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第56話 今なら、分からない

「壁ドンなら?」


さきが何気なく言った。


その瞬間。


「……!」


みおの肩が跳ねた。


視線が逸れる。


頬が赤くなる。


「……」


さき。


真琴。


結衣。


三人とも黙った。


その沈黙で。


みおは自分がやらかしたことに気づいた。


「……何」


さきがゆっくり身を乗り出す。


「みお」


「何」


「されたの?」


「……」


「壁ドン」


「……されてない」


真琴が即座に言う。


「嘘」


「なんで!?」


「今の間」


結衣まで少し驚いた顔をする。


「本当にされたんですか?」


「……」


みおはクッションを抱えたまま、どんどん小さくなっていった。


そして。


「……ちょっとだけ」


「ちょっとだけ壁ドンって何!?」


さきの声が一気に大きくなる。


「壁ドンに大小あるの!?」


「声大きい!」


真琴まで珍しく興味を示した。


「誰?」


「……」


「一ノ瀬?」


「……」


沈黙。


それだけで十分だった。


「一ノ瀬君!?」


「一ノ瀬君が?」


「だから言いたくなかったの!」


みおはクッションへ顔を埋めた。


さっきまで漫画の話だったはずなのに。


いつの間にか。


完全に実話へ変わっている。


「リアル壁ドン……」


さきが呟く。


「リアルだね」


真琴まで言う。


結衣も少し頬を赤くしていた。


「本当にあるんですね……」


「三人ともテンション上げないでください!」


◇ ◇ ◇


「で、いつ?」


さきはもう逃がす気がない。


「……前の休日」


「どこ?」


「……通院の帰り」


「病院!?」


「その言い方だと変だから!」


みおは慌てて説明した。


治療のための通院を終えた帰り。


偶然、凌と会った。


一緒に昼食を食べて。


帰り際に少し話した。


「それで?」


さきが身を乗り出している。


「そこからどうやったら壁ドンになるの?」


真琴まで聞く。


「普通ならならないよね」


「分かってます!」


みおはしばらく迷ってから、小さく口を開いた。


「そのとき、一ノ瀬先輩に……たぶん気づかれたんです」


「何を?」


「私が」


一度。


言葉を止める。


「黒瀬先輩のこと、好きなんじゃないかって」


三人の表情が少し変わった。


「直接そう言われたの?」


「ううん」


みおは首を振る。


「でも、噂のことで私が黒瀬先輩に誤解されたくないって必死になってたの、たぶん分かってたんだと思います」


凌は。


無理に答えを求めたりはしなかった。


ただ。


みお自身がまだ言葉にできていなかった部分を。


静かに見抜いていた。


「それで」


「うん」


「帰ろうとしたら……」


「うん」


「壁に……」


「うん!」


さきの返事だけ大きい。


「お姉ちゃん!」


「ごめん」


「全然反省してない!」


真琴が続きを促す。


「それで一ノ瀬は?」


「……」


みおは覚悟を決めた。


「『本当に付き合ってみる?』って」


「……」


三人。


完全に止まった。


数秒後。


「ええっ!?」


「声!」


「いや、それは声出るって!」


さきが目を輝かせる。


「壁ドンして『付き合ってみる?』!?」


「そう!」


真琴も驚きを隠せない。


「そこまで言ったんだ」


結衣も目を丸くしている。


「一ノ瀬君……すごいですね」


「それで!?」


さきが迫る。


「みおは何て答えたの?」


「何も!」


「なんで!?」


「急すぎて固まったの!」


「一ノ瀬君は?」


「……」


みおは少しだけ口を尖らせた。


「私が何も言えなくなったら笑って」


「うん」


「『冗談』って」


「……」


三人が顔を見合わせる。


そして。


ほぼ同時に。


「全部は嘘じゃないでしょ」


みおが顔を上げた。


「なんで分かるんですか!」


真琴が答える。


「今の一ノ瀬見てれば」


結衣も頷く。


「少なくとも、ただからかっただけではなかったと思います」


さきも何度も頷く。


「絶対反応見たかったやつ」


「……」


今なら。


みおにも分かる。


そのあと凌は、自分を気にしていると認めた。


さらに最近。


――好きになってきてる。


そこまで言われた。


だから。


あの日のあれも。


全部が冗談だったわけではない。


「……半分」


「え?」


「一ノ瀬先輩も、この前言ってました」


みおは頬を赤くしながら続ける。


「冗談って言ったあとに……半分って」


さきがテーブルを軽く叩いた。


「ほら!」


「テンション高い!」


◇ ◇ ◇


