第一章Etaj enmigrantoj
第一節
女の子がいた。
いつものように朝起きて、ご飯を食べて、村を歩いて、この家に入って・・・。それまではいつもと変わらない、なんともない朝だった。
そう、この女の子に会うまでは。
女の子は僕が入ってくるなりテーブルの足の影に隠れて、じっと僕を睨み続けている。
見たことのない子だ。明らかにこの村の人間ではない。それに、定期的に訪れる旅商人の類の子供とも思えなかった。
服はこの家の主の物だろうか。彼の愛用する黒い服をだぼだぼに着ている。履物だってかなりぶかぶかのようだ。
だけど、問題はそのあと。
髪は肩に届くかどうかといったところでバサバサに切られているし、色だって緑がかった茶色の髪だ。こんな変な色、見たことがない。肌の色だって妙に生っ白い。それこそ、ずっと社にこもって神様に祈りを捧げている祈祷師よりも白い。
でも、何よりも印象的なのは僕を見つめる大きな眼。
空と森が溶けあったような蒼い瞳。
「 Kio vi estas ? 」
初めて女の子は僕に話しかけた・・・ようだ。
高い涼やかな声音で伸びやかな言葉。最後の方はさらに高い声で言っていて随分と可愛らしい感じさえする。そう、声を・・・あくまでも声だけを聞いていればだけど。
「キ・・・キーオ、ビ・・・エスタス?」
彼女の言葉はまったくもって、僕には分からなかった。
ただ、彼女の様子は相変わらず険悪なところから察するに、あんまし良いことを聞いている風ではないようだ。「何、勝手に入ってくるの?」とか、「誰だお前は?」とか、多分そんな事なんだろうとは思う。
一方的に睨まれる筋合いはこっちには無い。それに、こう立ち往生していても事態は好転することも無い。年下に気を使う気も無い。
と言うわけで、僕は彼女をほっといて、おもむろに足を運び奥の間へと進もうとしたその時だった。
女の子はバッとテーブルの影から飛び出し、小さな両手を大きく広げて僕の前に立ちはだかったんだ。
奥の間はこの家の主の寝室となっている部屋。二十歳そこらの男が一人暮らす、一風変わった小さな家。村での仕事の為に、もう起きていてもよさそうな頃合いなのだけれど、未だその姿を見せない。多分、彼はまだ眠っているのだろう。
「 Ne !! 」
きっと、この奇妙な言葉を使う女の子の事で何かあったのかもしれない。
早く起こさないと仕事の時間になっちゃうのに、どうしたものか・・・。
女の子は明らかに僕を拒絶している。
余所者を受け入れない村の大人たちの態度とそっくりだ。
まさか、普段通い慣れたこの家でそんな扱いをされるとは思ってもみなかった。正直なところ、僕はこの女の子に小さな怒りを覚えてしまった。
でも、
「・・・・・・・・。」
それと同時に仕方の無い事だとも思えた。
この女の子が何者なのかはまるで分からない。彼女は余所者なんだもの。けど、彼女から見れば間違いなく僕の方が余所者なんだ。得体の知れない魔物と大して変わらない。
僕たちは今この場で初めて出会ったのだから。
けれど、この家の主のことはよく知っている。
村の中で一番彼と親しいのは僕だって言える。大人たちは彼を頼ってはいるけれど、少しも彼に親しみを覚えちゃいないって僕には分かる。
彼は、余所者だから―――
僕が些細な感傷に浸っているのに気づいたのか、女の子の顔がゆるんだ。
大きな瞳から微かにだけど困惑の色がうかがえる。
「・・・ルウヤさん、呼んでもらえる?」
僕は気を取り直して、この家の主の名前を口にした。
女の子は「 Ruja ? 」と首をかしげ、僕を一瞥するとパタパタと奥の間に入っていった。
しばらくすると、男がら出てきた。
湯飲み茶碗と小振りの器を載せた盆を手に持った長身の男。
この家の主、ルウヤさんだ。
やっぱり、昨日何かあったんだ。
うなじあたりまで伸びたクセのある艶やかな漆黒の髪は、いつもよりボサボサになっているし、冬の朝空のような淡く青い瞳の周りにはくっきりとクマが貼っている。血色の良い肌も何だか青白い。昨晩から眠っていない良い証拠だ。
「おはよう、ラン。待たせたな。」
ルウヤさんは僕にそう言葉をかけると、持っていた器を裏庭へ持っていった。中に入っている水か何かを捨てに行くのだろう。
僕は、家から持ってきた差し入れを長机に置いて仕事の準備に取り掛かる。
「本当だよ。あと少しで昼ですよ?」
戻ってきた彼に白衣を投げ渡す。手慣れたもんで、彼はサッとそれに腕を通す。
やはり眠いのか、大きなあくびをルウヤさんはしながらも、ちゃっかり彼の視線は差し入れの包みを捉えていた。
「母からです。このあいだはお世話になりましたって。」
「そっか。もう歩けるようになったんだっけ。」
「元気なものです。今じゃ畑にも出てますよ。僕からも、お礼を言わせてください。」
仕事のことなどそっちのけで、ルウヤさんは包みの紐に手をかけている。
まったく、僕は慌ただしく準備に取り掛かっているっていうのに!
