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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

工事現場から三国志に飛ばされた俺、バール二刀流で黄巾賊を叩き伏せる 〜ニッカポッカの格闘マニア、劉備三兄弟に拾われる〜

作者: あちゅ和尚
掲載日:2026/05/13

 足場が、鳴いた。


 ぎしり、ではない。


 ばきん、と、腹の底に響く音だった。


「下がれ!」


 工藤隼人は叫んだ。


 だが、声は鉄骨の軋みと、誰かの悲鳴に呑まれた。


 解体中の古いビル。


 夕方の現場。


 風は強く、足場のシートがばたばたと暴れていた。


 朝から嫌な感じはあった。


 足元の板がわずかに沈む。


 仮留めの支柱がいつもより鳴る。


 上から落ちる粉じんの量が多い。


 現場に出ている人間なら、理屈より先に身体が気づく。


 ここは、まずい。


 そう思った瞬間、古い梁が崩れた。


 足場が傾く。


 道具箱が滑る。


 誰かが叫ぶ。


 隼人は反射的に手を伸ばした。


 近くに転がっていたバールを一本。


 もう一本。


 両手で掴む。


 落ちる。


 胃が浮いた。


 空が回る。


 鉄骨の影。


 粉じん。


 夕焼け。


 安全靴のつま先が宙を切る。


「くそっ……!」


 最後に見えたのは、崩れてくる足場板だった。


 次に目を開けた時、隼人は土埃の中に倒れていた。


 鼻に入った匂いが違った。


 コンクリート粉じんではない。


 湿った土。


 藁。


 血。


 煙。


 焼けた木。


 聞こえる音も違う。


 車の音も、重機の警告音もない。


 代わりに、女の悲鳴。


 子どもの泣き声。


 男たちの怒号。


 どこかで、粗末な鐘のようなものが鳴っている。


「……なんだ、ここ」


 隼人は身を起こした。


 身体は痛い。


 だが、骨は折れていないらしい。


 腰には道具帯。


 服はニッカポッカに作業着。


 足元は安全靴。


 両手には、さっき掴んだはずのバールが二本。


 長い方は九十センチほど。


 短い方は六十センチほど。


 先は曲がり、片側は釘抜きのように割れている。


 見慣れた工具だ。


 現場なら、こじる、剥がす、浮かせる、抜く。


 便利だが、武器ではない。


 少なくとも、日本の工事現場では。


「おい、あれは何者だ」


 誰かが言った。


 隼人は顔を上げた。


 粗末な麻の服を着た男たちが、こちらを見ている。


 髪は結われ、顔は煤と汗で汚れていた。


 腰に短い刃物を差した者もいる。


 背後には、崩れかけた木の門。


 藁葺きの家。


 逃げ惑う村人。


 隼人は頭が真っ白になった。


 映画か。


 撮影か。


 いや、そんなわけがない。


 匂いが本物すぎる。


 恐怖が近すぎる。


 そして、遠くから押し寄せてくる男たち。


 頭に黄色い布を巻いている。


 手には槍、鍬、錆びた刀。


 誰かが叫んだ。


「黄巾だ!」


 黄巾。


 その言葉だけは、隼人にも聞き覚えがあった。


 三国志。


 黄巾の乱。


 劉備とか、関羽とか、張飛とか。


 酒を飲みながら動画で見た歴史解説。


 ゲームで見た黄色い雑兵。


 その程度の知識しかない。


 だが、目の前にいる連中はゲームの兵ではなかった。


 痩せた顔。


 血走った目。


 飢えと怒りと恐怖が混じった声。


 あれは、人を殺すために走ってくる顔だ。


「嘘だろ……」


 隼人は一歩下がった。


 逃げたい。


 今すぐ逃げたい。


 自分は剣豪ではない。


 格闘技は好きだ。


 高校の頃に少し空手をかじり、社会人になってから総合格闘技のジムにも通った。


 筋トレもしている。


 古武術動画や武器術の動画を見て、木刀や棒を振って遊んだこともある。


 だが、それは趣味だ。


 本物の達人ではない。


