↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/59

第7話 噂と、一本の傘

屋上でみんなと昼食を食べてから、二日。


みおには、一つだけ大きな誤算があった。


五人で重箱を囲んだこと自体は、とても楽しかった。


問題は――その後だ。


「佐倉さんって、黒瀬先輩と付き合ってるの?」


朝のホームルーム前。


一年B組の自分の席に着いた直後、クラスメイトからいきなりそう聞かれた。


「……え?」


みおの動きが止まる。


何を言われたのか理解するまで、たっぷり二秒はかかった。


「つ、付き合ってないよ!?」


「ほんと?」


「ほんと!」


「でも屋上で一緒にお弁当食べてたんでしょ?」


「みんなで!」


「黒瀬先輩が重箱持ってたって」


「重かったから持ってくれただけ!」


「朝も一緒に登校してるって」


「家が近所なの!」


「手作り弁当も作ったんでしょ?」


「食生活がひどかったから!」


一つ答えるたびに、なぜか周囲の女子たちの顔が楽しそうになっていく。


そこで、みおはようやく気づいた。


「……信じてないよね?」


一人が笑顔で答える。


「信じてるよ」


「絶対嘘」


「でもさ」


別の女子が頬杖をついた。


「黒瀬先輩が一年生の荷物持って歩いてるって、それだけでもかなり珍しいと思う」


「そうなの?」


「珍しいどころじゃないよ。私、入学したばっかの頃に黒瀬先輩と廊下ですれ違っただけで道譲ったもん」


「そこまで?」


「怖かったから」


「あー……」


みおは少しだけ納得した。


確かに、第一印象は怖かった。


銀灰色の髪に鋭い目つき。着崩した制服。低い声に、ぶっきらぼうな話し方。


初日に廊下でぶつかったときは、本気で「怖い人にぶつかってしまった」と思ったくらいだ。


けれど今では。


朝、公園前で会えば、当たり前のように一緒に学校へ行く。


放課後も帰る方向が同じなら、そのまま一緒に歩く。


料理の話をすれば文句を言われるし、朝ごはんを食べたのか聞けば「母親か」と返される。


昨日なんて。


『先輩、ちゃんと野菜食べました?』


『食った』


『何を?』


『ポテトサラダ』


『それ私が作ったやつですよね?』


『野菜だろ』


『自力じゃないじゃないですか』


そんな会話までしていた。


「……」


そこで、みおの眉がわずかに寄る。


――あれ?


