工事現場から三国志に飛ばされた俺、バール二刀流で黄巾賊を叩き伏せる 〜ニッカポッカの格闘マニア、劉備三兄弟に拾われる〜
足場が、鳴いた。
ぎしり、ではない。
ばきん、と、腹の底に響く音だった。
「下がれ!」
工藤隼人は叫んだ。
だが、声は鉄骨の軋みと、誰かの悲鳴に呑まれた。
解体中の古いビル。
夕方の現場。
風は強く、足場のシートがばたばたと暴れていた。
朝から嫌な感じはあった。
足元の板がわずかに沈む。
仮留めの支柱がいつもより鳴る。
上から落ちる粉じんの量が多い。
現場に出ている人間なら、理屈より先に身体が気づく。
ここは、まずい。
そう思った瞬間、古い梁が崩れた。
足場が傾く。
道具箱が滑る。
誰かが叫ぶ。
隼人は反射的に手を伸ばした。
近くに転がっていたバールを一本。
もう一本。
両手で掴む。
落ちる。
胃が浮いた。
空が回る。
鉄骨の影。
粉じん。
夕焼け。
安全靴のつま先が宙を切る。
「くそっ……!」
最後に見えたのは、崩れてくる足場板だった。
次に目を開けた時、隼人は土埃の中に倒れていた。
鼻に入った匂いが違った。
コンクリート粉じんではない。
湿った土。
藁。
血。
煙。
焼けた木。
聞こえる音も違う。
車の音も、重機の警告音もない。
代わりに、女の悲鳴。
子どもの泣き声。
男たちの怒号。
どこかで、粗末な鐘のようなものが鳴っている。
「……なんだ、ここ」
隼人は身を起こした。
身体は痛い。
だが、骨は折れていないらしい。
腰には道具帯。
服はニッカポッカに作業着。
足元は安全靴。
両手には、さっき掴んだはずのバールが二本。
長い方は九十センチほど。
短い方は六十センチほど。
先は曲がり、片側は釘抜きのように割れている。
見慣れた工具だ。
現場なら、こじる、剥がす、浮かせる、抜く。
便利だが、武器ではない。
少なくとも、日本の工事現場では。
「おい、あれは何者だ」
誰かが言った。
隼人は顔を上げた。
粗末な麻の服を着た男たちが、こちらを見ている。
髪は結われ、顔は煤と汗で汚れていた。
腰に短い刃物を差した者もいる。
背後には、崩れかけた木の門。
藁葺きの家。
逃げ惑う村人。
隼人は頭が真っ白になった。
映画か。
撮影か。
いや、そんなわけがない。
匂いが本物すぎる。
恐怖が近すぎる。
そして、遠くから押し寄せてくる男たち。
頭に黄色い布を巻いている。
手には槍、鍬、錆びた刀。
誰かが叫んだ。
「黄巾だ!」
黄巾。
その言葉だけは、隼人にも聞き覚えがあった。
三国志。
黄巾の乱。
劉備とか、関羽とか、張飛とか。
酒を飲みながら動画で見た歴史解説。
ゲームで見た黄色い雑兵。
その程度の知識しかない。
だが、目の前にいる連中はゲームの兵ではなかった。
痩せた顔。
血走った目。
飢えと怒りと恐怖が混じった声。
あれは、人を殺すために走ってくる顔だ。
「嘘だろ……」
隼人は一歩下がった。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
自分は剣豪ではない。
格闘技は好きだ。
高校の頃に少し空手をかじり、社会人になってから総合格闘技のジムにも通った。
筋トレもしている。
古武術動画や武器術の動画を見て、木刀や棒を振って遊んだこともある。
だが、それは趣味だ。
本物の達人ではない。
まして、戦場で殺し合う覚悟などない。
黄巾の男たちが門へ迫る。
村人が逃げる。
老人が転ぶ。
子どもを抱えた女が、荷車の影で動けなくなっている。
怪我をした男が、足を引きずって門の内側に倒れ込んだ。
隼人は、そちらを見てしまった。
見なければ逃げられたかもしれない。
だが見てしまった。
後ろには、逃げ遅れた人間がいる。
