舞って火に入る冬の雪
十二月某日の夜。西日本の北方に位置するとある政令指定都市。
その日は例年通りに明け方から延々と雪が降っており、しんしんと降り積もる雪は大地や路面を白く覆い尽くし、街の明かりに照らされながら風に舞い踊るが如く飛ぶ様子はまさに"風の花"と呼ぶに相応しい神秘的な光景と言えた(何? 風花は晴天時の日中に起こる現象であって日没後のそれは違うって? ……今はどうでもいいじゃねぇか別にそんなこと!)。
連休を控えているのもあり、街道は多くの人々――家族連れやカップル、友人・同僚同士のグループや単独の者、またそれらを相手取る商人・サービス業者達――で賑わっていた。
そして、そんな誰もが楽しげに過ごす街道を、寂しげにとぼとぼ歩く一人の女。
「はぁ、わけわかんないわ……何であたしばっかこんな目に……」
顔立ちと体格からして二十代の黄色人種であろうその女は、名を胡子世津子と言った。俳優という夢の為、親元を離れさる名門大学に通う女学生である(という事にしておいて頂きたい)。容姿や学力など凡そ殆どの点に於いて普遍的な彼女は今現在、とても深刻なある悩みを抱えていた。
その悩みとは即ち――
「次の仕送りまであと一ヶ月もあるなんて……どうしたらいいのよ……」
この台詞から読み取れようが、金欠である。
しかも財布の中身はおろか、銀行の預金残高さえも皆無という、冗談のような有様であった。
「……何でよっ……何でこんな事になるのよっ……」
尚も雪の降り続ける街中を歩きながら、胡子は一人虚しく怨嗟の言葉を口にする。今にも身体から黒く濁った障気の如き何かが出て来そうな雰囲気の彼女を、道行く人々は恐れ、蔑み、気味悪がり、近寄りたくないと避けて歩き、見るのも嫌だと目を逸らす。だが当人はそんな周囲を気にも留めず、ただひたすらに家路を急ぐ。
都心からさほど遠くもない位置に立つ、一件の寂れた安アパート。その二階の一室が、胡子の自宅である。
「……ただいまぁ……」
気の抜けきったような言葉に、返す者など居る筈もない。胡子は暗く寒い部屋にフラフラと上がり込み、コートを着たまま照明や暖房もつけずに(というよりは"つける事も出来ずに"と言った方が正しいか)床へ俯せに寝転がる。
「はぁ……終わった……終わったわ……明後日は大家が家賃の集金に来る日だし、これ以上滞納したら次こそ絶対追い出される……」
生気の感じられない呟きは、胡子の身体へのしかかる絶望が彼女に無理矢理吐き出させたかのようであった。
さて、そろそろこの胡子世津子という女の余りにも馬鹿げた真実と呆れて言葉も出なくなるような現状について解説すべきだろうか。
まずこの女、冒頭で"俳優を目指し大学に通う女学生"と説明したが――直後の括弧書きから気付いた方も多かろう――その肩書きは全くの嘘である。否、厳密に言えば"全くの嘘"ではないかもしれない。というのも胡子はほんの五、六ヶ月前までは確かに"女学生"だったのである。然し彼女は大学に通い始めて間もなく『努力などするだけ無駄。楽に大金を手にしうる者こそ勝者』と考えるようになってしまう。そして講義に出るどころか大学に近寄りさえしなくなった彼女は、代わりにある場所へ入り浸るようになった。
賭場である。
競馬、競輪、競艇等の公営競技、スポーツ賭博、富籤等の賭事から、賭け麻雀や自動球遊器等といった博戯に至るまで、彼女はあらゆる賭博の為に金――両親からの莫大な仕送り――を注ぎ込んでは浪費し続けた。
賭博の才能というものがあったのか、或いは単に運が良かった為か、胡子の勝率はかなりのものだった。最もそれは、胡子が元来他人を欺き利用する術に長けた人物であり、対称的に揃って温厚な正直者で人がよく他人を疑わない両親の元に生まれて来れた(そして、そんな両親から効率的に金を巻き上げることができていた)というのが大きいのであろうが。
然しそんな生活が長続きしなかったのは言うまでもない。胡子の幸運は三か月ほどで絶頂期を迎え、それ以降は下降の一途を辿ることとなる。然し当人はそれに気付かぬまま、仕送りだけでの賭博生活を続行した。
やがて住んでいるアパートの家賃も払えなくなる。大家を欺き集金をやり過ごそうとするもまるで歯が立たず、電気・ガス・水道を止められた挙句『戻して欲しくば今まで滞納した家賃の全額と私への慰謝料として五千万支払え。それが出来ないなら出ていけ。今月も家賃を滞納するようなら問答無用で追い出す』と警告されてしまう。