改めて考えてみれば。


転校して、まだ一週間も経っていない。


その相手との会話としては、少し距離が近すぎるような気もする。


「みおちゃん?」


「え?」


「今、なんか気づいた顔した」


「してない!」


「怪しい」


「何もないから!」


みおは逃げるように机の中へ手を突っ込み、次の授業の教科書を取り出した。


「とにかく、付き合ってないからね!」


「はいはい」


「本当に!」


また教室に笑い声が広がる。


もう何を言っても無駄な気がしてきた。


そんなときだった。


「佐倉」


教室の入り口から、静かでよく通る声がした。


みおが顔を上げる。


「あ……白鷺先輩?」


そこに立っていたのは、黒髪に眼鏡をかけた三年生――白鷺怜央だった。


一年B組の教室が、少しだけざわつく。


風紀委員長である怜央は、学年を問わず顔を知られている。


当の本人は周囲の視線など気にも留めず、みおへ声をかけた。


「少しいいか」


「あ、はい」


みおは席を立つ。


すると背後から、ひそひそ声が聞こえてきた。


「今度は白鷺先輩……」


「みおちゃん、強すぎない?」


「違うから!」


振り返って否定してから、みおは逃げるように教室を出た。


◇


「何かありましたか?」


怜央と並んで廊下を歩きながら、みおは尋ねた。


「大した話じゃない」


怜央が一枚の紙を差し出す。


「転校生向けの校内アンケートだ。担任から渡しておいてくれと言われた」


「あ、ありがとうございます」


受け取って目を落とす。


学校生活について困っていることや、校内設備で分かりにくいところがないかなどを記入する簡単なアンケートらしい。


「学校生活で困っていることがあれば書け。匿名でも構わない」


「分かりました」


桜羽学園では、風紀委員会が校則違反を注意するだけでなく、生徒間のトラブルや転校生のサポートにも関わっている。


入学前の説明で聞いてはいたが、こうして実際に声をかけてもらえると少しありがたい。


怜央はみおの様子を一度確認すると、淡々と言った。


「馴染めているようだな」


「はい」


みおは自然に笑った。


「思ってたよりずっと早く友達もできました」


「そうか」


「先輩たちにも、よくしてもらってますし」


「……黒瀬たちか」


「はい」


怜央の目がほんのわずかに細くなる。


「最近、よく一緒にいるらしいな」


「それ、やっぱり噂になってます?」


「少し」


「やっぱり……」


みおは肩を落とした。


今朝の話を思い出す。


どうやら一年B組だけの話ではなさそうだ。


そんな反応を見て、怜央が尋ねる。


「嫌なのか?」


「嫌っていうか……付き合ってるって言われるのは困ります」


「付き合ってないから?」


「もちろんです!」


思わず即答した。


怜央は一瞬だけ黙ったあと、特に表情を変えずに言う。


「なら、気にする必要はない」


「そうですけど……」


「周囲は勝手に言う。全部訂正しようとすると疲れるぞ」


「……」


みおは少し意外そうに怜央を見る。


「白鷺先輩、そういうこと言うんですね」


「どういう意味だ」


「もっとこう……『風紀を乱す噂はやめさせる』とか言うのかと思ってました」


怜央がわずかに眉を寄せた。


「俺を何だと思ってる」


「風紀委員長」


「それは合ってる」


「ふふっ」


みおが笑う。


怜央は堅そうに見える。


実際、かなり真面目な人なのだろう。


けれど、話してみると思っていたより融通の利かない人ではないらしい。


そのときだった。


廊下の向こうから三人が歩いてくる。


蓮司。


陽翔。


そして真琴。


真っ先にこちらへ気づいたのは陽翔だった。


「あ、みおちゃん――」


声が途中で止まる。


怜央の隣にいるみおを見たからだ。


そして陽翔は、なぜかすぐ隣を歩く蓮司を見た。


蓮司も足を止めている。


「……」


真琴は二人を見る。


次に、怜央とみお。


最後にもう一度、蓮司。


その口元がわずかに上がった。


「……面白くなってきた」


「何がだ」


蓮司が低い声で返す。


「別に」


「その言い方やめろ」


三人が近づいてくる。


みおは笑顔で頭を下げた。


「おはようございます」


「おう」


陽翔もすぐに手を振る。


「おはよー、みおちゃん」


「おはようございます、天野先輩」


真琴も軽く手を上げた。


「おはよ」


「おはようございます」


そして。


蓮司だけが、怜央へ視線を向けていた。


「……何してんだ」


怜央の眉がわずかに動く。


「お前に説明する必要があるのか?」


「ねえならいい」


「なら聞くな」


「……」


一瞬だけ。


二人の間の空気が尖った。


みおが困惑して二人を見比べる。


「あの、アンケートを持ってきてくれたんです」


「アンケート?」


「転校生向けの」


「ああ」


蓮司の声が、少しだけ元へ戻った。


その変化を。


陽翔は見逃さなかった。


「蓮司」


「あ?」