「何言ってんだよ、ランが先に処置してたからあの程度で済んだんだ。お互い様ってものさ。それに、それが俺たちの仕事なんだから、かしこまる事もねぇって。・・・おっ!美味そうだなぁ。」
差し入れの包みを広げると、琥珀色の蜜がかけられた団子が何個も出てきた。
この村の特産、花蜜虫の蜜を使った団子。うちの母さんの得意料理だったりする代物だ。
ルウヤさんは実に美味そうに団子を口の中にポンポン放り込んでいる。
すぐに仕事が始まるって言ってるのに!!
もういい、準備は全部僕がしてやる。
「・・・ところで、何なの?あの子。」
「あの子・・・?あぁ、あの子達か。」
手に付いた蜜をしゃぶりながらルウヤさんは奥の間の方を見やる。
さっきあの女の子が入っていった部屋。あれから一向に出てくる気配が無い。
・・・それに、さっき「あの子達」って言った?
三分の一位団子を食べると、ルウヤさんは台所に向かう。楊枝を取り出し、水の入った湯飲みを二つ、それに、残りの団子を用意すると、それらを盆に載せて奥の間の扉の前に立った。
僕にこっちへ来るようルウヤさんは手招きする。中の様子も気になったので、僕は彼の横に立った。
コンコンと、片手で軽くルウヤさんは扉を叩く。僕には馴染みの無い仕草だ。
「 Maria? C^u mi eniri cambro ?」
透る声で流れるようにルウヤさんは奥の間に語りかけた。話し方からして、あの女の子と同じ言葉のようだ。
何で、この人はそんな言葉を知っているんだろう。
僕の考えをよそに、部屋の中から「 Jes . 」と、高い声で返事があった。あの女の子の声だ。
扉を開けると見慣れた景色が広がっていた。
ルウヤさんが作った大量の本。それらを入れる壁一面の大きな棚。資料が積み重なった机。それに寝台。
僕の視線はそこで止まった。信じられないモノを見たんだ。
女の子が二人いた。
布団に眠っている子と、その脇で椅子に腰掛けている子。
二人とも、さっきの女の子だ。
こんなことって、あるんだろうか。
僕の思考は一瞬、止まってしまった。
「 Kio ? 」
椅子に座っている子が、キョトンとした感じに訊ねてくる。
ルウヤさんは蜜団子が乗ったお盆を見せながら女の子たちのほうへ歩いていった。
「 Neni no mang^i vi la mang^ajo ? G^i estas plaj bongusta . 」
「 Mil dankojn . Sed mi atendi Kris , g^is si veki . Mi esperi ,Mi kaj s^i mang^i g^i . 」
・・・・・・。
まったくもって、二人が何を話しているのか分からない。
でも二人のやり取りを見ると、どうやらルウヤさんは僕が持ってきた蜜団子をあの女の子たちにも差し入れているっぽい。だけど女の子はそれをすぐに食べようとしないといった具合なんだろう。
あの女の子、ものすごくお腹を空かしているんだよな。黙っている時とか、きつく唇を噛みしめているし、目線だってルウヤさんよりは団子のほうに向かっている。唾を飲み込む音とか、こっちにまで聞こえてきそうだ。
でも、何で?