そこで一念発起した彼女は、今月分の仕送りをどうにか五千万にしようと画策。当たりが出やすいと噂のとある自動球遊器店へと足を運び――あっさり負けた。否『負けた』というより『吸い取られた』と言うべきか。それ程に酷い負けようであった。
手持ちを使い果たし絶望に暮れる胡子であったが、ここで彼女の視界に思わぬものが映り込んだ。
店側が設置した銀行ATMである。
それが罠であることは火を見るよりも明らかだったが、胡子は藁をも掴む思いで親からの金を落としては銀玉と交換し、それらを無駄にしていった。
そしてその結果が如何なものであるかは、今更説明するまでもないであろう。
「……」
冷たい暗闇の中、胡子は一人寝転がったまま何も喋らない。今まで他人を欺き利用して生きてきた。身内も、クラスメイトも、教員も全て。これからもそれで上手く行くと信じていた。あの大家は少々予想外だったが、それも今日中にどうにかできると考えていた。
なのに、この有様はなんだ。哀れとしか言いようがないではないか。
「(こんな事だったら真面目に大学行っておけば……いや、そんなことない。努力なんてするだけ無駄なのよ。楽して稼げる奴が勝者だもん……)」
ここまで追い詰められて尚も自分の生涯こそ正しいと信じて疑わない胡子は、この状況をどうにかすべく行動を開始する。
「(幸いにもスマホはまだ止まってない……なら、やるっきゃない!)」
スマートフォンを起動した胡子は、ひたすらにあるサイトを目指す。
「(あった、『ラブ☆シックス』! 出会い系界の生ける伝説と名高い鋼要弾が至高の出会い系と評した、確実性・安全性ナンバーワンの最強出会い系サイト! ここでいい感じの金持ち男を引っ掛けて一気に逆転してやるわ!)」
かくして『ラブ☆シックス』への登録を済ませた胡子はその後何やかんやあって一人の美形青年実業家と出会い、瞬く間に親密な関係を築き彼の自宅で同棲するまでに至る。
何もかもが順調だ。このままの調子なら賭博なんてしなくたっていいかもしれない。胡子はそう思っていた。そして更に手っ取り早く青年を我が物とすべくとんでもない作戦に出る。その作戦とは――
「いっぱい出してね♪」
所謂"既成事実"の作成である。より分かりやすく言うならば、自ら青年の子を孕む事により強制的に結婚(世にいう"デキ婚"とか"授かり婚"とかいうもの)へ持ち込み法的な夫婦になってしまおうと考えたのである。しかもより確実性を増すべく、避妊するかのように見せかけて避妊具に細工をするという念の入れようであった。
そうして念を入れた甲斐もあってか胡子の腹には青年の子が宿り、後に二人の結婚が正式に決定された。彼女の妊娠を知った青年は慌てる様子もなく寧ろ異常とも思える程に喜んでいたが、胡子改め世津子にとっては至極どうでもいいことであった。
また、妊娠発覚を皮切りに世津子の身体は常軌を逸した変化を見せるようになる。
以下はその一部であるが、
・体調が悪くなると口ぶりや顔つきが別人の如く豹変する。
・度々意識を失い記憶が飛ぶようになる。
・乳房や腹が一日から三日おきに不自然な膨張と萎縮を繰り返す。
・枯れ枝や生きた小鳥を素手で掴んで貪り喰う等の奇行に走るようになる(当然その時の記憶はない)。
・子宮内で胎児が激しく動き回った余波で、膨らんだ腹が有り得ない変形をする(然し自覚はない)。
最早怪異と定義すべき状況なのは言うまでもないが、如何せん自覚も本人への負荷もまるでなかった為、世津子はこれらを気に留めず自分の主観に則って好きなように生き続けた。そもそも悪阻の症状が出始めたのが行為の翌々日である(通常は早い場合でも四週間後)という時点で何かしらの異常を疑うべきなのだが、不完全な知識しか持ち合わせていなかった彼女は病院に行きすらしなかったのである。
そして妊娠発覚から11日が過ぎたある朝――"その時"はやって来た。
「……――っ、ぃうっ!?」
その日世津子を目覚めさせたのは、凄まじいまでの陣痛であった。
「ひぐ、ぅあぅ、いぎぃぃぃぃぃっ!?」
痛みを何とか和らげようと絞り出された世津子の声は家中に響き渡り、彼女の傍らで寝ていた青年はおろか大豪邸に住まうあらゆる人々をも叩き起こし、二人の寝室へと呼び集めた。
「一体何事だ!?」
「どうしたというの!?」
「ああ、父さん母さん! 聞いてくれ、遂にこの時がやって来たんだ!」