「今、安心した?」


「してねえ」


「何に?」


真琴が尋ねる。


陽翔は待ってましたとばかりに口元を上げた。


「白鷺とみおちゃんが二人で何してたのかなーって」


「殺すぞ」


「ほら!」


「?」


みおだけが意味を理解できず、首を傾げている。


怜央はそんな蓮司を一度見てから、何でもないことのように言った。


「黒瀬」


「あ?」


「佐倉が迷惑しているらしい」


蓮司の表情が一瞬で変わった。


「何?」


「ち、違います!」


今度はみおが慌てた。


「黒瀬先輩のことじゃないです!」


「……じゃあ何だよ」


「その……」


言いにくい。


というより。


本人を目の前にして説明するのは非常に恥ずかしい。


そんなみおの様子を見て、真琴が先に察した。


「噂?」


みおは小さく頷く。


「……黒瀬先輩と付き合ってるって」


沈黙。


ほんの一瞬だった。


陽翔の口元が、ぴくりと動く。


蓮司が即座に睨んだ。


「笑ったら殴る」


「まだ笑ってない!」


「顔が笑ってんだよ!」


「無茶言うなよ!」


真琴は隠す気もなく普通に笑っていた。


「まあ、そうなるよね」


「なんでだよ」


「朝、一緒」


一本。


「放課後、一緒」


二本。


「弁当作ってもらう」


三本。


「重箱持って登校」


四本。


指を折っていった真琴が、蓮司を見る。


「どう見ても噂の材料でしかない」


「近所なだけだ!」


「私は分かってるよ」


「お前のその言い方は絶対分かってねえ!」


横で聞いていたみおが、申し訳なさそうに肩を縮めた。


「……ごめんなさい」


蓮司が振り返る。


「何が」


「私がお弁当とか作ったから、変な噂になっちゃって……」


「お前が謝ることじゃねえだろ」


返事は早かった。


「でも」


「別に言わせとけ」


「……」


みおは蓮司を見上げた。


少し迷ってから。


「先輩は、嫌じゃないんですか?」


「あ?」


「私と付き合ってるって言われるの」


蓮司の動きが止まった。


「……」


陽翔も黙る。


真琴も黙る。


怜央まで、静かに蓮司を見ている。


四人分の視線が、一斉に集まった。


「……なんで全員見るんだよ」


蓮司が低く言った。


誰も答えない。


みおだけは、純粋に返事を待っている。


蓮司は少しだけ視線を逸らした。


「……別に」


「嫌じゃない?」


「だから、別にどうでもいい」


「……そっか」


みおの表情が、ふっと柔らかくなった。


「よかった」


「……」


その笑顔を見て。


今度は蓮司が黙る。


陽翔がそっと真琴へ顔を寄せた。


「今の『よかった』、強くない?」


「黙って見ときな」


「はい」


「聞こえてんぞ」


蓮司の低い声が飛んできた。


◇


その日の放課後。


空には、昼過ぎから少しずつ厚い雲が広がっていた。


みおは昇降口で靴を履き替えると、ガラス越しに外を見る。


「降りそう……」


天気予報では、夕方から雨だった。


朝はきれいに晴れていたこともあり、傘を持ってくるのをすっかり忘れていた。


家までは歩いて帰れる。


だからこそ、余計に困る。


「走れば間に合うかな……」


そう呟いた瞬間。


ぽつ。


昇降口前の石畳へ、小さな水滴が落ちた。


ぽつ。


ぽつ。


みおが空を見上げる。


そして数秒後。


ざあっ――。


一気に雨脚が強くなった。


「……無理だ」


肩を落とす。


どう考えても、走ってどうにかなる降り方ではない。


周囲では、傘を持ってきていた生徒たちが次々と校門へ向かっている。


購買でビニール傘を売っていたはずだが、こういう日に限ってすぐ売り切れる。


さて、どうしよう。


そんなことを考えていると。


「佐倉」


横から声がした。


振り返る。


「あ、白鷺先輩」


怜央だった。


手には黒い傘を持っている。


「傘ないのか」


「はい……。朝、晴れてたので」


「駅までなら入るか?」


「え?」


「俺も駅方向だ」


「あ、でも――」


みおが迷った、そのとき。


後ろから別の声がした。


「お前んち、駅と逆だろ」


「……黒瀬先輩?」


蓮司が立っていた。


片手には、透明なビニール傘。


怜央が蓮司を見る。


「だから駅までと言った」


「こいつんちは俺と同じ方向だ」


「知ってる」


「じゃあ俺が送る」


「……」


みおは目を瞬かせた。


「送るって……普通に一緒に帰るだけですよね?」


「……そうとも言う」


怜央が淡々と返す。


「なら最初からそう言え」


「うるせえ」


また。


二人の間に妙な空気が流れた。


どうしてこの二人は、顔を合わせるとこうなるのだろう。


そこへ。


「何してんの?」


陽翔と真琴。


さらに結衣までやってきた。


陽翔が状況を確認する。


怜央。


蓮司。


その間にみお。


そして。


二本の傘。


「……おお」


何か言いかけた瞬間。


