序章 Blanka Spaco
そこは白い部屋だった。
白い壁、白い床、白い天井、白いベッド、白い椅子、白いライト、白い機械。
ありとあらゆる物が白に染められた白亜の空間。
その空間とは一線を画するかのように、壁の中央には窓がはめ込まれていた。
ぽっかりと穿てられた穴みたいな四角い窓から見えるのは、灰色の世界。
厚く覆われた雨雲。
絶え間なく降り続く酸性雨。
立ち枯れ、黒く無残な姿を晒す木々が広がっていた。
そんなモノトーンの世界に、彼はいた。
世界に調和するように白い服を身に纏い、黒い靴を履いた長身の青年が、部屋の入り口に墓石のように立っていた。
細面で彫りの深い顔立ちに、オールバックに固められた黒い髪。青白い血色の失せた肌はこの青年の肉体が限界まで酷使されていることを他者に物語っていた。
墓石のような青年は、この世界にはまるで似つかわしくないほどに色鮮やかな真紅のバラの花束を抱えていた。今、この部屋の主となっている女性への、ささやかな贈り物として買ってきた代物だ。
きっともう彼女はこの花束を見ることも、触ることも、感じることも出来ないのだろうが・・・。
青年はこの部屋に入る度に足を止め、いつもこの場所で立ち尽くしていた。
躊躇ってしまうのだ。
彼女に会いたいという思いと、会わないほうが良いのではないのかというエゴイズムが交錯し、まるで粘着質の網に絡まってしまったように足が鈍り、そして止まってしまう。
それでも青年は足を出す。
それが、彼にとっての習慣だった。
ベッドで横たわる彼女の傍らに腰掛け、そっと他愛のない独り言を語るのが彼のここでの日常となっていた。
彼女が青年の言葉に反応することはもう無いだろう。
数年前から、会話らしい会話をしたことがない。彼女の意識は深い眠りの中へと埋没し、全身につながれた十数本にも及ぶケーブルによって代謝機能を促している状態だったのだから。
青年は花束をベッド脇にあるチェストの上に置き、いつものように椅子に腰掛ける。
点滴の滴る音が、機器の発する無機質の音が、雨の音に混じって響く。
「さっき、新しい治療の許可がおりた。」
期待などしていない。
彼女が青年に笑いかけることなど出来ないことは彼自身がよく知っている。それでも、青年は会話をやめようとはしない。
至極平然と、淡々と青年は語りかける。
「これからは研究や実験のために、ここにはもうあまり来ることは出来ないと思う。だけど……。」
言葉が詰まってしまう。
色素が消えた病的に白い肌。乾燥して粉がふいた皮膚。こそげ落ちた筋肉。浮き出た青や紫の血管。落ち窪んだ瞳。痩せた頬。抜けきった髪。
それが今の、彼女の姿だ。
何故彼女がこんな目に遭わなければならないのだろうか。
何故彼女はこんな目に遭いながらも眠っているのだろうか。
何故彼女はこんな目に遭っても生きなければならないのだろうか。
女神のように美しい容姿で、可憐に笑い、清らかな心を持つ彼女が、何故、これ程醜く、苦しみに耐えなければいけないのか。
色をなくした世界のかたすみで青年は静かに狂っていく。
思わず彼女から視線をそらす。
いっそのこと安らかな死を与えてほしいと願ってやまない。
そうすることが彼女にとって最良の方法だと青年には思ってならない。
でも、青年にとって彼女がいなくなってしまう事ほど最悪なことはなかった。
どんなカタチであれ、彼女をここに…青年の手元に繋ぎ止めたい。それだけを思い、青年は彼女の治療をこれまで続けてきた。
眠れる彼女の真意を確かめることなど不可能だった。
青年の利己によって、社会の詭弁と怠慢によって、彼女は苦悶の中でただ眠り、緩やかに死へと歩むはずだった。
青年が新たな治療などと言う微かな希望を抱かなければ。
「だから…もう少しだけ…」
なぐさめの皮がかけられた青年の利己的な言葉など、聞こえるはずはなかった。
眠れる彼女の思いなど、誰にも分からないはずだった。
「生きていてくれ…。」
それは奇跡。
青年が会話を終えて、再び彼女に視線を向けたときにわかった、奇跡。
―――微笑
彼女が微笑っていた。
薄目を開けて、口元を少し上に引き上げて、やつれきった顔を青年のほうへわずかに傾けて、微笑っていた。
決して美しいものではなく、むしろ醜悪とたとえてもかまわない微笑ではあった。
しかし、青年にとっては、誰よりも、何よりも綺麗な微笑だった。
それで十分だった。
それで青年の今までの葛藤はなくなった。
彼女はまたすぐに眠りへと沈んでいく。
青年は腰を上げ、手慣れた手つきで花を生ける。
しばらくして、青年はこのバラの花が際立つ部屋を後にした。
一人の狂人として。