その5
「……ってええええ!?」
ハッと、我に返る事が出来たのは奇跡に近い。コリンの肩を掴んで全力で自らと引き離しつつ、オリヴァーは混乱から素っ頓狂な叫び声を上げていた。
「オリヴァー、こんなとこで大胆なんだね」
だがしかし、突如唇を奪われた被害者である側のコリンは、わざとらしくシナを作りながら頬に片手をあてがい、自分で「ポッ」とか擬音を口にしつつ、恥じらう演技をしている。
「いや待て、これは違っ……魔が差したってか、理性が吹っ飛んだ!」
「全然弁解になってないよ?」
そもそも、やってしまった事を『していません』と否定するのは彼の信念に反する。さりとて、『こんな事するつもりはこれっぽっちも無かった!』などという自己弁護をするのも空々しい。
どんなに偽りを口にしたところで、自分の心から逃れる事など出来ない、のだから。
けれど、何としてでもここで踏みとどまらなければならない。まだ後戻りが出来るうちに。
逃げて突き放して、曖昧に拒絶する態度を見せていたその裏側で、本当はずっとコリンにこうしたかったなど、そんな胸の内を吐露してはいけない。
「お前は丘の上でどんどん神に近付いてく。ひきかえ、俺はこれからだってずっと、死ぬまで平地で生きていく。
違いすぎるんだ。俺とお前じゃあ」
「何が違う? オレもオリヴァーも、同じようにがむしゃらに生きる人間だ」
「俺は……ガイア神が愛しんで生まれた人間じゃねえ」
ぐっとコリンの肩を掴んだまま顔を背けるオリヴァーの頬を、細い指先が撫でていく。
ああ、と胸の内で呟いた。
無いものねだりをしたところで、いたずらに自分が苦しむだけだと知っているのに。欲しいと思ってしまう。コリンからの労りと癒やしと、愛情を。
「俺は神の恩寵なんて欠片も受けてない、母親から見捨てられた、ただの……」
「関係無いよ、そんなの。
オリヴァーがオリヴァーだから、オレにとっての特別なんだから」
これ以上踏み込まれないよう引き離していたはずなのに、力が抜けてしまっていたのか、コリンはもう一度腕を伸ばして抱き締めてくる。
「世界中の誰だって、誰かの特別なんだ。
最初に言っただろ? オレにとってはそれがオリヴァーで、オリヴァーにとっての特別がオレだっただけ。オレは消えたりしないから、受け止めてよ」
オリヴァーの髪をサラリと指先で梳きながら、コリンの唇が彼のそれに覆い被さってくる。どうしても、それに嫌悪感を抱く事が出来なくて、それどころかもっともっと欲しいと思ってしまう。触れて、少しでも心に隙間を作ってしまえば、コリンはズカズカと押し入ってきて堂々と居座って立ち上がろうとしない。
我知らず、オリヴァーはコリンの頭に手を回して押さえつけ、より口付けを深めていた。
(なあ。もういっそ、ずっとそこから動かないで、出て行くなよ)
「んー! んむっ!?」と、どこか苦しげに呻く声が耳に届くが、オリヴァーは伊達に毎日毎日歩き詰めや走り回って仕事をこなしている訳ではない。余裕綽々で『向こうから仕掛けてきた口撃』に立ち向かっていたところ、「あー、ゴホンゴホン!」と、わざとらしい咳払いが無粋にも雰囲気をぶち壊そうと割り込んできた。それも、複数。
「あん?」
「ケホッ……」
せっかくいい気分でいたのを邪魔してきた虫はいったいどこのどいつだと、不機嫌に咳払いが聞こえてきた方を睨み付けるオリヴァー。ようやく解放されたコリンはというと、やっと満足に呼吸が出来るようになって、幾度も深呼吸を繰り返しながら、グッタリと彼にもたれ掛かった。
「あー、ミスタ。