「な、何ですって? という、ことは……」
「……まさか、産まれるのか?」
「ああそうさ、そうだとも! 産まれるんだよ、新しい命が!」
「何てこった……こいつはスゲェぜ」
「ああ、俺や兄貴達の代じゃ成し得なかったことだからな……」
「正直、今回も失敗なのではないかと思っていたが……杞憂だったようだね。良かった……」
「ああ、坊ちゃん……」
「奇跡だ……奇跡が起こったのだ……」
青年の家族や使用人達は揃って世津子の妊娠を奇跡だ希望だと讃え喜んだ――当の世津子自身に対しては労るどころか視線さえ向けようとはしなかったが。
「(ぐっ……痛い、苦しい……誰か、助っ、けてぇ……)」
暫くして、横倒しになった鶏卵のように膨れ上がった世津子の腹が激しく蠢く。
「ぐぎぅっ!」
それに気付いたのか、青年やその家族、使用人達が床を取り囲むようにぞろぞろと集まってくる。しかしその視線は世津子ではなく、彼女の胎内に宿る児に向けられていた。
「ああ、見て頂戴! 今にも産まれそうよ!」
「おお、本当だ! 初孫だ! 儂らの初孫だぁ!」
「三百年の苦労が漸く報われる……」
「大願成就せり! 大願成就せりっ!」
「おお、よもや今生に新たなるご子息の誕生を見届けられようとは……」
その後も胎児は頻繁に激しく蠢き、その度世津子は苦しみ悶え、蠢く腹を見た家の者達は喜び騒ぐ。部屋の空気は滲み出た狂気に染まり、世津子の苦痛は加速度的に増幅されていく。
もう限界だ。こんなの耐えられない。気が狂いそうだ。誰か殺してくれ。いや、もういっそ死んでしまいたい。
余りにも凄まじい苦痛に、世津子は「死んででもこの苦しみから逃れてしまいたい」と思うようになっていた。そして意を決して自らの舌を噛み切ろうとした、次の瞬間――
それまで世津子を苦しめていた激痛が、嘘のようにサッと消え失せた。
「……! ……?」
一体何が起こったのか。まるで検討もつかなければ、そもそも自身の現状を理解することさえままならない程に世津子は混乱していた。
やがて彼女は徐々にだが落ち着きを取り戻していく。
「(私……助かった、のよね?)」
痛みはおろか違和感さえ完璧に消え失せたことで安心しきった世津子は、恐る恐る瞼を開き――
「――!?」
この世のものとは思えぬ衝撃の光景に、思わず絶句した。
「おお……産まれた……遂に産まれたぞっ! 皆、見えるか?」
「ええ……見えるわっ! 可愛い可愛い赤ちゃんがっ……」
「ああ、本当に可愛いなぁ……」
「しかも女とはな……」
「名前は何がいいかなぁ……」
「まるで夢のようですじゃ……」
「されどこれは現実……おお、何と素晴らしや……」
世津子の周囲を取り囲んで喜びに沸き立つ一家。その視線の先にあったのは、恐らくそれまで彼女の胎内に宿っていたのであろう"児"――と、思しき何かであった。
中型猫ほどの大きさをした、少なくとも有機生命体である事は確かであろうそれは、凡そ人間の腹から生まれてきたものとは到底思えないような異形の姿をしていた(詳細は後述するが、少なくとも一般的な感性の人間が見て『可愛い』と思えるような外見ではない)。
「ぅく、ぷ? ゎぅい、はゅ?」
ムカデとも魚ともつかない角錐型で節足が無数に生えた太短い胴体に、イモリのようでもネズミのようでもある毛のない醜い頭を連結し、更に身体の数か所から細長い触手の束を生やしたかのような――青年一家の発言に基づくに女児であるらしい"それ"は、世津子の胎内よりするりと姿を現し、乳幼児か小鴨のような声を上げながら辺りをきょろきょろと見回している――産みの母である、世津子と間近に対面しながら。
そしてそんな"娘"と対面した世津子は――
「――あ……――な、なに――……これ……っ……!」
混乱と恐怖の余り声を震わせ、
「い、や……! いやあ……なによ、なんなのよっ……!」
金縛りにあったかのように動けない体を、
それでも何とか動かしどうにかこの場から逃げ出そうとしながら、
「や……や、やあっ……こんな、こんなのっ――」
それすら叶わないという、行き場なき絶望――余りの凄まじさに噛み締めることさえ到底不可能なそれを、ならばせめて吐き出させてくれと言わんばかりに――
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!」
叫んだ。咽が掠れ裂け、血が噴き出しそうになるほどに。