二・三回、二人は押し問答をして、結局ルウヤさんがベッド脇の小さな机にお盆を置くことでやり取りは収束した。女の子は、一向に食べる気配がない。
「ラン。・・・ラン?」
「ふぁい?」
ふいにルウヤさんが話しかける。間抜けた声が思わず僕の口からこぼれてしまった。気が付けばルウヤさんが僕のすぐ目の前にいるた。
「紹介するよ。今、起きて座っているのがマリア。」
優雅に片手でマリアと言われた女の子を示すルウヤさん。
マリアはピクッと背筋を伸ばして反応する。
「でもって、となりで眠っているのがクリス―――」
「 Ruja ! ! 」
ルウヤさんがもう一人の女の子を紹介した瞬間、マリアが突然大声を出した。
「 Vi ne kapo antau~ prezenti nin al eksterul ! Vi estas kruela !! 」
何か、ルウヤさんに必死で抗議しているみたいだ。
ルウヤさんはそんな彼女を完全に無視して笑って話を続けている。
「まぁ、マリアは怒りっぽい奴だけど根は妹想いの良い奴だと思うから、気長に付き合ってやってくれ。
昨日、森で遭難してたところを拾っちまったんだ。
詳しいことを聞いても何にも答えてくれなくてな、あとで長老にでも話して、しばらくは家に住まわせようかなと・・・! Ne !! Ne batu, Maria!!」
怒りを顕わにしたマリアは、事情を説明しているルウヤさんに殴りかかっている。随分と凶暴な女の子だなぁ。まぁ、ルウヤさんの頼みなら仕方ないか・・・。
「・・・僕は別に、かまいませんけど・・・。」
マリアにどつかれながらもルウヤさんは、ぱっと顔を輝かせる。
「そうか!そいつはよかった!!」
ルウヤさんは僕の耳元に小声でチョッとした無茶をささやいた。
「な・・・何です?それ!?」
「いいから言えって!こうすることが一番すんなりいくんだ。」
相変わらずマリアはルウヤさんの細袴を引っ張ったり小突いたりしている。
「・・・分かりました。」
この凶暴な小動物をどうにかする為にも、僕はルウヤさんの無茶を聞き入れた。
深く深呼吸する。
しゃがみこんで、マリアと目線の高さを合わせる。彼女は攻撃に夢中で僕にまるで気付いていないようだ。
「サルートン!」
怒るでもなく叫ぶでもなく、極力穏やかな大声を出して、僕はマリアに話しかけた。
マリアは動きを止めて、キッと睨みつける。
内心たじろぎそうになるけれど、ここは踏ん張りどころ。
僕は言葉をつなげた。
「ミ・・・ミーア、ノーモ、え・・・エスタス、ラン! ミー、エスタス・・・えっと、アミーコ、ポー、ルウヤさん。・・・あと何だっけ・・・・・・。エン・・・えーっと、エンチューターゴ、ミー、ラボーリ、クンリ!!・・・ミ、ぺーティ・・アミーアルビン!」
途中、かなり支えてしまったけど、どうにか言えた。
セリフが長すぎるんだよ。本当にルウヤさんは無茶を平気で人に言う。
けど多分、僕とルウヤさんの名前が出ているのと、この場の空気を察するに僕はマリアに自己紹介をして、ついでにルウヤさんとの関係とかも説明したんだと思う。
「 Amico ? Lia ? 」
マリアも険しい顔を少し緩ませてくれている。どうやら、通じてくれたらしい。
僕はほっと胸を下ろす。
だけど、
「 Kio vi pari laboron vere kune kun Ruja ? 」
鼻で笑うとは、こういう事なんだろうか。
マリアは短いため息をこれ見よがしに僕へ吐いた。
大きな目を蔑む様に歪ませ、口元をいびつに上に吊り上げて、笑みをつくる。
嘲るようなマリアの言葉。マリアの態度。
僕は目を丸くする。
それでも、マリアは笑っていた。僕を馬鹿にする。僕を見下す。
我に返った時にはすでに事が終わっていた。
「 Dolori !! Ruja, tio bati min, malgrau~ ke diris " Mi peti amico al vin."! 」
僕の右手がマリアの脳天に鮮やかな手刀を浴びせていたのだ。
マリアはルウヤさんに泣きついて何かを言っている。
女の子に手を上げたのなんて、初めてだ。
僕は彼女を叩いた右手を見つめる。
軽く痺れてはいるけれど、見た目はまったく変わっていなかった。
でも何だろ、この気分。
―――気持ち悪い。
マリアが真っ赤に目を腫らして僕を睨む。その目を見た僕は、急速にいたたまれない気持ちが込み上がる。どんなこと言われたって、考え無しに殴って良いもんじゃない。けど、
「あ・・・ご・・・」
「謝ることなんてないぞ、ラン。」
「え?・・・でも―――」
言いかけた言葉を遮るルウヤさんに僕は少したじろいだ。
眠っているクリスをよそに、僕たちの周りには何とも言えない重たい空気が立ち込めていく。
「 Maria, vi estas kampenant lia sent do mi diri. Se vi estus diront vero, sed neniu kredis sin. Plie, ili moks^ercis apud vin.