結衣が。


少し慎重に聞いた。


「みおちゃん」


「はい?」


「あのとき『付き合ってみる?』って言われて」


「……はい」


「誰かのこと、思い浮かべました?」


みおが止まった。


さきも真琴も。


今度は何も言わず待つ。


「……」


嘘はつけなかった。


「黒瀬先輩」


小さな声。


「最初に?」


「……はい」


さきの表情が少しだけ柔らかくなる。


「そっか」


みおはクッションを抱き直した。


「でも」


「うん」


「今、同じこと言われたら」


そこで言葉が止まる。


「今なら?」


「……」


少し考えて。


みおは困った顔をした。


「前みたいに、すぐ黒瀬先輩だけが浮かぶかは……分からない」


部屋が少し静かになる。


あの頃は。


凌に「付き合ってみる?」と言われても。


真っ先に浮かんだのは蓮司だった。


でも。


今は違う。


凌そのものを。


一人の男の子として考えてしまう。


「……そっか」


さきは。


今度はからかわなかった。


真琴も。


結衣も。


何も言わなかった。


その答え自体が。


今のみおの気持ちなのだと思った。


◇ ◇ ◇


もっとも。


真面目な空気が長く続くわけもなかった。


「で」


さきがまた身を乗り出す。


「どれくらい近かったの?」


「まだ聞くの!?」


「顔、何センチ?」


「測ってない!」


「目逸らした?」


「逸らした!」


結衣まで聞く。


「一ノ瀬君、どんな顔してたんです?」


「笑ってました!」


「余裕あるね」


真琴が言う。


「そうなんです!」


思わず。


みおまで力が入った。


「ああいうときまで普通の顔するんですよ!」


「みおちゃん、だんだん愚痴になってます」


「だって!」


全員が笑う。


一通りみおの話が終わると。


今度は矛先が変わった。


さきが真琴と結衣を見る。


「二人は壁ドンしたことないの?」


「ないです」


結衣が即答する。


真琴も。


「必要ないです」


「今やってみる?」


「えっ」


結衣が固まる。


「ここで?」


真琴が真顔で聞く。


「やらなくていい!」


みおが止める。


「女子会なんだから」


「その言葉万能じゃない!」


すると。


結衣が真琴を見た。


「真琴先輩、やります?」


「結衣がしてほしいなら」


「……!」


結衣の顔が一気に赤くなる。


「しなくていいです!」


「分かった」


「惜しい!」


「何を期待してるの、お姉ちゃん!」


また。


リビングへ笑い声が響いた。


◇ ◇ ◇


気づけば。


午前零時を回っていた。


「……そろそろ寝る?」


さきが時計を見る。


結衣も頷いた。


「そうですね」


「明日もあるし」


真琴も立ち上がる。


「お布団出します」


みおも続いた。


泊まるのは四人。


寝る場所は。


自然と二組に分かれることになった。


「真琴ちゃんと結衣ちゃんは、みおの部屋使って」


さきが言う。


「私の部屋?」


「二人なら寝られるでしょ?」


「うん」


「で、みおは私の部屋」


「……お姉ちゃんと?」


「嫌?」


「嫌じゃないけど」


むしろ。


少しだけ懐かしい。


「じゃあ決まり」


◇ ◇ ◇


「どうぞ」


みおが自室の扉を開ける。


真琴と結衣が初めて中へ入った。


白を基調にした家具。


淡い色のカーテン。


整頓された机。


小さな化粧台。


本棚。


可愛らしいクッション。


ベッド脇にはヘアケア用品や香水、アクセサリー。


その一方で。


本棚には何冊もの料理本が並んでいる。


結衣がゆっくり部屋を見渡した。


「みおちゃんらしいですね」


「そうですか?」


「はい。可愛いけど、ちゃんと生活してる感じがします」


「それ褒めてます?」


「もちろん」


真琴は本棚を見る。


「料理本多いね」


「好きだから」


「漫画も――」


「……」


みおがぴくりと反応した。


真琴の視線の先。


本棚の少し奥には。


さきから借りた例の漫画。


「触らないでください」


「何もしてないけど」


「目が触ろうとしてます!」


結衣も気づく。


「あ。これ、さっき話してたシリーズですか?」


「見なくていいです!」


真琴が少し笑う。


「ちゃんと最後まで読んだんだ」


「……読みました」


結衣が聞く。


「どうでした?」


「聞かないでください!」


最後まで。


また笑われた。


◇ ◇ ◇


布団を敷き終える。


「じゃあ二人とも、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


「おやすみ」


みおが扉を閉める。


部屋には真琴と結衣だけが残った。


ベッドと。