だが――
「ああああああああああ――」
「五月蠅いよ」
「あばっ!?」
その叫びは、顔面へ叩き込まれたたった一発の拳によって止められてしまう。
その拳の主というのは、事もあろうに嘗て世津子を愛し、彼女の為に全力を尽くしてくれた(のだと、彼女自身は思っていた)筈の夫――即ち青年であった。
「あぐ、がぐ……」
「胎盤の付属品如きが一丁前に叫び声なんて上げてんじゃないよ、喧しいな」
衝撃で思うように口が動かない世津子にただ冷たく言い放った青年は、手や衣服が汚れるのも構わずに産まれたての"女児"を優しく抱き上げ語りかける。
「さあお嬢ちゃん、そろそろお風呂に入れてあげようね」
「名前もつけてやらねばならんな。飯や服、寝床の用意も急いでやらねば……」
「そうねぇ。無事に産まれてきてくれたことが嬉しすぎてつい忘れかけてしまっていたけど、これからやることがウンと増えるんですものねぇ」
「頑張っていかなきゃな。この子のことも、それ以外のことも」
「そうだね。この方法で次の子孫を増やせると分かった以上、もっと研究に研究を重ねなきゃ」
「忙しくなりますな。嬉しい事です」
などと語らいながら"女児"を抱いた青年とその家族、また家の使用人たちは次々と部屋から去って行った。胎内より女児が抜け出てそのまま放置された世津子だけが、気絶したままその場に放置されている。やがて彼女は意識を取り戻し、現状の全てを理解した。そして『この後自分は一体どうなってしまうのだろう?』などと不安がっていると――
「坊ちゃま、"あれ"はどう致しましょうか」
「"あれ"というと、何だい?」
「此度の計画にて坊ちゃんがお使いになられた"胎盤の付属品"でございます。幾ら何でもあのままにしておくのはどうかと思うのですが」
「ああ、あれかい? 外にでも捨てておいてくれないか。どうせもう使い物にはならないんだ、生かしておく必要なんてないし、殺す手間さえ勿体ないよ」
「畏まりました」
壁の向こう側から聞こえてきた三人の話し声に、世津子は耳を疑った。
「(どうしよう……このままじゃ私、家の外に捨てられちゃう!)」
季節は12月の下旬。ここ最近外は雪続きで、既にかなり積もっていた筈だ。そんな所へ薄手の寝巻き姿で放り出されでもしたら瞬く間に死んでしまう。
「(そんなの絶対に嫌っ! 何としてでもここから抜け出さなきゃ! そして警察にこの事を話して、こいつら全員豚箱にぶち込んでやるのよ!)」
逃げ出す決意を固めた世津子だったが、然し彼女は直後にそれがまるで無意味であることを思い知った。幾ら力を込めても身体が動かないのである。
「(え!? な、何これ……何で動かないのよ!?)」
手足やその指はおろか、目や口さえも動かせそうにない。ただ呼吸だけはどうにか可能であり意識も保たれていたが、その他は一切の行動が取れずにいたのである。
そして、動けぬ世津子の元へ足音が迫る。世津子はその主を視認することこそできなかったが、先程の会話は聞こえていたため何者なのかはすぐに見当がついた。先ほど青年の命令を受けた使用人である。
「さて、と……こりゃ中々どうして、運ぶのが大変そうだな」
まるで箪笥かゴミ袋を扱うかのような口ぶりで、使用人は寝転がったまま動けない世津子を担ぎ上げ、そのまま雪の降る屋外へ繰り出した。
暫く歩き続けた使用人は、やがて人気のない場所で立ち止まる。彼の眼前に広がるのは、冬でも水面が凍結しない程の水量を誇る巨大な沼であった。
「よし、ここなら丁度いいだろう……」
使用人はそう呟くと、まだ辛うじて体温の残る世津子を寝間着姿のまま沼へと乱雑に投げ捨て、そそくさとその場を後にした。それは雪のしんしんと降り積もる、ある昼下がりのことであった。
程無くして使用人の読み通り世津子はあっさり溺死した。もう数か月もすればその肉は沼の生物によって食い尽くされ、骨も微生物により跡形もなく分解され消失するだろう。更に青年一家は様々な根回しを行い、戸籍はおろか人々の記憶からも世津子という女の存在を完全に消し去った。勿論、彼女を今まで甘やかし育てていた両親も例外ではない。
自らの愚かさ故にその身を滅ぼした女・胡子世津子。
目先の欲に囚われあっさり自滅した彼女の生涯はまさしく、降り積もれば辺り一面を覆い尽くし己の色に染めながら、春が来てしまえば跡形もなく消えてしまう雪のような、何とも儚く呆気ないものであった。