Kio vi pensi c^irkau~ tiam ? 」
冷たい言葉だった。意味はまるで分からないけれど、ルウヤさんはマリアを責めている。
何で僕が殴ってしまったのか、その理由をマリア自身に分からせようとしているんだろうか・・・。
当のマリアは顔まで紅く染まってしまい今にも泣き出しそうにしている。
「 Kris estas apud nin. 」
彼女はルウヤさんから目線をそらし、うつむいてしまった。
「 Kris ne moks^erci vin ! Nek necesi Ran ! Nek necesi Ruja !! 」
マリアは僕たちに叫んでベッド脇の椅子に勢いよく座り込んでしまった。
外から、昼を告げる笛が鳴った。
僕らの仕事の時間だ。
第二節
ルウヤさんの家は、〝診療所〟と言われている。
僕たちの仕事は昼の笛が鳴り終わるのとともにはじまる。
それもこれも、ルウヤさんの奇妙な生活が影響しているからだ。
彼は夕方から翌日の明け方にかけて、森に生えている色々な植物を採ってくるのが日課になっている。最近じゃあ森の中に畑を造って集めた植物の栽培をはじめるようになっている。ルウヤさん曰く、昼間よりも、夜から明け方のほうがよく採れるのだそうだ。
採った植物は、乾燥させたり、すり潰したり、燻したりして、怪我人や病人に使っている。
〝薬師〟とルウヤさんは言っていた。
僕は〝薬師見習い〟として、仕事をともにしている。かれこれ二年の付き合いだ。
それ以前は〝薬〟というものを僕は知らなかった。
僕だけじゃない。村の人全てが〝薬〟のことを知らなかった。
傷を負っても、病にかかっても、ただ祈祷師とともに神様へ回復を祈ることしか僕らは知らなかった。
純粋な信仰心こそがあらゆる病魔、障害を退けるのだと教えられてきていたんだ。
今思えば、何て根拠のない教えなのかがわかる。
それは僕が少しだけ〝薬〟のことと、人間の身体のことを知ったからかもしれない。
村のほとんどの人は相変わらず神様に祈りを捧げることで体が良くなると信じている。
この間の母さんの事故がまさにそうだった。
一月ほど前、納戸で片付をしていた母さんは崩れた農具の下敷きになって左足に大怪我を負った。
父さんは真っ先に祈祷師を家に呼んだようだ。
僕が事の次第を知ったのは、弟のリンが大ベソをかきながら診療所に駆け込んだとき。リンは仕事中の僕を無理やり引っ張って家に連れて行った。家の中では、すでに祈祷師が一心に祈りを捧げているところだった。テーブルでつくった即席の祭壇に母さんは座らされ、一緒に祈りをあげていた。母さんの左足からは血が流れ出ていた。膝の関節も、変な風に曲がっていた。
なのに、彼らは祈ることしかしていなかった。
傷口を洗おうとか、ましてや血を止めようとすらしていなかったんだ。
弟は祈りの効果がなく、どんどん血色の悪くなっていく母さんの様子を見て、本能的にこの先に待ち構えている事態を感じ取っていたのかもしれない。
―――母さんの死を―――
僕は父さんや祈祷師の制止を振り切って、母さんに消毒と止血をし、関節を固定させた。そして真っ先に診療所へおぶっていった。
ルウヤさんの応対は常軌を逸していた。
傷口を縫ったんだ。
消毒はされていたけれど、針と糸で服を繕うようにチクチクと左足の傷を縫い合わせてしまったんだ。
当の母さんは診療所へ来る前に気を失っていたらしく、この時のことは覚えていない。 けど、目の前で見ていた僕は気が変になりそうになった。
そんな僕に彼は平然と指示を出し、薬や包帯といったものを用意させたかと思うと、他の人の診療とかも任せてしまった。
母さんの意識は翌日には戻っていた。診断結果は、左すね骨折、膝関節の脱臼、ふくらはぎ、太腿損傷。それによる重度の失血。ということで、二・三日は横になるようにと言われた。その後は回復も順調で、七日もすると抜糸をし、つい先日には杖を突かなくても歩けるようにまで元気になったんだ。
やっぱり、彼の処置は正しかったんだと今になって思い知らされる。
「――――くれ。」
「はい!?」
ふいにルウヤさんの声がかけられた。
回想と、乾燥させた薬草をすり潰すことに夢中になって、彼の話を聞いていなかった。とっさに我に返ると、ルウヤさんが口を前に突き出し、少し困った顔を作っている。
「シュウレインさんに、いつもの軟膏と粉薬、用意してくれ。」
お腹をぷっくりと膨らませたシュウレインさんがルウヤさんと向かい合っていた。
僕のことが可笑しかったのか、小さく笑っている。
花が咲いたような、それでいて大人の女の人らしい、しなやかな笑顔。もうじき赤ちゃんが産まれるということで、今、村では持ちきりの人だ。
彼女がレンゼイさんと結ばれたのは六年前。やっと授けられた子宝だ。これは村にとっても大変なことだった。
というのも、ここ九年、この村では子供が生まれていない。
別に珍しいことでも無くなっているけれど、男と女が結ばれたからといって子供が出来る夫婦はあんまりいない。実際、子供がいない夫婦だってこの村にも何組かいる。