真琴の手が陽翔の口を塞いだ。


「言うな」


「むぐっ」


結衣は、その横で楽しそうに笑っている。


みおだけが困惑した。


「でも黒瀬先輩の傘、一人用ですよね?」


「あ?」


「二人で入ったら狭いですよ」


「じゃあ、お前持て」


「え?」


蓮司がビニール傘をみおへ押しつける。


そして自分は、鞄を頭の上へ乗せた。


「いやいやいや!」


「なんだよ」


「先輩が濡れるじゃないですか!」


「近いから平気だ」


「駄目です!」


「何が」


「風邪ひきます!」


「引かねえ」


「そういう問題じゃありません!」


また始まった。


真琴がぽつりと言った。


「夫婦喧嘩みたい」


「桐谷先輩!」


みおの顔が一気に赤くなる。


蓮司も真琴を睨んだ。


「殺すぞ」


「ほら、息ぴったり」


「どこがだ!」


その隣で。


結衣が自分の傘を開いた。


「真琴先輩、一緒に帰りましょ」


「ん」


真琴が当然のように結衣の傘へ入る。


その距離の近さを見た陽翔が、絶望したような顔になった。


「また始まった!」


「何が」


「彼女持ちイベント!」


「帰るだけでしょ」


「相合傘だぞ!」


「そうだね」


「余裕!」


真琴はまったく相手にしていない。


結衣がくすくす笑ったあと、ふとみおを見る。


「佐倉さん」


「はい?」


「一人用でも、二人で入れますよ」


「え?」


結衣はにこりと笑った。


いつもの柔らかな笑顔。


なのに。


なぜか今だけ、少し意味ありげに見える。


「ちょっと近くなるだけです」


「……!」


みおの頬が一瞬で熱くなる。


「ゆ、結衣先輩!」


真琴が吹き出した。


「結衣、悪くなってきたね」


「真琴先輩の影響です」


「私のせい?」


「たぶん」


二人が笑う。


そこへ陽翔が勢いよく手を挙げた。


「じゃあ俺がみおちゃんと――」


「お前は走って帰れ」


蓮司が即答した。


「なんでだよ!」


みおは耐えきれず、思わず笑ってしまう。


怜央はそんな一同を眺めたあと、小さく息を吐いた。


「佐倉」


「はい」


「黒瀬と帰るなら、それでいい」


「え?」


「俺は駅方向だからな」


怜央は黒い傘を開いた。


「また明日」


「あ、はい。ありがとうございました」


怜央はそのまま校門へ向かって歩いていく。


蓮司は、その背中をしばらく見ていた。


「……」


すぐ横から。


陽翔が顔を覗き込む。


「ライバル?」


「殺すぞ」


「すぐそれ!」


「天野、行くよ」


真琴が呼ぶ。


「え、俺は誰の傘に入るの?」


「自分のは?」


「忘れた」


「走れば?」


「真琴まで!?」


結局。


陽翔は真琴と結衣の後ろを校門までついていき、その先から小走りで駅へ向かうことになった。


◇


残されたのは。


みおと蓮司。


そして一本のビニール傘。


ざあざあと降る雨を前に、みおは改めて傘を見上げた。


やっぱり。


どう見ても、一人用だ。


「……本当に二人で入るんですか?」


「他にどうすんだよ」


「先輩だけ使ってください。私、走ります」


蓮司が呆れたような顔をする。


「お前、さっき俺に濡れるなって言ったよな?」


「言いましたけど」


「自分はいいのかよ」


「私は――」


「よくねえだろ」


言い切る前に、蓮司がみおの手から傘を取った。


ばさっ。


透明な傘が二人の頭上に広がる。


「行くぞ」


「……はい」


みおが、その隣へ入る。


「……」


近い。


当たり前だ。


一人用の傘に二人で入っているのだから。


少しでも離れれば、どちらかが濡れる。


肩が触れた。


みおは反射的に、ほんの少しだけ外側へ身体をずらした。


「おい」


「はい?」


「濡れてる」


見ると、左肩が傘の外へはみ出している。


「これくらいなら――」


「もっとこっち」


蓮司の手が、みおの肩を軽く押した。


一歩。


蓮司の側へ戻される。


「……」


さらに近くなった。


朝、自転車から助けられたときほどではない。


あのときは本当に身体が触れ合うほど近かった。


けれど。


あれは一瞬だった。


今は違う。


この距離のまま。


歩く。


ずっと。


「先輩」


「あ?」


「……近いです」


「傘が小せえんだよ」


「それは分かってますけど」


「じゃあ我慢しろ」


「……はい」


それ以上、何も言えなくなった。


雨粒がビニール傘を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。


二人はしばらく無言で住宅街へ向かって歩いた。


肩が触れる。


少し離れれば雨に濡れる。


だから離れられない。


みおは前だけを見る。


どうしてだろう。


自分の心臓の音まで、蓮司に聞こえてしまいそうな気がした。


何か話したい。


このまま黙っているほうが、かえって意識してしまう。


でも。


何を話せばいい?


