その2
人は、神に捧げる祈りから生まれ落ちる。
多くの民は、婚姻を誓い合った男性同士の夫婦による祈りによってだ。神殿や祠に十月十日間の祈りを捧げた後、主神は夫婦に赤子を授けて下さる。文字通り、赤ん坊は何もない虚空から降って湧き出てくるのだ。
その性別は、99.9%強が男子。およそ千人に一人生まれるか生まれないかの女子は、専門の学校に通う事が義務付けられており、長じた暁には身分の上下を問わずひっきりなしに求婚話が舞い込んでくる。
神ならぬ身で赤子を生める女子は、主神からの恩寵がより深い人間であるとされている為だ。
そんな神々を祭る聖職者は、当然ながら高貴な身分の方々が務める事が多い。
貴族豪族に生まれたからには、将来は国家の官僚か神官になるべしとばかりに、金にモノを言わせた人々が神殿の門をくぐり神のしもべの道を歩む。
オリヴァーはバスケットを手にしたまま、いつもの巡回コースに戻った。
街門から大神殿へと続くメインストリートは今日も、巡礼に訪れた者や近隣から集まる商売人、街の住人などなど人波でごった返している。活気溢れる雑踏を見回りつつ、巡回で必ず立ち寄る店を訪れた。
昼間は定食屋、夜は酒場に早変わりするこの店は立地条件も良く、いつ来ても席が満員な人気店だ。
だが、この店が客を惹き付ける真実の要素は立地でも料理の味でもなく……
「あら、オリヴァー! いらっしゃい」
看板娘のマリアンの存在だ。そう、看板息子ではなく、正真正銘この店の『看板娘』なのだ。
「よ、マリアン。変わりはないか?」
「何もないわ。今日も大忙しよ! 巡回ご苦労様」
にっこり、と向けられる笑顔に、周囲の客のみならずオリヴァーの頬も思わず緩む。
やはり女の子という生き物は、とても可愛らしい。むさ苦しい野郎共には無い、ふわふわとした柔らかくて甘い菓子のような雰囲気も、いつ会っても鼻をくすぐるほのかな芳香も、穏やかで癒される甘い声も。
しかしそろそろマリアンも年頃であるし、さるやんごとない身分のお方からお声が掛かっているとの噂もあり、もうすぐこの笑顔が見られなくなると思うと、オリヴァーとしても残念で仕方がない。
マリアンはふと、彼女に見惚れて癒されているオリヴァーの背後に視線を巡らせて、か細い首を傾げた。
「あら、今日はあなたの相方君は一緒じゃないの?」
「だからコリンは、俺の相方じゃねぇっ!?」
殆ど脊髄反射並みにマリアンに向かって強く否定したオリヴァーは、彼女の楽しそうな笑みにようやく失敗を悟る。
「やぁだ、私はコリン君の名前なんて、ひとっ言も口にしてないのに~」
ぐぐぐぐ……と、反論出来ずに口ごもり、ここでもあれこれとからかわれそうな気配に、オリヴァーは早々に店からの撤退を決め込んだ。
「じゃあ、巡回の途中だからっ」
「今度は『相方じゃないコリン君』と一緒に来てね」
店のドアをくぐるオリヴァーの背を、マリアンの華やいだ見送りの言葉と常連客の遠慮の無い馬鹿笑いが追い掛けてきたのである。
せっかく癒されに向かったはずが、逆に疲労を蓄積してしまったオリヴァーは、昼休憩と決め込んで中心部に噴水が据えられた大広場の片隅で建物に背を預けてバスケットを開く。いつなんどき、事件が起こらないとも限らない。よって、とっさの対応が利くような体勢を保持。
エイクリードの街の衛士の制服、その息苦しい喉元を少し緩め、バスケットに片手を突っ込み崩れたサンドイッチの具材をパンで挟みながら口元に持っていく。広場の様子に目を光らせながら、一口齧る。
「……美味いんだよな、これが」