一人でも生まれたら幸い、僕ん家みたいに兄弟がいる家なんて軌跡の部類だ。
弟のリンが生まれたときは村をあげての祭りまで催されてしまったっけ。
こんな風になってしまったのには〝終末〟が関係してると大人たちは言っているけれど、どこまでが本当なのか分かったもんじゃない。
そんなことを考えながらも僕の目線は棚の上の薬壷へと向かうはずだった。
なのに―――
マリア
彼女は奥の部屋の扉を少し開けて、そっとこっちの様子をうかがっていた。
「あら、あの子だあれ?」
目が合ったのか、シュウレインさんがマリアに気付いた。
ルウヤさんは知っていたのか、「ああ、あの子か?」と振り返ることもなく言っている。話題が自分に向かいそうなのを嫌ってか、バタンッと扉は堅く閉まってしまった。
「・・・マリア・・・・・・。」
僕の中で、何かが疼いた。
「昨日、森で迷っているところを拾ってきたんだ。夕方にでも長老には知らせに行くつもりだ。」
ルウヤさんが、事の次第を説明している。
「・・・そうですね。何かとあちらさんはうるさいですから。」
マリアの容姿に驚いているのか何なのか、シュウレインさんは少し言葉を詰まらせている感じだった。
「まぁな、村を守るためには仕方の無いことだから。」
ルウヤさんはそっけなくそう言った。
しばらくして、薬を受け取ったシュウレインさんは重い腰を上げてゆっくりと帰っていった。
この日は、あと数人の老人が肩こりや腰痛なんかで訪れただけ。
空き時間はルウヤさんから薬の効能や特性を教えてもらったり、人体の構造なんかについても教わったりした。
いつもと変わらない日常がそこにはあった。
でも、何だろう。
何かが・・・僕の心の中では何かがわだかまっていた。
ふとした瞬間、僕は何度となく右手を見つめていた。
右手の痺れは完全にとれている。何食わぬ顔で日常に戻っている。
僕の疼く心を置き去りにして―――
日常は進んでいった。
第三節
冬が終わりを迎えようとしているからだろうか。
久々に、虫の声が聞こえた。
今は夕暮れ刻。
僕はまだ診療所にいた。
ルウヤさんはマリアとクリスの件で長老の家に行っている。
今、この家にいるのは僕と、奥の間にいるマリアとクリスの三人だけ。
ルウヤさんからはあの二人のことはそっとしておけばいいと言われたけれど、やっぱり気が気にはなれなかった。マリアの姿はシュウレインさんがいたあの時以来見ていなかったし、何より昼間の一軒のこともあったから・・・。
マリアは、もう痛くないのだろうか。
僕の右手のように、もう、痛く無くなっているのだろうか。
「・・・そうじゃない。」
体が痛いとか、そういう問題じゃない。
今僕が心配なのは、マリアがどう思っているかだ。
あのまま、我がまま放題だったらそれはそれで問題だけど、もし、落ち込んでいたらどうしよう。
僕のように心の中で何かがつっかえていたらどうしよう。
マリアは今、何を思っているんだろう。
自然と僕は奥の間の前に立っていた。
ためらいはあった。
けれど、どうしてもマリアに会いたかったんだ。
昼間、ルウヤさんがしていた仕草を思い出し、僕は扉を軽くたたく。
「マリア・・・。」
返事は無い。遠くから、虫の凛とした鳴き声が室内に小さく聞こえるだけだ。
このまま彼女の返事を待ち、立ち往生するのも気が引けた。
「入るよ。」
僕はそっと扉を開ける。
マリアは椅子に腰掛け、眠っているクリスの傍らにいた。
「 Mi ankorau~ ne respondi al vin. Ne eniri c^i c^ambro por via kaprico. 」
僕にはまったく視線を合わせようともせずに、マリアは冷たい言葉をかけてくる。
「・・・ルウヤさんなら、長老のところに行ってる。君たちのことを知らせに行ったんだ。
多分、まだ時間が―――」
「 Ne eniru !! 」
「!!?」
怒ってる。言葉が通じない分、余計にへこむ。
今までの僕だったら、ここで部屋を出て行ったんだろうけれど、今回ばかりはそうはいかないと思った。
僕はかまわず部屋に踏み込むと、脇に置いてあった診療用の丸椅子をマリアの隣りに置いて座った。彼女は遠慮無しに僕を睨み付けている。
「 Kio ? 」
寝台の脇にある小机には、まだ蜜団子がそのままの形でとってあった。
長時間、空気に晒されていたために、表面が乾いている。
水だけは飲んでいるらしく、少しだけ減っていた。
少しだけだけど。
「・・・まだ、食べていなかったんだ。」
こんな状態は絶対にマズイ。
「少しでも食べなきゃ、クリスだって心配するよ?マリア。」
クリスの名前が出たことに反応してか、またマリアが怒鳴る。
でも、マリアの言葉は僕には分からない。
僕がかける言葉がマリアにはわかっていないように。
マリアは僕の目線に気付いたのか、蜜団子を見ると、恥ずかしそうにお腹を押さえた。
「・・・Ruja diradis min al mang^ i g^in. Sed ne voli mang^i. C^ar Kris ankorau~ ne levig^i. 」