そう考えていると。


先に口を開いたのは、蓮司だった。


「なあ」


「はい?」


「今日言ってたやつ」


「何ですか?」


「噂」


「あ……」


一気に別の意味で気まずくなった。


「そんな気にしてんのか」


みおは少し考える。


「自分のことだけなら……そこまでじゃないです」


「じゃあ何だよ」


「黒瀬先輩が迷惑かなって」


「なんで」


蓮司が横を見る。


みおは視線を落とした。


言うかどうか、少し迷った。


けれど。


「だって……」


小さな声で続ける。


「私と付き合ってるって思われたら、先輩もいろいろ言われるかもしれないし」


「いろいろって?」


「……」


答えられなかった。


けれど。


蓮司は少し考えて。


その意味に気づいたらしい。


「……お前がトランスだから?」


みおの歩幅が、ほんの少しだけ遅くなった。


すぐに蓮司も速度を落とす。


「……はい」


小さく頷く。


桜羽学園は、多様性に理解のある学校だ。


学校側もみおを女子生徒として扱っているし、クラスメイトたちも自然に接してくれている。


それでも。


全員が同じ考え方をしているわけではない。


悪意はなくても。


戸惑う人はいる。


珍しがる人もいる。


そして。


恋愛の話になれば、また別の反応をする人だっているかもしれない。


「学校は理解あるけど……全員が何も思わないわけじゃないから」


「だから?」


「だから、先輩まで変に見られたら嫌だなって」


雨音だけが続いた。


蓮司は何も言わない。


みおは少し不安になった。


余計なことを言ってしまっただろうか。


やがて。


「くだらねえ」


「え?」


思わず顔を上げる。


蓮司は前を向いたままだった。


「俺が誰と歩こうが、誰から弁当もらおうが、俺の勝手だろ」


「でも――」


「他人がどう見るかまで、俺が面倒見れっかよ」


ぶっきらぼうな声。


いつもの蓮司の言い方だ。


けれど。


「お前も、いちいち俺の心配すんな」


「……」


「嫌なら嫌って、俺が言う」


蓮司はそれだけ言って、少しだけみおを見る。


「言ってねえなら、勝手に気ぃ遣うな」


「……」


胸の奥に。


何かが、すとんと落ちた。


朝。


さきからも言われていた。


嫌なことを聞かれたら、嫌だと言っていい。


困ったら誰かに頼っていい。


この学校も。


怜央も。


そして今。


蓮司まで。


形は違うけれど。


似たようなことを言ってくれている。


みおは少しだけ目を伏せたあと。


「……はい」


小さく笑った。


蓮司が眉を寄せる。


「何笑ってんだ」


「先輩らしいなって」


「何が」


「分かんないですけど」


「なんだそれ」


「ふふっ」


みおはまた笑った。


そのとき。


足元に大きな水たまりがあることに気づかなかった。


「佐倉」


「え?」


ぐいっ。


腕を引かれる。


「あっ」


身体が蓮司側へ寄った。


肩と肩がぶつかる。


目の前の水たまりを、ぎりぎりのところで避けた。


「危ねえ」


「あ……ありがとうございます」


「前見ろ」


「見てました」


「見てねえから踏みそうになったんだろ」


「……はい」


言い返せない。


けれど。


「……」


「……」


今度は。


二人とも、すぐには離れなかった。


傘が小さいから。


離れれば濡れるから。


理由はいくらでもある。


それでも。


ほんの数秒。


二人は肩が触れる距離のまま歩いた。


先に視線を逸らしたのは蓮司だった。


「……前見ろ」


「はい……」


みおも慌てて正面を見る。


公園が見えてきた。


いつも二人が別れる場所。


もうすぐ。


この一本の傘からも出る。


そう思った瞬間。


みおは。


ほんの少しだけ。


残念だと思った。


「……」


なぜそう思ったのかは。


まだ自分でも、よく分からなかった。


◇


「黒瀬先輩」


「ん?」


公園が近づいたところで、みおが声をかけた。


「次のお弁当」


蓮司がわずかに嫌そうな顔をする。


「……また作んのか」


「みんなで食べるやつです」


「ああ」


「月一って言ってたでしょ」


「じゃあ来月だろ」


「そうですけど」


みおは少し考える。


「今のうちに聞いておこうかなって」


「何を」


「何入れてほしいですか?」


「……」


蓮司は少し黙った。


唐揚げ。


ハンバーグ。


肉巻き。


この前の重箱にはいろいろ入っていた。


どれもうまかった。


けれど。


浮かんだのは一つだった。


「……卵焼き」


みおが笑う。


「やっぱり好きなんじゃないですか」


「普通だ」


「またそれ」


「普通にうまいからだよ」


「じゃあ」


みおは少し楽しそうに言う。


「普通に多めに入れますね」


「好きにしろ」


いつもの返事。


最初の頃なら。


本当に興味がないのだと思っていたかもしれない。


でも今は。


みおも少しずつ。


蓮司の「好きにしろ」が、本当の拒絶ではないことを分かり始めていた。


雨の中。


一本の小さな傘。


その下で。


二人はいつもより少しだけ近い距離のまま、いつもの公園へ向かって歩いていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。