自分が退けば、あいつらが先に死ぬ。
「……何してんだよ、俺」
隼人は震える息を吐いた。
右手の長いバールを握る。
左手の短いバールを逆手気味に持つ。
剣ではない。
棒でもない。
だが、工具だ。
工具なら、使い方は知っている。
こじる。
引っかける。
叩く。
外す。
崩す。
現場で鍛えた握力と、足場の上で覚えた重心感覚。
それだけが、今の隼人の武器だった。
先頭の黄巾兵が槍を突き出してきた。
速い。
怖い。
刃が顔へ向かってくる。
隼人は叫びそうになりながら、身体を横へずらした。
足場の上で、狭い板を踏み外さないための動き。
長いバールで槍の柄を横から弾く。
金属と木がぶつかる鈍い音。
同時に、短いバールの曲がった先を槍の柄に引っかける。
引く。
「うおっ!」
黄巾兵の身体が前に崩れた。
隼人は反射で膝を蹴った。
相手が泥に倒れる。
殺してはいない。
それだけで、少し息が戻った。
二人目が錆びた刀を振り上げる。
隼人は後ろへ下がらず、前へ入った。
怖いからだ。
刃の先にいる方が怖い。
現場で落下物を避ける時も、逃げる方向を間違えると死ぬ。
刀の軌道の内側へ潜り、右のバールで手首を打つ。
鈍い音。
刀が落ちる。
左のバールの鉤で相手の帯を引っかけ、横へ投げるように崩す。
「こいつ、なんだ!」
「変な格好をしているぞ!」
「鉄の棒を二つ持っている!」
黄巾兵たちが口々に叫ぶ。
現地の言葉のはずなのに、意味はわかった。
なぜかわかるのか、そんなことを考える余裕はない。
隼人は肩で息をした。
安全靴が泥を踏む。
ニッカポッカの裾が土で汚れる。
道具帯の差し金が腰で跳ねる。
ふざけた格好だ。
この乱世の中で、自分だけ工事現場から抜け出してきたような姿をしている。
実際、その通りなのだが。
黄巾兵が三人、同時に来た。
無理だ。
隼人は一瞬でそう思った。
囲まれたら終わる。
だから囲ませない。
足元を見る。
泥。
壊れた柵。
倒れかけの荷車。
右手側に、半分外れた門扉。
解体現場なら、倒れそうなものは敵にも味方にもなる。
「下がれ!」
隼人は背後の村人へ叫んだ。
通じたのか、老人が子どもを抱えて転がるように下がる。
隼人は門扉の留め具に短いバールを差し込んだ。
こじる。
錆びた木の留め具が外れる。
倒れかけていた門扉が、ぎい、と傾いた。
黄巾兵の一人が足を止める。
隼人は長いバールで門扉を押した。
倒れる。
重い木の板が泥を跳ね、敵の足元を塞いだ。
先頭の男がつまずく。
その肩を、隼人はバールの腹で打った。
骨を砕くためではない。
体勢を奪うためだ。
二人目の盾が来る。
丸い木盾。
真正面から叩いても止められる。
隼人は盾の縁に鉤をかけた。
引く。
同時に足で盾の下を踏む。
盾が傾く。
隙間。
そこへ短いバールを差し入れ、相手の前腕を打つ。
男が呻いて盾を落とした。
三人目の槍が脇腹をかすめた。
作業着が裂ける。
熱い痛み。
「いっ……!」
隼人は恐怖で頭が白くなった。
血が出ている。
本物だ。
これは本物の刃だ。
ゲームでも動画でもない。
死ぬ。
ここで死ぬ。
その瞬間、背後で子どもが泣いた。
隼人は歯を食いしばった。
「くそ、来るな!」
叫びながら、槍の柄を左のバールで押さえる。
右のバールを下から振り、相手の膝裏を払う。
男が転ぶ。
隼人は追撃しなかった。
倒れた相手を殺す余裕も覚悟もない。
ただ、前へ出る。
倒した敵を踏み越え、門の外へ一歩出る。
背中の村人から、黄巾兵を離すために。
その動きを見て、黄巾兵たちが一瞬怯んだ。
妙な格好の男。
二本の鉄梃を持つ男。
殺すより先に、武器を外す。
盾をこじる。
槍を絡める。
足を払う。
まるで戦場ではなく、壊れた家屋を解体するように、人の動きを崩していく。