どうやら、食べない理由を言っているみたいだ。その中で、気になる単語が出た。
Kris・・・
「クリス・・・?まさか・・・、クリスが起きるまで食べないでいるつもりなの!?」
「 Ne cliu !! 」
僕が上げてしまった大声に、マリアはさらなる大声で返す。
なんて事だろう。
ホントは食べたくて仕方がないんだ。だって、すぐに団子を物欲しそうに見つめているんだもの。
だけど、食べない。
この子、かなりの意地っ張りだ。
一度自分で決めた事は何が何でも覆さないでいるつもりなんだ。
家の弟とそっくりだ。
「ちょっと待ってて。」
僕は蜜団子をお盆ごと手に取ると台所へ向かった。
相変わらずマリアは何か訴えているけれど、もう知らない。
倒れたら元も子も無いもの。
暖炉には未だ火がくべられたままだったから、料理は簡単だった。
マリアが奥の部屋から何をしているんだと言わんがばかりの顔をして、こっちを覗き込んでいる。
団子をヘギの葉に包み、ふかし上げたものに、食欲をそそらせる特性の香辛料を振りかける。ついでに、体を温める作用のある薬草からお茶も作っておくか。
出来上がったものをお盆に載せて僕は奥の間へもどった。
「食べなさい!!」
ホカホカに温め直された団子に、子供相手だから効能を弱めにした香りの良いお茶。これを出されたら、いくら誰でも食べたくなること受けあいのラン特別裏料理だ!!
マリアは目をまん丸に見開き、口をぽかんと開けている。
でもやっぱり我慢しているのか、食べる気配はまるで無かった。
だったら、無理にでも食べさせるまで!
僕はマリアの半開きの口に楊枝をさした団子を突っ込んだ。
「 Nnnnn―――!? 」
突然入った団子に驚くマリア。
でもすぐに二個目、三個目と手が伸びていく。どうやら気に入ってもらったらしい。
お茶のほうも少しずつ飲んでくれている。
マリアが全部食べても良いようにクリスの分は台所にこっそり取っておいた。
目覚めたときの容態とかが気になったし、何よりもこの裏料理自体が一回しか出来ないからだ。何回もしてしまうと団子が崩れちゃうし、味も無くなってしまうといった欠点がある。また恥ずかしい話、折角取っといたおやつを弟に全部食べられたという苦い経験もあったからだったりするんだけれど・・・
「・・・あのさ、マリア・・・」
「 Ki ? 」
団子を頬張りながら、マリアは僕の言葉に反応した。
「昼間は・・・その、ゴメン。」
「・・・・・・?」
謝る必要なんか無いってルウヤさんは言っていたけれど、やっぱり言わないと気が済まなかった。
マリアは、またまた目を丸くする。
どうせ言ってることなんて分かってないんだろうな。急に僕がしおらしくしているから、何かあったのかと思っているんだろうけど。
僕は右手を差し出して上下に振って見せた。
「 Vi estos baiont nin !? 」
人間、物事は悪いほうへ考える習性が付いているらしい。またぶたれると思ったのか、マリアは頭を抑えて防御体制に入っている。
「ちっ違うって!!謝ってるの!ゴメンナサイ!!!」
僕は慌てて、上下に振っていた右手を自分の頭の上で叩いた。
はたと、マリアの動きが止まる。自分に危害が加えられないことが分かってくれたみたいだ。
「ゴメnナサィ・・・?」
「そう、ゴメンナサイ!」
頭の上に乗せていた小さな両手がゆっくりと胸の前まで降りてくる。
まっすぐに見つめる大きな瞳には、恐怖も嘲りも無かった。
僕がどういう人間なのかを見極める、そんな目をしていた。
恐る恐る、僕は右手をそっとマリアの頭に乗せて撫でた。
マリアは少し身構えたけれど、それでも大人しかった。
「痛かったよね・・・本当に、ゴメン・・・。」
小さな頭だった。
身長だって僕の三分の二くらいしかない女の子なんだ。
こんな小さな身体で、妹のことを気遣いながら森の中を迷っていたなんて、想像が付かない。
もしかしたら、マリアは戦っていたのかもしれない。
途中でクリスの調子が悪化して、夜になれば魔物にも出会うかもしれない森の中で、一人で戦っていたのかもしれない。
恐怖と、孤独に胸を締め付けられながら、見えない影のようなものと―――
せっかく助けられたこの村でも、話が通じるのはルウヤさんだけ。僕に対しても警戒を緩める事なんて出来なかったんだろう。いつ、自分や妹が危険な目に遭うか、気を張り巡らせていたのかもしれない。
マリアの顔が急に赤くなった。
「 Mi nek konas vin・・・sed mi diris malbona lingvo por vin. ――――――ゴメンナサイ・・・」
ゴメンナサイ
言った。
確かに今、マリアが言った。聞き返すのではなく、何らかの意思をもった言葉として、しっかりと。
「 Vi estas varma. Kaj Ruja. Kaj Kris estas varma. Mi estas konanta tion sed mi ne kompreni koncerne vin. C^ar apud mi estis nur la frida pupo.
