5-1
それぞれ三人は、一度自宅に戻った。制服に着替え、彩子は騎道のバイク。三橋は専用車で稜明学園に乗り付ける。
登校する生徒は、まばらだった。時間帯が違うだけで、何か雰囲気が違って見える。
生徒玄関で三橋を待っていた騎道は、姿を見とめただけで、先に校内へ入ってゆく。後を、小走りで追う彩子。
三橋は車を降り、走って追いかけながら呟いた。
「あの野郎……。マジに切れてるな」
騎道が向かう先は、武道場がわりの小体育館だった。渡り廊下で騎道と合流する。
締め切られた扉の向こうから、少年たちの叫びに近い気合いが聞こえてくる。剣道部は早朝練習の時間だった。
恐らく、全員が揃っているだろう。何しろ、体育会系は上下関係と時間に厳しいものだ。
「彩子さん。君はここに居て下さい」
「嫌よ。私も行くわ。足でまといだと思うなら、今のうちに考え直して欲しいわね」
くすりと、騎道は笑った。
「いいえ。期待しているから頼んでいるんです。ここからは、誰も入れないで下さい。邪魔をする人間は全員を」
ごくんと、彩子は息を飲んだ。……怖い。薄い笑みは、本気で怒る策士の笑みに見える。
「ま、騎道のことは、俺に任せろよ?」
「そっちこそ心配ね。竹刀の使い方なんて、知ってるの?」
「ラケットと変わんねーだろ?」
…………。全然チガイますっっ!?
三橋のジョークに構わず、騎道はドアに手を押し当てた。
「……行くぞ。三橋」
頬を堅くしながら、三橋は上着を脱いだ。
「狙いは、剣道部部長。磯崎一人だ……」
「ふん。けどあいつ一人で、すんちゃんをのしたわけじゃないだろ?」
うなずいて振り返る騎道は、やはり冷たい笑みを見せた。
「そうだった。……全員、敵だな」
言い切った瞬間。騎道が前へ踏み出す。
朝日が、踏み込む二人を曙色に染める。その姿は、光の中に消えていった。
「……騎道って、冷静なのか、熱血なのかわかんないわ」
と。ここで気付いた。素手……で、ここを守れと?
「ちょっとぉ。なんかちょうだいよっっ」
ドアを叩く彩子。素早く向こうから開き三橋が顔を出す。
「ほい。彩子ちゃんの得物。顔だけは大事にねっ?」
竹刀を投げ上げ、三橋は怒鳴られる前に身を引いた。
「顔顔顔って……! 勿論大事にするわよ。
騎道の為にっ!」
…………。しっかり、女の子する彩子だった……。
「この中って、女子部員も居るのかな。
まさか、その子たちまでブチのめしたりは……」
でも、騎道のあの剣幕だと……。
彩子は、細くドアを押し開けてみた。
「主将がなぜ貴様らに会う必要がある!? 神聖なる武道場から、さっさと立ち去らんか!!」
騎道と三橋を囲み、叫ぶように野次る部員たち。手に手に、竹刀を全員が握っていた。床に叩き付け威嚇する。
騎道は、野獣じみた少年たちの中心で構えもせずに立っていた。騎道の背後を守り、三橋が周囲に視線を走らせる。
「では、待たせてもらう」
騎道は、副主将を名乗る男に断った。
割れ鐘のように耳障りに響く罵声が飛んだ。
「とっとと出て行けと言っている!!」
副主将の怒りに呼応し、男子部員全員が竹刀を構えた。
彼等には、余裕ある薄笑いさえ見え隠れする。
それも当然か。身長だけは見劣りしないが、騎道の肩幅は、野人と小娘というくらいに細く優しい。
テニスで鍛えている三橋でも、棒切れを振り回し、体のデカさを競うような彼等には勝てない。
さすがに、三橋は冷や汗を浮かべ、騎道を伺った。
「用があるのは、磯崎一人」
いや……。磯崎に尾尻を振る人間にも、聞きたいことが」
騎道の真正面。副主将の顔色を始終見上げていた一人が、突然竹刀を振り上げる。吼える気合とともに、騎道に突進する。滑らかな摺り足が、早すぎる。
「!」
すっと、その場で騎道が膝を落とす。半歩、踏み込む。
振り下ろされる竹刀。切るような風圧は、騎道の細い後ろ髪を巻き上げただけ。
完全に振り下ろされる前に、ピタリと切っ先が静止する。
「……お、お前……!?」
目を見張った瞬間、手から竹刀が落ちた。