隼人自身は必死だった。
だが、見る者には異様に映った。
「囲め!」
黄巾兵の中で、髭の濃い男が怒鳴った。
他の者より少し良い鎧をつけている。
小頭らしい。
男が大きな鉈のような刃物を持って迫る。
隼人は後ろへ下がった。
背中が荷車に当たる。
しまった。
下がりすぎた。
小頭が笑う。
「終わりだ、妙な奴!」
大きな刃が振り下ろされる。
隼人は荷車の取っ手に短いバールを差し込み、身体を横へ飛ばした。
刃が荷車に食い込む。
隼人はその瞬間、長いバールの鉤を刃の根元にかけた。
引く。
抜けない刃に、小頭の身体が引っ張られる。
現場で釘を抜く時と同じだ。
力任せではない。
支点を作る。
角度を変える。
相手の力を、相手の不利に使う。
小頭の体勢が崩れた。
隼人は左肩でぶつかる。
格闘技ジムで何度も練習した、きれいではないタックル。
泥に足を取られ、小頭が倒れる。
隼人は相手の武器を遠くへ蹴った。
息が切れる。
腕が痺れる。
バールが重い。
こんなものを二本持って暴れ続けるのは、想像以上にきつい。
握力が削られる。
肩が燃える。
足場仕事で鍛えた身体でも、長くは続かない。
それでも、黄巾兵たちは止まっていた。
門の前には、転がされた者、武器を落とした者、足を押さえて呻く者がいる。
隼人は両手のバールを構え直した。
手が震えている。
怖い。
今すぐ逃げたい。
だが、背中にはまだ人がいる。
「来るなら来いよ」
声も震えていた。
「俺だって、来たくて来たわけじゃねえんだよ」
その時だった。
遠くから、馬の蹄が響いた。
黄巾兵たちが振り返る。
土埃の向こうから、数十人の義勇兵らしい一団が駆けてくる。
先頭にいたのは、耳が大きく、柔らかな顔立ちをした男だった。
だが目は静かで、状況を一瞬で見ている。
その右に、長い髯をなびかせた大男。
手には大きな青龍刀のような得物。
左に、黒々とした髭の豪傑。
蛇矛を担ぎ、馬上から大声で笑った。
「なんだありゃあ! 妙な袴を膨らませた男が、鉄の釘抜きで黄巾どもを転がしておるぞ!」
隼人はその姿を見て、頭のどこかが痺れた。
まさか。
まさか、あれは。
黄巾兵の小頭が叫ぶ。
「新手だ! 退け!」
だが遅かった。
豪傑が馬から飛び降り、蛇矛を振るう。
人を吹き飛ばすような勢いだった。
髯の大男は無駄のない動きで敵の進路を断つ。
先頭の男は兵を散らし、村人を守る位置へ走らせる。
黄巾兵たちは崩れた。
隼人が必死で止めていた門前の均衡は、三人の登場で一気にひっくり返った。
敵は逃げる。
追う義勇兵。
怒号。
土埃。
しばらくして、村の前に静けさが戻った。
完全な静けさではない。
泣き声もある。
呻き声もある。
だが、殺される直前の悲鳴は止んでいた。
隼人はそこで初めて膝をついた。
手の中のバールは、泥と血で汚れている。
自分の血か、相手の血かもわからない。
腕が震えて、もう持ち上がらない。
「はあ……はあ……」
呼吸が浅い。
吐きそうだ。
怖かった。
ただ怖かった。
無双などという言葉は、戦いが終わった後の他人がつけるものだ。
やっている本人には、死にたくないという感覚しかなかった。
そこへ、馬から降りた三人が近づいてきた。
豪傑が真っ先に口を開く。
「おう、そこの妙な男!」
声がでかい。
隼人はびくっと肩を震わせた。
「なんだ、その妙な棒は。釘抜きか? それとも鍬の親戚か?」
隼人は息を整えようとしながら答えた。
「バール……いや、鉄の棒、です」
「ばある?」
「いや、こっちの言葉じゃ……鉄梃、みたいなもんです」
豪傑は腹を抱えて笑った。
「鉄梃二本で賊を転がすとは、面白い奴よ!」
髯の大男が、豪傑を軽く制した。
「張飛、笑うだけでは足りぬ」