聞くところによると見習い神官の日々の修行は厳しいものらしいが、コリンは愚痴らしい愚痴を零した事すら無い。
ただ本当に、オリヴァーを追い掛け回して「恋人になってくれ」と戯言を叫び、衛士の詰め所で待機中や巡回中に現れては、馬鹿話をして差し入れを押し付けて、「また会いに来るね」と神殿に帰ってゆく。
そんなコリンの存在は、本当に困る。オリヴァーに開けっぴろげに好意を示し、「オレを好きになって」と搦め手も仕掛けず真正面から迫ってきて、そして……
「……どうせ大神殿でどんどん出世して、俗世間の庶民なんぞと口をきく事さえ無くなるくせに」
オリヴァーが巡回中に食べられるように、栄養がとれるようにと、野菜や肉や玉子など、様々な具材を挟んだサンドイッチを作ったり、「大神殿の中を毎日掃除してんだぜ? オレは掃除が得意中の得意だ!」と、わざわざ詰め所の中を磨き上げていったり、巡回中のオリヴァーの後をついて回り街中を観光して、住民と親交を深め直接一般市民の声を神殿に届けたり。
主神ガイアに仕える人々は人と人との繋がりとは尊いものであると教え、愛情や恋情を誰かに抱く事は自身の成長に繋がると説く。だから当然のように神殿は愛し合う者同士の婚姻を見届け、神のしもべたる神官は最愛の伴侶を探す事を人生における命題とする。
……そしてコリン曰わく、オリヴァーこそがその『自らの最愛の伴侶』なのだそうだ。世間の酸いも甘いも噛み分けていないガキんちょが、いったい何を血迷っているのか。
これ以上、踏み込んでこないで欲しい。オリヴァーが、コリンが隣で笑っている事が当たり前だと錯覚する前に。
『これでお終い』だと、はっきりと別れを告げて欲しい。それが具体的にはいつなのかも分からない、ある日気が付けばふっつりと姿を見せなくなってもおかしくはないような、曖昧で一方的な再訪を予感させる言葉などではなく。
コリンなんて、貴族のお坊ちゃまらしく、威圧的で高慢で、一般人を見下した顔をしてくれていれば良いのに。どうして丘の上の聖職者様が、平地で人混みに埋もれて平凡に生きている、どこにでも掃いて捨てるほどに代わりがいそうな人生を送る彼に、わざわざ構いつけるのか。
「ひったくりだ! 誰かそいつ捕まえてくれ!」
せっかく物思いに耽っていたというのに、路地からそんな怒号が上がって、オリヴァーはゆっくりとバスケットを地面に置いた。
見渡せば、広場を真っ直ぐに貫く大通りを丁度爆走中の男二人組の姿がぐんぐん近付いてくる。
後ろを走る男はぽっちゃりとした小太りの男で、対する前を走る男はなかなか筋肉の付き方もしっかりした中年男。追跡者からどんどん距離を開いていく彼は、大事そうに胸元に袋を抱えていて、彼は察するに広場から網の目のように縦横無尽に張り巡らされた細い路地裏を駆け抜けて追っ手を撒こうと企んでいるらしい。
逃亡中のひったくり犯が目指していると思しき細い路地、その建物の陰に素早く回り込んだオリヴァーは、タイミングを計って衛士の制服に包まれた足を前に突き出した。
まさかそんなところに人が潜んでいるとは思わなかったのか、ひったくり犯は足をとられてつんのめり、石畳の上にズザザザザッ! と顔面から滑り込んだ。彼が胸に抱えていた袋を拾い上げながら、オリヴァーは転がった男の傍らにしゃがみ込む。
「ご機嫌よう、ミスタ。ちょっとお話良いですか?」
痛みに呻きながら何とか顔を上げたひったくり犯は、オリヴァーが身に着けている衛士の制服に目を留めて、ニコニコと笑いかけてくる彼に、観念したのかがっくりと擦り傷だらけの顔を地に伏せた。