Kial varmo estas g^entila ?
Kial ili varmi je la frido ?
Vi vundig^i via sent・・・vi estas konanta tia・・・. 」
はらはらとマリアの両目から大粒の涙がこぼれた。
彼女が何を言っているのか、相変わらず僕にはさっぱりだった。けれど、何故か僕の心はほっとしていた。
もう、気持ち悪さも消えていた。
全身から棘を出して身を守っているような彼女が、初めて本当の姿を見せてくれたように思えたからかもしれない。
懐から手拭いを出し、僕はマリアに手渡す。マリアはそれを受け取り、涙を拭った。
「 ・・・Kio estas ploranta, Maria ? 」
とても微かな小さい声だった。マリアと同じ、伸びやかで高い声音。
クリスだ。
「 Kris !! Vi levig^i !? 」
寝台上の声の主の目覚めに、マリアは顔を輝かせる。
僕の手拭いは無残にも床に放り投げられた。
・・・別にいいけど。
「 Kio c^i tie kien ? ・・・Ni estis erari en arbaro? 」
「 Rujaia domo. Kris estis faliganta, sed li prenis nin ! 」
「 Ruja・・・? Haan・・・,Tiu nigra persono. 」
いくつかマリアと会話をすると、クリスは考えるように、一つ深呼吸する。
クリスが、僕のほうに視線を向けた。
―――緋い瞳―――
マリアとそっくりなのに、唯一瞳の色が違っていた。
どこまでも緋く鮮やかな美しい色。
異様な赤色。
「 Pardonon, kia estas via nomo ? 」
弱々しくも落ち着いた言葉だった。
僕のことを尋ねるような雰囲気を彼女は醸し出している。
マリアみたいにまっすぐに投げつけるような感じではなく、つつみこむような話口調。
ただの子供じゃない、何故かそう思った。
「僕は、ラン。・・・調子はどう?クリス。」
「 Ran・・・. Beleta sonoro. Tio estas via nomo ? 」
まるで詩を詠んでいるようにクリスは言葉をつむいでいる。
本当に不思議な女の子だ。
玄関の扉が開く音がした。
「あっ、ルウヤさんかな?」
「 Ruja !?」
マリアが一目散に玄関へ走っていく。
「マリア!・・・クリス、チョッと待ってて。」
クリスは小さくうなずいた。
どうやら僕が何を言いたいのか、彼女は分かってくれているらしい。
玄関にいたのは、やっぱりルウヤさんだった。
「うっ!!」
部屋を出た瞬間、異臭が鼻をついた。
果実酒を飲んだ後にする独特の異臭に、診察室においてある薬草の匂いが混じった何ともいえない悪臭。
マリアなんて、鼻を抓んでいる。
ルウヤさんは足元がおぼつか無いのか、右へ左へと千鳥足で台所のほうへ向かっていく。こりゃ、完全にまずいな。
僕は湯飲みに水を汲み、彼に手渡した。手元にはバケツもあったので、彼の方にそっと寄せておく。万が一のためだ。
「あ~あいがと~、ラン。」
「下戸なのにずんぶん飲んだね、大丈夫?」
「何を言うんだ!これでも大酒飲みのルウヤと言われた事だってあるんだぞ!!それにな、〝酒は百薬の長〟って言葉もあるんだ。このくらい、ヘーキ、へ・・・ーきっ、うぇっ」
吐いたよ、この男。
バケツ置いといて良かった。
「その大酒飲み、一体どのくらい吐いて言われるようになったんすか?」
「いやん、ランちゃんつめた~い!」
「・・・・・・・・・・」
完全に酔いがまわっているよ。
こんなの、僕が知っているルウヤさんじゃない。
「そうだマリア、喜べ!チョーローからな、お前たちのタイザイキョカが出たぞ。当分はここで住んでも問題無いかんな!!」
汚れた口元を拭うとルウヤさんはマリアに向かって叫んだ。
「本当ですか!?」
「アリ・・・?何でランが反応すんだ?」