その横に敷いた布団。


灯りは小さな間接照明だけ。


結衣がベッドへ腰掛ける。


「真琴先輩」


「何?」


少し間を置いて。


「どう思います?」


説明しなくても。


何のことか分かった。


「みお?」


「はい」


真琴は少し考える。


今日聞いた話。


凌が以前より積極的になっていること。


みお自身も、それを嬉しいと思っていること。


そして。


「好きになってきてる」


そう言われ。


自分も「意識する」と返したこと。


「……一ノ瀬のこと」


真琴が言う。


「かなり気になってるね」


「私もそう思います」


「それは本物だと思う」


「はい」


結衣は少し考える。


「黒瀬先輩のことは?」


真琴は。


すぐには答えなかった。


「そっちも」


「……はい」


「かなり深いと思う」


結衣が静かに頷く。


「一ノ瀬君の話をするときは」


真琴は今日のみおを思い出す。


「すごく分かりやすくドキドキしてた」


「はい」


「言われたこと思い出して赤くなって」


「はい」


「近づいてきてくれるのが嬉しいって」


「はい」


「でも黒瀬の話になると、少し違った」


「どう違います?」


真琴は天井を見る。


「もう、好きなところを一個ずつ数える感じじゃないんだよね」


「……」


「ちゃんと飯食ってるかとか」


「はい」


「笑っててほしいとか」


「はい」


「いないと何か足りないとか」


結衣の表情が少し柔らかくなる。


「日常の中にいるんですね」


「たぶん」


真琴は頷く。


「でも、それでどっちを選ぶかまでは分からない」


「……はい」


「一ノ瀬への気持ちだって、まだ動いてる途中だし」


結衣も同意する。


「今日のみおちゃん、前より一ノ瀬君のことをちゃんと自分の気持ちとして話してました」


「うん」


「だから」


真琴は少し笑う。


「外から勝手に決める話じゃない」


結衣も笑った。


「そうですね」


真琴は知っている。


蓮司もすでに、自分の気持ちに気づいている。


でも。


それをみおへ教えるつもりはない。


蓮司自身が。


自分で言うべきことだから。


「黒瀬も」


「はい?」


「そろそろ自分で頑張らないとね」


「教えてあげません?」


「駄目」


即答。


結衣が笑う。


「厳しい」


「ずっと何も言わなかったんだから」


「でも真琴先輩、心配してるんですよね」


「友達だから」


「はい」


「ただ」


真琴は結衣を見る。


「みおが誰を選ぶかは、みおが決めること」


「うん」


「そこは別」


結衣が嬉しそうに笑った。


「真琴先輩らしいです」


「何それ」


二人で小さく笑う。


それ以上。


みおの気持ちを勝手に決める話はしなかった。


◇ ◇ ◇


その頃。


さきの部屋。


「お邪魔します」


枕を抱えたみおが入る。


さきはすでに、床へもう一組布団を敷いていた。


「どっち使う?」


「私、布団でいいよ」


「じゃあ私ベッド」


「うん」


みおが布団へ入る。


さきもベッドへ横になった。


電気を消すと。


部屋が静かになる。


少しして。


「お姉ちゃん」


「んー?」


「一緒の部屋で寝るの」


少し間。


「久しぶりだね」


「確かに」


「いつ以来だろ」


「みおが小学生くらいじゃない?」


「そんな前?」


「たぶん」


暗闇の中で。


みおが少し笑った。


「昔、よくお姉ちゃんのところ行ってたよね」


「来てた来てた」


「そんなに?」


「怖い夢見たとか言って」


「言ってない」


「言ってた」


「覚えてない」


「雷の日も」


「……それは覚えてる」


「ほら」


懐かしい。


ほんの少しだけ。


昔に戻ったような時間だった。


◇ ◇ ◇


「お姉ちゃん」


「何?」


「今日」


「うん」


「楽しかった」


さきが少し笑う。


「よかった」


「最初、絶対何か企んでると思ったけど」


「失礼だなぁ」


「企んでたでしょ」


「ちょっとだけ」


「ほら」


二人で笑う。


でも。


みおは少しだけ真面目になった。


「話せてよかった」


「恋愛のこと?」


「……うん」


「少し整理できた?」


「まだ分かんない」


「そっか」


「でも」


暗い天井を見つめる。


「前より、自分が二人のことどう思ってるのかは分かった気がする」


「うん」


「まだ選べないけど」


「今はそれでいいよ」


「……うん」


さきは。


それ以上何も聞かなかった。


◇ ◇ ◇


少しして。


みおがまた口を開く。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「陽翔先輩から、またメッセージ来た?」