 まして、戦場で殺し合う覚悟などない。


 黄巾の男たちが門へ迫る。


 村人が逃げる。


 老人が転ぶ。


 子どもを抱えた女が、荷車の影で動けなくなっている。


 怪我をした男が、足を引きずって門の内側に倒れ込んだ。


 隼人は、そちらを見てしまった。


 見なければ逃げられたかもしれない。


 だが見てしまった。


 後ろには、逃げ遅れた人間がいる。


 自分が退けば、あいつらが先に死ぬ。


「……何してんだよ、俺」


 隼人は震える息を吐いた。


 右手の長いバールを握る。


 左手の短いバールを逆手気味に持つ。


 剣ではない。


 棒でもない。


 だが、工具だ。


 工具なら、使い方は知っている。


 こじる。


 引っかける。


 叩く。


 外す。


 崩す。


 現場で鍛えた握力と、足場の上で覚えた重心感覚。


 それだけが、今の隼人の武器だった。


 先頭の黄巾兵が槍を突き出してきた。


 速い。


 怖い。


 刃が顔へ向かってくる。


 隼人は叫びそうになりながら、身体を横へずらした。


 足場の上で、狭い板を踏み外さないための動き。


 長いバールで槍の柄を横から弾く。


 金属と木がぶつかる鈍い音。


 同時に、短いバールの曲がった先を槍の柄に引っかける。


 引く。


「うおっ!」


 黄巾兵の身体が前に崩れた。


 隼人は反射で膝を蹴った。


 相手が泥に倒れる。


 殺してはいない。


 それだけで、少し息が戻った。


 二人目が錆びた刀を振り上げる。


 隼人は後ろへ下がらず、前へ入った。


 怖いからだ。


 刃の先にいる方が怖い。


 現場で落下物を避ける時も、逃げる方向を間違えると死ぬ。


 刀の軌道の内側へ潜り、右のバールで手首を打つ。


 鈍い音。


 刀が落ちる。


 左のバールの鉤で相手の帯を引っかけ、横へ投げるように崩す。


「こいつ、なんだ!」


「変な格好をしているぞ!」


「鉄の棒を二つ持っている!」


 黄巾兵たちが口々に叫ぶ。


 現地の言葉のはずなのに、意味はわかった。


 なぜかわかるのか、そんなことを考える余裕はない。


 隼人は肩で息をした。


 安全靴が泥を踏む。


 ニッカポッカの裾が土で汚れる。


 道具帯の差し金が腰で跳ねる。


 ふざけた格好だ。


 この乱世の中で、自分だけ工事現場から抜け出してきたような姿をしている。


 実際、その通りなのだが。


 黄巾兵が三人、同時に来た。


 無理だ。


 隼人は一瞬でそう思った。


 囲まれたら終わる。


 だから囲ませない。


 足元を見る。


 泥。


 壊れた柵。


 倒れかけの荷車。


 右手側に、半分外れた門扉。


 解体現場なら、倒れそうなものは敵にも味方にもなる。


「下がれ!」


 隼人は背後の村人へ叫んだ。


 通じたのか、老人が子どもを抱えて転がるように下がる。


 隼人は門扉の留め具に短いバールを差し込んだ。


 こじる。


 錆びた木の留め具が外れる。


 倒れかけていた門扉が、ぎい、と傾いた。


 黄巾兵の一人が足を止める。


 隼人は長いバールで門扉を押した。


 倒れる。


 重い木の板が泥を跳ね、敵の足元を塞いだ。


 先頭の男がつまずく。


 その肩を、隼人はバールの腹で打った。


 骨を砕くためではない。


 体勢を奪うためだ。


 二人目の盾が来る。


 丸い木盾。


 真正面から叩いても止められる。


 隼人は盾の縁に鉤をかけた。


 引く。


 同時に足で盾の下を踏む。


 盾が傾く。


 隙間。


 そこへ短いバールを差し入れ、相手の前腕を打つ。


 男が呻いて盾を落とした。


 三人目の槍が脇腹をかすめた。


 作業着が裂ける。


 熱い痛み。


「いっ……!」


 隼人は恐怖で頭が白くなった。


 血が出ている。


 本物だ。


 これは本物の刃だ。


 ゲームでも動画でもない。


 死ぬ。


 ここで死ぬ。