空を握る手が返され、80キロはある体躯が空中の低い位置で、前にのめって一回転。背中から床に叩き付けられた。
低く呻き、男は大の字に伸び動けなくなった。
「……合気道……?」
詳しくは知らないが、最小の力で最大の効果を得る武術。
騎道のしたことといえば、踏み込む敵の懐に潜り込み、腕を支点に腰を軽く突くことで重心を崩し、一瞬で投げた。
さっと、緊迫した空気が流れる。
同じ武術を極めようとする者として、その場の全員が騎道の動きの意味を見取っていた。
彼等の警戒を煽るように、騎道は転がった竹刀に手を伸ばした。
「どうぞ? 磯崎が来るまで、時間がありそうだ……」
酷薄な誘いが、柔らかな声音で促される。
……得体が知れない……。
騎道が秘めるものへの恐怖が、その場の全員を震え上がらせた。騎道の隠す怒りが、伝わる瞬間だった。
怯みながらも、多勢に力を得て、徐々に竹刀を握り直す。
己を奮い立たせる、長い長い気合い。繰り返される中、一人、二人と騎道へと突進する。
「三橋! 離れるな!」
彩子は喉を鳴らし、息を飲み込んだ。
両眼に灯った、獰猛な苛立ち。騎道の集中が、彼を変化させていた。
騎道の呼び掛けが、三橋を励ます。三橋は騎道の唯一の死角、真後ろだけをカバーすればよかった。あとは、すべて騎道が、一撃二撃で打ち倒す。
「!」
彩子は扉を閉じ、背中を張り付けた。
渡り廊下を近付いてくる、数人の足音。
彩子は竹刀を握り締め、一歩前に出た。ちらりと見えた姿は、全員が剣道着、面と竹刀を抱える女子剣道部員だった。武道場から聞こえる異様な奇声に、全員が足を早めている。
「沢木先輩……」
彩子は迷った。女子剣道部長の沢木逸美。細面の美少女は、やや線の細い体だが、毅然とした態度、沈着な思考をもっていた。
女の彩子も見惚れる、人望厚い女子生徒だった。
沢木とやり合うのは気が引ける。だが、筋の通らない殴り込みを、彼女が黙認してくれるとは思えない。
「何の用かしら? 飛鷹彩子さんだったわね?」
憧れのセンパイに名前を覚えてもらっている。などと、浮かれている場合ではない。
「あのっ……。! ひっ」
ドアに押され、彩子は何かに突き飛ばされた。
女子部員たちが、悲鳴を上げて飛び退く。
転がり出てきたのは、打ちのめされ呻き転がる男子部員の一人だった。
「すまん! 彩子ちゃん」
三橋の声で我に返り、彩子は手を広げ体で扉を塞ぎ直した。女子部員たちの白い視線が、彩子に集中する。
「……。速く運んでやりなさい」
沢木が、同情のない冷えた声で指図した。
「どういうことなの、飛鷹さん?」
彩子は覚悟を決めた。
「理由は、男子部主将の磯崎さんが来てから話します」
「磯崎は、まだ来ていないの?」
思案する沢木に、女子部員が答えた。
「そんなはずはありません。いつも磯崎主将はかなり早くに鍛錬を始めています」
「おかしいわね……」
顔を曇らせる沢木に、彩子は嫌な予感がした。
「一緒に登校なさる秋津会長は、すでに生徒会室にお着きでしたが」
……秋津静磨。磯崎に命令できる、絶対者。
静磨の名に、沢木は微かに顔を上げた。
「お願いです。中の二人の、やりたいようにさせて下さい」
彩子は咄嗟に頭を下げた。
「二人……ですって?」
耳を疑うのは沢木だけではなかった。
「あなた、心配ではないの?」
意外な質問に、彩子は答えを見失った。
「二人きりで、あの多勢を相手にするなんて。無茶なお友達ね」
くすりと笑われてしまった。どっと、背後の女子生徒たちも笑い出す。
「信頼しているのね。二人ともあなたの恋人かしら?」
目を細めて、沢木は彩子だけに囁いた。
「……そ、そ、それはっっ……」
「皆さん。勇気ある人たちの戦いぶりを、見学させていただきましょうか。滅多にない目の習練になるでしょう」
彩子は迷った。中がどうなっているのかわからない。
形勢不利なのか、大優勢なのか。緊迫しているのか。
沢木たちを通して、彼等に不利になるまいか?
