜ。あんまし買い食いできないってことだな」
笑い出す騎道に、にやにやと得意気に三橋は笑った。
「体は?」
「いや。なんともない。痛みもないぜ?
変だな。あれだけ暴れたのに、前より体が軽くなった気がするぜ……」
表情を変えず、騎道はうなずいた。
「なんか俺、お前と違ってこーゆーとこ落ち着かないぜ」
さっさと体を起こし、ベッドを降りる。
「……僕と違ってって……」
「転入したての頃、何度もブッ倒れてただろ?」
そうして、心配してくれたオトモダチが、いつも付き添ってくれた。
騎道は思い出し、ちょっとだけ、情けなかった自分に赤面した。
「行くぜ」
窓ガラスを全開にして、騎道を手招く。
二人は順番に、窓から外に出た。一限目が始まっている時間だ。静まり返っている校内に遠慮して、二人はこそこそと、緑の深い、日当たりのいい校舎裏に出た。
三橋は背中の傷を気にしつつ、ゆっくり伸びをして、エスケープの開放感に浸った。
少し肌寒いが、陽射しの暖かさに騎道も目を細くした。
「お前、今日の選挙、諦めろよ?」
前置き無く念を押され、騎道は心を決めた。
「……うん」
「代わりに彩子はお前のものになったんだから、いいだろ」
ぞんざい過ぎる言い方に、騎道は三橋の背中を見返した。
「そのことで、話しがある」
「聞きたくねーぜ。言い訳なんざ」
両手を尻ポケットに突っ込み、三橋は騎道を盗み見た。
卑屈に、目を細める。
「俺はお前に負けたんだよ。友達に好きな女を取られるなんざ、今時、珍しい話じゃないが」
「聞いてくれ、三橋」
「女々しいんだよ! お前は!!
ここのところずっと、こそこそしてくれて……!」
「すまなかった……」
頭を下げる騎道に、三橋は冷えた言葉を投げ付けた。
「心配すんなよ。
あんな女、お前が学園にいなくったって、手は出さないぜ」
「……そんな言い方はよせ……」
「寝たのか? あいつと」
「!」
突き出された顔を、騎道は固めた拳で殴り飛ばした。
たたらを踏んで、体勢を堪えた三橋。口の中に滲んだ血を吐き出した。
「本気でやってくれたな? 騎道クン!?」
その場で、両手の拳を上げてファイティング・ポーズ。
「かかってこいよ。
てめーとは一度、きちんとやってみたかったんだよ!」
騎道は、殴った拳を体の脇に押し当て、自分を押し殺すように目を閉じていた。黒縁眼鏡にかかる、長めの前髪がさらに目元の表情を隠した。
「……。僕もだ。邪魔のない、今のうちにケリをつけよう」
「椎野? 千秋に言われたの?
あの二人の喧嘩を止めるよう、説得しろって」
佐倉千秋の入れ違いのように、彩子の前に現れた椎野鈴子。椎野には、理由も分からず、一方的に毛嫌いされている。
なのに、自ら出向いてくるのだ。目を疑う。
「それだけじゃないわ。私も、納得できないから来たのよ。
どうして止めに行かないの? どちらかが大怪我するかもしれないわよ?
……男って、溜まっていたものが爆発した時って、加減を忘れるから」
クスっと、彩子は今朝の騎道を思い出して笑った。
椎野の言葉は、当の騎道が証明している。
あんなふうに、前後を忘れて戦える者。男たちは。
「駿河、大丈夫だそうよ」
教室の窓から、外を眺めながら彩子は呟いた。
「! ……そんな話を聞きにきたわけじゃないわ……!」
怒り気味に、低い囁きで椎野は否定した。
一度二度、うなずいてやって、彩子は本題に戻った。
「椎野の言う通りよ。男って野蛮よね。何かというと殴り合い。自分の絶対優位を弱い女に見せつけたいのね。
放っとけばいいのよ、そんな奴ら。それに、どんなに殴り合っても、死んだりはしないでしょ?」
「あなた、二人を信じてるから? いい加減、二人揃って愛想が尽きた? それとも、怖くて動けないだけ?」
のんびりと構えていた彩子の頬が、少し本気になった。
「駿河に言われてるの。あの二人を馴れ合いさせたままにするなって。……ずっと引き止めて、ぶつからないよう、祈ってきたけど。もう、いいのよ。
……私、はっきりさせてほしいから」
唇を噛み締める彩子。椎野は、腰に手を当てた。
「そう。だったらあなたには、見届ける義務があるはずよ。
待っているなんて、二人に失礼だと思わない?
お姫様じゃあるまいし」
……お姫様、ね……。嫌な響き……。
正論で脅されて、彩子は揺れていた気持ちにケリをつけた。教室を出る彩子に、椎野も横に並んだ。
「椎野。今朝まで、駿河、危なかったの。でも意識は取り戻したから。後遺症の心配も無いらしいわ」
彩子は、横に並ぶ椎野を確かめたりはしなかった。
「あなたのこと、聞いたわ。本人からじゃないけど。
あいつ、男のくせに、顔の傷の心配なんかしてたそうよ。危ない真似に懲りたんでしょ? いい薬ね」
言い返しもしない椎野鈴子の顔色なんて、彩子は見たくなかった。
「気が向いたら聞きに来て。病院の病室、教えてあげるから。気のない人に、教える必要ないものね」
彩子は一歩遅れた隣に手を振った。
「一人でいいよ、じゃ」




