その4
勤務時間外の事であるからと制服から私服に着替え、気が進まない本心が歩みにも現れていて、オリヴァーは重い足取りで丘を登る道を進んでゆく。手にしたコリンのバスケットの中身は空っぽであるというのに、何故こうも運びにくいのか。
見上げた茜色の空は、風に吹かれて雲が流れてゆく。暑くも寒くもない、日々過ごしやすい気候であるこの季節、こんな用事でのハイキングでなければ最高であったのに。
ぐねぐねと蛇行する丘の道を登りきり、夕陽を浴びて黄金に輝く荘厳な大神殿を見上げ、オリヴァーは溜め息を吐いた。立派な門前にて槍を手に待機している、聖騎士であろう門番が二人。
聖地や各地の神殿、そして神官の守護を司る事を使命としている騎士であり、聖職者でもある聖騎士達。大神殿は神官のみならず彼らの本拠地でもある。
「ご機嫌よう、ミスタ。神殿への礼拝ですか?」
すぐ間近で、キンキラキンに輝いている大神殿をボケーッと見上げているオリヴァーに、門番の片方が声を掛けてきた。出入り口で立ち竦んで動かない部外者は怪しい。彼の返答次第では、不審者として槍を突きつけられかねない。
しかし、どこか笑いを含んだ問い掛けを真っ先にされた事からも、こんな風に神殿の美しさに見惚れるおのぼりさんは意外と多いのかもしれない。
オリヴァーはこの街に住み着いて長いが、夕刻にこの聖なる祈りの場所をじっくりと見上げる事もなくなり、いつしかわざわざ祈りを捧げに神殿へ足を運ぶ事さえしなくなっていた。
そう、母が亡くなってからは。
「あ、いえ……知人の忘れ物を届けに来たんですが、見習い神官のコリンには、どこに行けば会えますか?」
「見習い神官に?」
オリヴァーがバスケットを胸元へと持ち上げつつそう尋ねると、門番は途端にどこか胡散臭さそうなモノを見る目つきで、彼とバスケットをジロジロと眺め回す。しまった、「コリンに返してあげて下さい」と彼らに預けてしまえば良かったと瞬間的に悔やむ。
「この大神殿で修行を積む見習い神官は数多い上に、常に立ち働いている。生憎と、どこに行けば確実に会えるかは分からない」
「忘れ物とやらを、こちらで預からせて頂いても良いか?」
「あ、はい」
しかし、ありがたい事に門番を務める彼らはオリヴァーを門前払いするでもなく、あくまでも事務的に事を進めようとしてきた。これで要件が片づくのならば幸運だと、素直にバスケットを提示する。
バスケットを受け取った門番は、中身を確認して不審な物が入っていないかどうか改めるも、それは空っぽであるし、籐を編んだ単なるありふれたバスケットである。
「ふむ……持ち主は見習い神官のコリン、だったな。それで、君の名前は?」
「え」
しかし、やれやれこれで肩の荷が下りたと心は自宅へと羽ばたいていたオリヴァーだったのだが、門番から不意に名を問われて言葉に詰まった。しかし彼とて、詰め所に落とし物が届けられたら、対応時に届けてくれた人の身元を確認しておく。
「ぜ、善意の配達人……じゃ、駄目ですか?」
せっかくコリンに会わずに事が済みそうであるというのに、ここでオリヴァーが名乗って彼がわざわざ届けに来た事を知られたら、あのガキんちょは益々内心での妄想が盛り上がるに違いない。だからなるべく知られずに済ませたいのに、門番さん達がオリヴァーを見る目つきに不信感が募りはじめている。
「いやあの……」
「……おーりばぁぁぁぁっ!!」
この場を切り抜けるには、やはり正直に名乗るしかないのかと観念しかけたオリヴァーが、頭をかきながら渋々と答えようとしたまさにその時、神殿内から聞き覚えのある声が響いた。惨めったらしく語尾を伸ばしながら、門から飛び出してきたのは間違いなく、昼間喧嘩別れしたコリンである。
オリヴァーは一瞬躊躇ってから、そんな結論に落ち着いた事には特に深い理由もないのだが、ともあれ思わず逃げ出そうとクルリと身を翻した。
しかし、危険の察知やスタートダッシュへの移行が遅れたせいで、猛烈な勢いで駆けてきた敵に背中からタックルされ、坂道でたたらを踏んでしまい……バランスを保てずに、背後霊を巻き添えにしながら敢えなく転んだ。その勢いを上手く殺せず、オリヴァーは咄嗟にガキんちょの小柄な身体を腕の中に庇い、ゴロゴロと坂道を転がり落ちる。
幸い、丘の頂上付近にまで登れば蛇行した道は傾斜が緩やかになっている為、三回転程で止まる事が出来た。
地面にあちこちぶつけてしまった身体の節々が痛むのを覚えながらも、オリヴァーは腕の中に抱え込んだコリンの顔を覗き見る。怪我は無いだろうかと素早く視線を走らせていると、転がっている間はギュッと目をつむっていたのであろうコリンは、長い睫毛を揺らしてパチリと瞼を開いた。
真夏の日差しに輝く、街路樹の葉のような美しく澄んだ翠。思いがけず、至近距離で見つめ合う形になってしまったコリンの瞳が、次第に潤む。訳もなく焦りが込み上げてきて、オリヴァーはあたふたと慌てながらコリンの背中に腕を回して上半身を起こした。
「お、おい、どうした、どっか痛いのかコリン?」
怪我をしないように、痛い思いをしないように。全身で出来うる限り守ったつもりだった。それでも傷を負わせてしまったのだろうか。
コリンはその白い両腕を伸ばして、オリヴァーの首を巻くように絡める。そしてその細腕からは想像もつかない万力のような馬鹿力で、ぎゅむ~っとしがみついて締め付けてきた。
「ぐぇぇぇっ!?」
「わ~んっ!
オリヴァー、オリヴァー、癇癪起こしたオレが悪かった! だから捨てないで~っ!?」
「放しやがれこのガキャァッ!?」
地面をダムダムと叩いて苦しいと訴えながら叫んだら、なんとか腕の力は弱まった。
いつの間にやらちゃっかりとオリヴァーの膝の上に横座りしながら、コリンはこちらの様子を窺うような上目遣いで見つめてくる。
オリヴァーは思わず、「うっ」と呻いていた。
馬鹿な妄想を騒ぎ立てて、周囲に煽られながら特攻してくるコリンからは逃げ隠れすれば良い。真っ向から「恋人になって」と言われれば、けんもほろろに断る。
しかし、しかし……だ。
普段ぎゃんぎゃんと喚いている口を閉ざし、ウルウルと潤んだ眼差しで何かをねだるように、間近からじっと見つめられると……オリヴァーの心臓は否応無しに高鳴った。
黙ってさえいれば、口さえ開かなければ、ハッキリと断言してしまえばそう、コリンは可愛いのだ。
心の奥底まで絡め捕られる視線を逸らしたくても、コリンの腕は彼が顔を背ける事を許さない。理性では抑えきれない何かが吸い寄せられる。その、透き通るような翠の輝きに。
柔らかい。触れ合ったそれはとても。
胸に広がる、空虚だった何かが満たされていく感覚は、今まで味わった事の無い……コリンが息苦しそうに、ややくぐもった小さな喘ぎを漏らした。