「さっき来てたよ」


「何て?」


「明日も勉強します、だって」


「……頑張ってるね」


「ね」


少し間。


「本当にお姉ちゃんのこと好きなんだろうなぁ」


「そうだね」


「お姉ちゃん」


「何?」


「変に期待させちゃ駄目だからね」


さきが少し驚く。


「妹に注意された」


「だって」


「分かってるよ」


「ならいいけど」


「頑張ってるところは可愛いと思うけどね」


「……」


みおが布団から少し顔を出す。


「それ本人に言ったら駄目だと思う」


さきが笑う。


「言わないよ」


「絶対?」


「そこまで無責任じゃないって」


「ならいい」


「過保護だなぁ」


「普通!」


また。


小さな笑い声が暗い部屋に響いた。


◇ ◇ ◇


やがて。


会話も少しずつ減っていった。


「みお」


「ん?」


「明日、何時起きる?」


「八時くらい」


「朝ご飯作る?」


「作る」


「やった」


「お姉ちゃんも手伝って」


「起きられたら」


「絶対起きて」


「善処します」


「それ起きないやつ」


「おやすみ」


「逃げた」


さきが笑う。


「おやすみ、みお」


「……おやすみ」


みおは目を閉じた。


今日。


たくさん話した。


蓮司のこと。


凌のこと。


自分でも。


まだどちらを選ぶのかは分からない。


でも。


不思議と。


前より胸は軽かった。


悩んでもいい。


分からないままでもいい。


そう言ってくれる人たちがいる。


隣のベッドには。


昔から何度も自分を支えてくれた姉。


隣の部屋には。


大切な友人たち。


「……」


みおの呼吸が。


少しずつ穏やかになっていく。


さきも目を閉じた。


久しぶりに。


同じ部屋で眠る姉妹。


しばらくして。


佐倉家は。


ようやく静かな眠りについた。


―さきとみおの小さな思い出―


■みおが生まれた日


さきが今でも覚えている。


初めてみおを見た日のこと。


まだ本当に小さくて。


ベッドの中で眠っている赤ちゃんを見ながら。


幼いさきは、しばらく何も言わずに眺めていた。


そして。


恐る恐る。


小さな手へ指を近づけた。


すると。


きゅっ。


小さな指が。


さきの人差し指を握った。


「……!」


さきは目を丸くしたあと。


ものすごく嬉しそうに笑ったらしい。


「この子、私のこと好きなんじゃない?」


両親にそう言って。


その日から。


何かにつけて赤ちゃんのみおを覗きに行った。


もちろん。


当時のことをみお本人は覚えていない。


けれど。


さきは今でも時々言う。


「みおは昔から私のこと大好きだったからね」


そのたびに。


「覚えてないことを証拠にしないで」


と。


みおに怒られている。


■雷の夜


みおがまだ小さかった頃。


夜中。


大きな雷が鳴った。


ごろごろ――。


どんっ!


しばらくして。


さきの部屋の扉が。


ほんの少しだけ開いた。


「……お姉ちゃん」


布団の中にいたさきが顔を上げる。


扉の隙間から。


枕を抱えたみおが覗いていた。


「何?」


「……別に」


「雷怖い?」


「怖くない」


その直後。


どんっ!!


「……!」


みおの肩が跳ねた。


さきは笑いを堪えながら。


布団を少し持ち上げた。


「入る?」


「……仕方ないから」


「何が仕方ないの」


みおは枕を抱えたまま。


さきの布団へ潜り込んだ。


雷が鳴るたび。


少しずつ。


さきのほうへ近づいてくる。


最後には。


ぴったりくっついて眠っていた。


翌朝。


「昨日、怖くて私のところ来たよね」


「行ってない」


「一緒に寝たじゃん」


「知らない」


「めちゃくちゃくっついてたよ」


「知らない!」


今では。


雷が鳴ったくらいで。


みおがさきの部屋へ来ることはない。


それでも。


たまに昔の話をすると。


みおは決まって言う。


「それ絶対、お姉ちゃん話盛ってるでしょ」


そして。


さきも決まって答える。


「盛ってないよ。可愛かったなぁ、みお」


「……もういい!」


そんなところだけは。


昔からあまり変わっていない。


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