張飛。
隼人の背中に冷たいものが走った。
やはり。
目の前の黒髭の豪傑は、張飛。
その隣の髯の大男は。
関羽が目を細め、隼人の手元を見ていた。
「棒ではない。先が曲がり、割れている。ただ叩くための物ではなく、敵の力を外すための得物だ」
関羽は落ちていた槍を拾い、隼人のバールの鉤を見た。
「槍の柄を取る。盾を崩す。武器を引く。奇妙だが、理にかなっている」
張飛が目を丸くした。
「兄者、こんな釘抜きにも理があるのか」
「使う者に理があればな」
隼人はうまく返せなかった。
関羽が自分の動きを見ていた。
それだけで、胃が縮むような緊張があった。
最後に、柔らかな顔立ちの男が前へ出た。
彼は隼人ではなく、まず背後の村人たちを見た。
老人。
子ども。
怪我人。
そして、その前に泥だらけで膝をついている隼人。
男は静かに尋ねた。
「名は何という」
「工藤……隼人です」
「クドウ、ハヤト」
男は少し不思議そうに繰り返した。
「字は」
「え?」
「字はあるか」
隼人は混乱した。
字。
あざな。
三国志で聞くやつだ。
劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳。
自分にそんなものはない。
「ない、です。たぶん」
張飛がまた笑った。
「字も持たぬとは、ますます妙な男だ」
隼人は情けない顔になった。
「俺、自分でも何が何だか分かってないんです。工事現場……いや、仕事場で落ちて、気づいたらここで」
「仕事場?」
「建物を壊したり、足場を組んだりする場所です」
劉備らしき男は、馬鹿にしなかった。
笑いもしなかった。
ただ静かに聞いた。
「その鉄梃は、そなたの仕事の道具か」
「はい。武器じゃないです。本当は」
「だが、民を守るために取った」
隼人は言葉に詰まった。
守るため。
そんな立派なものだったのか。
自分はただ、逃げられなかっただけだ。
後ろに人がいるのを見てしまったから、退けなかっただけだ。
「怖かったです」
隼人は正直に言った。
「逃げたかった。でも、後ろに子どもがいて……足が動かなかった」
劉備はわずかに頷いた。
「それでよい」
「よい、って」
「怖れぬ者は無謀にすぎる。怖れながら、民を背にして退かなかった者を、私は捨てぬ」
隼人は顔を上げた。
男の目は穏やかだった。
だが、その言葉には不思議な力があった。
この人について行けば大丈夫、などと単純に思ったわけではない。
むしろ、大変なことになる予感しかしない。
だが、乱れた心の中に一本だけ杭が打たれたような気がした。
「私は劉備。字は玄徳」
男はそう名乗った。
隼人の喉が鳴った。
劉備。
本物の劉備だ。
歴史の中の名前が、泥と煙の村の前で、自分に手を差し伸べている。
「こちらは関羽、字は雲長。こちらは張飛、字は翼徳」
関羽が静かに頷いた。
張飛はにやりと笑う。
「ハヤトとやら。お前の鉄梃、ちょいと振らせてみろ」
「え、いや、重心が変なんで危ないです」
「ほう、俺が危ないと?」
「そうじゃなくて、工具なんで。武器みたいに振ると手首やります」
張飛が目を輝かせた。
「ますます面白い!」
関羽が低く笑った。
「翼徳、まずは怪我人を運べ」
「わかっておるわ」
張飛は大声で部下に命じ、村人を助けに走った。
関羽もまた、黄巾兵が落とした武器を集め、村の門を固める指示を出す。
劉備は隼人の脇腹を見た。
「傷を負っている」
「あ、これはかすっただけで」
「かすり傷でも、汚れれば命に関わる」
隼人はそこで初めて、三国志の時代に病院がないことを思い出した。
急に血の気が引く。
「マジか……」
「マジ、とは何だ」
「いや、なんでもないです」
劉備は微笑した。
「ハヤト。行くあてはあるか」