 その瞬間、背後で子どもが泣いた。


 隼人は歯を食いしばった。


「くそ、来るな!」


 叫びながら、槍の柄を左のバールで押さえる。


 右のバールを下から振り、相手の膝裏を払う。


 男が転ぶ。


 隼人は追撃しなかった。


 倒れた相手を殺す余裕も覚悟もない。


 ただ、前へ出る。


 倒した敵を踏み越え、門の外へ一歩出る。


 背中の村人から、黄巾兵を離すために。


 その動きを見て、黄巾兵たちが一瞬怯んだ。


 妙な格好の男。


 二本の鉄梃を持つ男。


 殺すより先に、武器を外す。


 盾をこじる。


 槍を絡める。


 足を払う。


 まるで戦場ではなく、壊れた家屋を解体するように、人の動きを崩していく。


 隼人自身は必死だった。


 だが、見る者には異様に映った。


「囲め!」


 黄巾兵の中で、髭の濃い男が怒鳴った。


 他の者より少し良い鎧をつけている。


 小頭らしい。


 男が大きな鉈のような刃物を持って迫る。


 隼人は後ろへ下がった。


 背中が荷車に当たる。


 しまった。


 下がりすぎた。


 小頭が笑う。


「終わりだ、妙な奴!」


 大きな刃が振り下ろされる。


 隼人は荷車の取っ手に短いバールを差し込み、身体を横へ飛ばした。


 刃が荷車に食い込む。


 隼人はその瞬間、長いバールの鉤を刃の根元にかけた。


 引く。


 抜けない刃に、小頭の身体が引っ張られる。


 現場で釘を抜く時と同じだ。


 力任せではない。


 支点を作る。


 角度を変える。


 相手の力を、相手の不利に使う。


 小頭の体勢が崩れた。


 隼人は左肩でぶつかる。


 格闘技ジムで何度も練習した、きれいではないタックル。


 泥に足を取られ、小頭が倒れる。


 隼人は相手の武器を遠くへ蹴った。


 息が切れる。


 腕が痺れる。


 バールが重い。


 こんなものを二本持って暴れ続けるのは、想像以上にきつい。


 握力が削られる。


 肩が燃える。


 足場仕事で鍛えた身体でも、長くは続かない。


 それでも、黄巾兵たちは止まっていた。


 門の前には、転がされた者、武器を落とした者、足を押さえて呻く者がいる。


 隼人は両手のバールを構え直した。


 手が震えている。


 怖い。


 今すぐ逃げたい。


 だが、背中にはまだ人がいる。


「来るなら来いよ」


 声も震えていた。


「俺だって、来たくて来たわけじゃねえんだよ」


 その時だった。


 遠くから、馬の蹄が響いた。


 黄巾兵たちが振り返る。


 土埃の向こうから、数十人の義勇兵らしい一団が駆けてくる。


 先頭にいたのは、耳が大きく、柔らかな顔立ちをした男だった。


 だが目は静かで、状況を一瞬で見ている。


 その右に、長い髯をなびかせた大男。


 手には大きな青龍刀のような得物。


 左に、黒々とした髭の豪傑。


 蛇矛を担ぎ、馬上から大声で笑った。


「なんだありゃあ! 妙な袴を膨らませた男が、鉄の釘抜きで黄巾どもを転がしておるぞ!」


 隼人はその姿を見て、頭のどこかが痺れた。


 まさか。


 まさか、あれは。


 黄巾兵の小頭が叫ぶ。


「新手だ! 退け!」


 だが遅かった。


 豪傑が馬から飛び降り、蛇矛を振るう。


 人を吹き飛ばすような勢いだった。


 髯の大男は無駄のない動きで敵の進路を断つ。


 先頭の男は兵を散らし、村人を守る位置へ走らせる。


 黄巾兵たちは崩れた。


 隼人が必死で止めていた門前の均衡は、三人の登場で一気にひっくり返った。


 敵は逃げる。


 追う義勇兵。


 怒号。


 土埃。


 しばらくして、村の前に静けさが戻った。


 完全な静けさではない。


 泣き声もある。


 呻き声もある。


 だが、殺される直前の悲鳴は止んでいた。


 隼人はそこで初めて膝をついた。


 手の中のバールは、泥と血で汚れている。


 自分の血か、相手の血かもわからない。


 腕が震えて、もう持ち上がらない。


「はあ……はあ……」