聖なる祈りの地の門前でこれ以上不謹慎な真似を行うようならば、引っ立てさせて頂く」
「神子様、いったい何をなさっておられるのですか!!」
大神殿の門番を務める聖騎士、その彼らが額に青筋を立てながら苦情を口にしている。
うっかりここがどこであるかを失念してしまっていたオリヴァーは内心、(やっべぇ~)と呻き……ついで、腕を引っ張り上げてやり共に立ち上がったコリンを見下ろし、オウム返しに呟く。たった今、何か恐ろしい台詞を小耳に挟んだ。
「……みこさま?」
「ああ、それ、オレの事。
実はオレ、まだ未分化でさ……参っちゃうよな」
人間が生まれるには、大別すると三パターンある。
その内の二つは、夫婦間に授かる子供。男性同士のカップルの場合は前述の通り、神殿に通い詰めて祈りを捧げる事で授かり、男女のカップルでは生殖行為を行う事で母親が赤ん坊をお腹に宿し育み、産む。
前者は主に平凡な庶民が子孫を得る手段であり、後者は王侯貴族などの特権階級の慣習である。男性同士の夫婦に授かる子供、その性別割合は圧倒的に男が占め、男女間の子供の性別は半々。
そして最後の一つが、『全ての生きとし生けるものの捧げられた祈りから生まれる神の子』である。彼らは性別を持たない未分化の赤ん坊として大神殿に授かり、成長するに従って男女いずれかに分化する。
生まれ落ちたその日からガイア神の深い恩寵を得ていて、強い神力を発揮する能力を持つ。男性に分化すれば最高司祭は確実、大神殿の神殿長だって夢じゃない。女性に分化すれば姫神子様と呼ばれ、各国からこぞって王妃にとの申し入れが舞い込む。
「……さらばだコリン。一時の夢をありがとう」
「待てぇいっ!」
ふいっと踵を返し、街に戻る道を下りようとしたオリヴァーの腕をガシッと掴み取り、コリンは柳眉を逆立てる。
「待てこの、さっきのき、き……を無かった事にする気か!?」
夕日ではない原因で頬を真っ赤に染め、『それ』を大きな声では口に出せずに気恥ずかしげにどもり、唇の動きだけで名称を表現するコリンの姿に、オリヴァーの胸には(やっべ可愛い)という、どうしようもなく抑えきれない激しい感情が湧き上がってくる。
傾き沈みゆく太陽は、コリンのストラを彼の知らない金色に輝かせているというのに。
「無かった事にするんじゃない……お前の輝かしい前途の前に、俺は身を引く」
オリヴァーのしおらしい台詞を要約すると、『大神殿から重要視されてるお方をどうこうしようだなんて、七面倒臭いと目に見えてる厄介事に自分から足を踏み入れたくはありません』だ。
「馬鹿やろう、そんなの関係ねえよ!
神殿での位なんかより、オレはオリヴァーと添い遂げる方が大事だ!」
だがしかし、やはりというか何というか、おつむの中身がガキんちょなコリンは額面通りに受け取って、オリヴァーの態度を『それがコリンの為になるのだから我慢している』のだと言われたとものの見事に勘違いし、『オリヴァーが一番大事!』だなどと宣言する。
参ったなあと、オリヴァーは深々と嘆息する。
何が一番困るって、それが最も己の身を守れ賢明であるはずの判断、その行動をコリンに阻止されて、けれどそれが嬉しいなどと感じて喜んでしまう自分自身の心だ。
一途に、心の底から。真っ直ぐに欲されて、きっと、この腕をもう二度と振り払えなくなる。
背後から腕を掴んで離さないコリンを省みる。
もういい加減、降参だ。
尽きることもない溜め息と共に揚げた白旗に、粘り勝ちした勝者のかんばせは、パッと輝いた。
……その蕩けるような笑顔を独占する事が出来るのなら、そうそう悪い気もしない。こうして、甘い敗北に屈するのも。