充血した空色の目がキョトンと丸くなっている。
マリアも、小首をかしげていた。
「あの・・・ルウヤさん?マリアの言葉で言わないと、分かりませんよ?」
「へ?あ、そっかー!!アハハハハハッははははハッは!!!ついうっかりぃ~!!」
大爆笑をかましながらルウヤさんは、マリアのほうへ歩いていった。
今度はちゃんと伝えているようだ。
ルウヤさんの説明が終わるや否や、マリアが小躍りして喜びを表現している。
それから、彼女はクリスのことを伝えた。
マリアの話が終わるや、ルウヤさんはそれまでが嘘のように背筋を伸ばした。手際よく診察道具を持つと、彼は颯爽と奥の部屋に入っていってしまった。
僕とマリアは顔を見合わせると、奥の間に向かった。
診察道具を使ってルウヤさんはクリスの容態を調べていた。
それと同時に、彼女からも体調について聞いているらしい。
相変わらずの酒臭さは漂っているが、彼は完璧に素面と同じように診察を行っていた。
「 Kris・・・. Kio s^i estos vivecanta, Ruja ?」
やはり心配なのか、マリアが恐る恐るルウヤさんに尋ねる。
ルウヤさんはにこやかな赤ら顔を向けて「 Certeo ! 」と一言言った。
「 S^i estis laciganta, se s^i devas enlitigi . Morgrau~, s^i voras pas^i. 」
「 C^u vere ? 」
マリアの顔が、今日一番の笑顔を見せる。
「 Jes ! Sed absoluta vi ne estas kurata. Maria estas granda fratino, se vi zorgi al Kris. 」
「 En ordo, Ruja ! 」
ルウヤさんの言いつけのような言葉にマリアは勢い良く片手を挙げる。
「 Kris, c^u vi komprenas ? 」
「 Jes, Ruja. Mi tre dankas vin. 」
クリスは横になったままだったけれど、行儀良くルウヤさんに答えた。
何だか、三人で和気あいあいしているので、そろそろ僕はお暇しようとしたときだった。
「あっ、ラン!悪ぃんだけど~、晩飯作ってもらっていいか?」
酔いどれルウヤの声が、僕の背中を引き留める。
「へ!?」
「いっやさぁ!俺こんなんだからぁ、台所立てそうにねぇし、なっ、頼むよ~!クリスはお粥で、マリアと俺はなんでもいいからさ!!」
・・・・・・・・・・・。
頼んでおいて、すでに僕がつくるの決定ですか?
ってか、人の診察できるほど頭が回転出来てんなら料理ぐらい作れんだろ?
ま、いいか。
「仕方ないなぁ~・・・。じゃ、三人とも今夜はお粥食べてください。作ったら僕、帰りますね。」
「えぇ~~~!!俺、お粥いやだ~~~!!」
ルウヤさんが身体を左右に揺らし、我がままを言い出した。そんなの聞いてられっか!!
「明日二日酔いになりたいの!?食えりゃぁ何でもいいんだよね!生姜と薬草入れておきますから、ちゃんと三人とも残さず食べなさい!!」
マリアはキョトンとして、お粥が何なのかルウヤさんに聞いている。
「 Ruja, kio tiu estas Okayu ? 」
「 Tio estas Du~adu~a potag^o. Tio ne estas bongusta. 」
さも嫌そうにルウヤさんが顔を歪ませている。
「そこ!文句あるんだったら自分で作れ!!」
「文句なんてないも~ん!!」
「モ~ン!」
口を尖らせて子供みたいにふざけるルウヤさんの語尾をマリアが真似する。
僕らの掛け合いが可笑しかったのか、クリスが小さく笑う。
僕も思わず顔がほころぶ。
「ちょっと時間かかりますけど、待っててくださいよ。」
「はーい!」
「ハーイ!!」
「ハーイ」
ルウヤさんが片手を挙げると、二人もそれを真似した。
結局、僕がこの家をあとにしたのは、日が完全に落ちた夜になってのこととなった。