隼人は周囲を見た。
知らない村。
知らない空。
知らない時代。
スマホもない。
財布もない。
身分もない。
あるのは、ニッカポッカと道具帯と、安全靴と、二本のバールだけ。
「ないです」
「ならば、しばらく我らと来い」
「俺が?」
「そなたの力は、ただ人を倒すためだけのものではない。門を開け、荷を動かし、柵を直し、敵の武器を外す。乱れた場で働く力だ」
劉備は村人たちへ目を向けた。
「それに、民を置いて逃げぬ」
隼人は唇を噛んだ。
胸の奥が熱くなる。
自分は、そんな立派な人間ではない。
現場でも、怒鳴ったことはある。
投げ出したくなったこともある。
面倒な若手に苛立ったこともある。
格闘技だって、趣味でやっていただけだ。
歴史を変える覚悟などない。
だが、今ここで一人になれば、おそらく生きていけない。
そして何より、この三人を前にして、背を向ける気になれなかった。
「俺、戦なんて分かりません」
隼人は言った。
「人を殺すのも、怖いです」
劉備は頷く。
「それも覚えておけ。忘れた者から、人ではなくなる」
関羽が隣で静かに言った。
「だが、世は乱れている。守るために戦わねばならぬ時もある」
張飛が遠くから叫ぶ。
「兄者! こいつら、米は少ねえが酒は隠してやがったぞ!」
「翼徳」
劉備の声が少しだけ鋭くなる。
「村の物を勝手に飲むな」
「わかってるわ! 匂いを嗅いだだけだ!」
そのやり取りに、村人の何人かが小さく笑った。
恐怖の後の、かすかな笑い。
隼人はそれを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
劉備が手を差し出した。
「来るか、ハヤト」
隼人は泥と血で汚れた自分の手を見た。
その手には、まだバールの感触が残っている。
工事現場で掴んだはずの工具。
落下の瞬間、死にたくなくて掴んだ二本。
それが今、乱世で自分をつないでいる。
隼人は長いバールを肩に担ぎ、短いバールを道具帯に差した。
安全靴で泥を踏みしめる。
ニッカポッカの裾が風に揺れる。
黄巾の乱。
後漢末。
三国志。
信じられない言葉ばかりが頭を回る。
だが、目の前には確かなものがあった。
助かった村人。
倒れた黄巾兵。
劉備の手。
関羽の静かな視線。
張飛の豪快な笑い声。
隼人は劉備の手を取った。
「行きます」
声はまだ震えていた。
それでも、はっきりと言った。
「ただし、この鉄梃は俺のです。勝手に持っていかないでください」
張飛が大笑いした。
「気に入ったぞ、鉄梃のハヤト!」
関羽が目を細める。
「鉄梃の使い手か。乱世には、かような武もあるのだな」
劉備は静かに頷いた。
「では行こう。救うべき民は、まだ多い」
隼人は振り返った。
落ちてきたはずの空は、もうどこにもない。
現場の足場も、重機も、仲間たちの声もない。
だが、腰には道具帯がある。
手には二本のバールがある。
足元には、どんな足場でも踏みしめてきた安全靴がある。
剣豪ではない。
武将でもない。
だが、現場で身体を張ってきた男には、崩れかけた場所で動く力がある。
壊れた門をこじ開ける力がある。
倒れそうな梁を見抜く目がある。
そして、背中に人がいれば退けない程度の意地がある。
こうして、ニッカポッカの現場作業員、工藤隼人は、二本の鉄梃を手に乱世へ踏み出した。
後に、誰かが言う。
劉備玄徳の義勇軍に、妙な男がいた。
槍も剣も持たぬ。
膨らんだ袴のような奇妙な衣を着て、腰には見たこともない道具を下げていた。
その男は、二本の鉄梃で槍を外し、盾を崩し、門を開き、民の逃げ道を作った。
名を、工藤隼人。
乱世の者たちは、彼をこう呼んだ。
鉄梃の隼人、と。
短編─了
反応を見て連載を検討します。