 呼吸が浅い。


 吐きそうだ。


 怖かった。


 ただ怖かった。


 無双などという言葉は、戦いが終わった後の他人がつけるものだ。


 やっている本人には、死にたくないという感覚しかなかった。


 そこへ、馬から降りた三人が近づいてきた。


 豪傑が真っ先に口を開く。


「おう、そこの妙な男!」


 声がでかい。


 隼人はびくっと肩を震わせた。


「なんだ、その妙な棒は。釘抜きか? それとも鍬の親戚か?」


 隼人は息を整えようとしながら答えた。


「バール……いや、鉄の棒、です」


「ばある?」


「いや、こっちの言葉じゃ……鉄梃、みたいなもんです」


 豪傑は腹を抱えて笑った。


「鉄梃二本で賊を転がすとは、面白い奴よ!」


 髯の大男が、豪傑を軽く制した。


「張飛、笑うだけでは足りぬ」


 張飛。


 隼人の背中に冷たいものが走った。


 やはり。


 目の前の黒髭の豪傑は、張飛。


 その隣の髯の大男は。


 関羽が目を細め、隼人の手元を見ていた。


「棒ではない。先が曲がり、割れている。ただ叩くための物ではなく、敵の力を外すための得物だ」


 関羽は落ちていた槍を拾い、隼人のバールの鉤を見た。


「槍の柄を取る。盾を崩す。武器を引く。奇妙だが、理にかなっている」


 張飛が目を丸くした。


「兄者、こんな釘抜きにも理があるのか」


「使う者に理があればな」


 隼人はうまく返せなかった。


 関羽が自分の動きを見ていた。


 それだけで、胃が縮むような緊張があった。


 最後に、柔らかな顔立ちの男が前へ出た。


 彼は隼人ではなく、まず背後の村人たちを見た。


 老人。


 子ども。


 怪我人。


 そして、その前に泥だらけで膝をついている隼人。


 男は静かに尋ねた。


「名は何という」


「工藤……隼人です」


「クドウ、ハヤト」


 男は少し不思議そうに繰り返した。


「字は」


「え?」


「字はあるか」


 隼人は混乱した。


 字。


 あざな。


 三国志で聞くやつだ。


 劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳。


 自分にそんなものはない。


「ない、です。たぶん」


 張飛がまた笑った。


「字も持たぬとは、ますます妙な男だ」


 隼人は情けない顔になった。


「俺、自分でも何が何だか分かってないんです。工事現場……いや、仕事場で落ちて、気づいたらここで」


「仕事場?」


「建物を壊したり、足場を組んだりする場所です」


 劉備らしき男は、馬鹿にしなかった。


 笑いもしなかった。


 ただ静かに聞いた。


「その鉄梃は、そなたの仕事の道具か」


「はい。武器じゃないです。本当は」


「だが、民を守るために取った」


 隼人は言葉に詰まった。


 守るため。


 そんな立派なものだったのか。


 自分はただ、逃げられなかっただけだ。


 後ろに人がいるのを見てしまったから、退けなかっただけだ。


「怖かったです」


 隼人は正直に言った。


「逃げたかった。でも、後ろに子どもがいて……足が動かなかった」


 劉備はわずかに頷いた。


「それでよい」


「よい、って」


「怖れぬ者は無謀にすぎる。怖れながら、民を背にして退かなかった者を、私は捨てぬ」


 隼人は顔を上げた。


 男の目は穏やかだった。


 だが、その言葉には不思議な力があった。


 この人について行けば大丈夫、などと単純に思ったわけではない。


 むしろ、大変なことになる予感しかしない。


 だが、乱れた心の中に一本だけ杭が打たれたような気がした。


「私は劉備。字は玄徳」


 男はそう名乗った。


 隼人の喉が鳴った。


 劉備。


 本物の劉備だ。


 歴史の中の名前が、泥と煙の村の前で、自分に手を差し伸べている。


「こちらは関羽、字は雲長。こちらは張飛、字は翼徳」


 関羽が静かに頷いた。


 張飛はにやりと笑う。


「ハヤトとやら。お前の鉄梃、ちょいと振らせてみろ」