「! ……学園長代行……」
彩子の呟きに、女子生徒たちが振り返る。さっと道を開け、長身痩躯の青年を彩子の目前へと通した。
彩子が立ち尽くしているため仕方なく、というように、凄雀は立ち止まった。
「……どうして、ここにいらしたんですか?」
なぜ、わかったのか、本当はそう聞きたかった。
「騎道に話がある。通せ」
厳しい言葉に、彩子は嫌な想像ができて動けない。
「騎道を、どうするんですか?」
また力で、頭から押え付ける……?
「奴の一番知りたい情報を持ってきただけだ」
一番、知りたい……?
一点の変わりもなく、厳しい凄雀の横顔。
彩子は自分から身を引いた。扉を押し開ける。
乱闘の残響が飛び出してくる。
「! ……彩子ちゃん……。役立たずな子ねっ。
なんちゅー奴、いや、人、お通しすんのよ……?」
三橋が、肩でぜいぜいと息をつきながら軽口だけは叩く。
彩子には言い返す気持ちの余裕はなかった。武道場の壁際には、体を折り、痛みに呻く男たちが転がっていた。
まだ体力の残る部員たちが、道場中央で、騎道と三橋を遠巻きに円陣で囲んでいる。踏み込んできた青年に気付き、慌てて竹刀を下ろし一礼した。
凄雀は打ち据えられた男たちを一瞥した。
沢木が、唖然とし、部外者の乱行に憤慨する女子部員たちを制し、怪我人を運び出すよう命じた。
円陣の中で、背を向けたままの騎道。動かない肩、竹刀を握ったままの手に、凄雀に対する苛立ちがあった。
凄雀の目前に、副主将が駆け寄る。
「どうだ? 目先の変わった鍛錬になったか?」
目を見張り、副主将金井は大柄な肩を上下させた。
「はっ……」
答えようのない顔色が青くなる。
振り返った騎道は、凄雀の詭弁にさえ口元を引き締め、冷ややかな目をした。収まるどころか、乱闘でさらに怒りを増長させる騎道に、三橋は肩を叩いてやった。
「……お見苦しい所を、恐縮です」
「これで終わりか?」
「は?」
「お前たちは力尽きたのかと聞いている」
「いいえ! 可能です。……彼に、異存がなければ」
「では、続けろ」
騎道の意志など眼中に無い。闘犬に合図を送るように、凄雀は促した。
騎道は、闘志を燃やし竹刀を握り直す金井にではなく、凄雀が敵であるかのように向き直った。
「三橋。あんたは戦力外よ。騎道の足でまといになるだけ」
「……悔しいけど、その通りですっ。
あいつバケモノだよ、彩子ちゃんっ。強くて怖くてアブナくて。全然、息が切れてないんだぜ?」
笑えない褒め言葉だ。本当に、騎道は涼しい顔をしている。頬を上気させているが、疲労は見えない。それどころか、面倒な話だと言いたげに、ゆっくりと道場中央に足を運んだ。
金井は竹刀を騎道に向ける。体を前後に揺すりながら、吼える気合いを繰り返し、残る部員を鼓舞した。といっても、彼自身、数ヶ所の打ち傷を造っている。
騎道の方は、痛みを堪える仕種もないので、ダメージが全く計れない。
決着は見えていた。3分も待たず、最後の一人、金井は騎道の胴を受け、武道場中央にがっくりと膝を付いた。
「そこまでだ」
凄雀の低い声が、静まり返った武道場に響いた。
見守った全員が、緊迫感から解放され、大きく息をつく。
悔しさに顔を歪める金井の前に、凄雀は立った。
「主将の磯崎が亡くなった。自殺だそうだ。
早く行ってやれ」
女子部員から、泣き声が漏れ出す。
堰を切ったように、呆然と座り込む男子部員たちも、困惑の呻き声を上げた。