「え、いや、重心が変なんで危ないです」


「ほう、俺が危ないと?」


「そうじゃなくて、工具なんで。武器みたいに振ると手首やります」


 張飛が目を輝かせた。


「ますます面白い!」


 関羽が低く笑った。


「翼徳、まずは怪我人を運べ」


「わかっておるわ」


 張飛は大声で部下に命じ、村人を助けに走った。


 関羽もまた、黄巾兵が落とした武器を集め、村の門を固める指示を出す。


 劉備は隼人の脇腹を見た。


「傷を負っている」


「あ、これはかすっただけで」


「かすり傷でも、汚れれば命に関わる」


 隼人はそこで初めて、三国志の時代に病院がないことを思い出した。


 急に血の気が引く。


「マジか……」


「マジ、とは何だ」


「いや、なんでもないです」


 劉備は微笑した。


「ハヤト。行くあてはあるか」


 隼人は周囲を見た。


 知らない村。


 知らない空。


 知らない時代。


 スマホもない。


 財布もない。


 身分もない。


 あるのは、ニッカポッカと道具帯と、安全靴と、二本のバールだけ。


「ないです」


「ならば、しばらく我らと来い」


「俺が?」


「そなたの力は、ただ人を倒すためだけのものではない。門を開け、荷を動かし、柵を直し、敵の武器を外す。乱れた場で働く力だ」


 劉備は村人たちへ目を向けた。


「それに、民を置いて逃げぬ」


 隼人は唇を噛んだ。


 胸の奥が熱くなる。


 自分は、そんな立派な人間ではない。


 現場でも、怒鳴ったことはある。


 投げ出したくなったこともある。


 面倒な若手に苛立ったこともある。


 格闘技だって、趣味でやっていただけだ。


 歴史を変える覚悟などない。


 だが、今ここで一人になれば、おそらく生きていけない。


 そして何より、この三人を前にして、背を向ける気になれなかった。


「俺、戦なんて分かりません」


 隼人は言った。


「人を殺すのも、怖いです」


 劉備は頷く。


「それも覚えておけ。忘れた者から、人ではなくなる」


 関羽が隣で静かに言った。


「だが、世は乱れている。守るために戦わねばならぬ時もある」


 張飛が遠くから叫ぶ。


「兄者! こいつら、米は少ねえが酒は隠してやがったぞ!」


「翼徳」


 劉備の声が少しだけ鋭くなる。


「村の物を勝手に飲むな」


「わかってるわ! 匂いを嗅いだだけだ!」


 そのやり取りに、村人の何人かが小さく笑った。


 恐怖の後の、かすかな笑い。


 隼人はそれを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 劉備が手を差し出した。


「来るか、ハヤト」


 隼人は泥と血で汚れた自分の手を見た。


 その手には、まだバールの感触が残っている。


 工事現場で掴んだはずの工具。


 落下の瞬間、死にたくなくて掴んだ二本。


 それが今、乱世で自分をつないでいる。


 隼人は長いバールを肩に担ぎ、短いバールを道具帯に差した。


 安全靴で泥を踏みしめる。


 ニッカポッカの裾が風に揺れる。


 黄巾の乱。


 後漢末。


 三国志。


 信じられない言葉ばかりが頭を回る。


 だが、目の前には確かなものがあった。


 助かった村人。


 倒れた黄巾兵。


 劉備の手。


 関羽の静かな視線。


 張飛の豪快な笑い声。


 隼人は劉備の手を取った。


「行きます」


 声はまだ震えていた。


 それでも、はっきりと言った。


「ただし、この鉄梃は俺のです。勝手に持っていかないでください」


 張飛が大笑いした。


「気に入ったぞ、鉄梃のハヤト!」


 関羽が目を細める。


「鉄梃の使い手か。乱世には、かような武もあるのだな」


 劉備は静かに頷いた。


「では行こう。救うべき民は、まだ多い」


 隼人は振り返った。


 落ちてきたはずの空は、もうどこにもない。


 現場の足場も、重機も、仲間たちの声もない。


 だが、腰には道具帯がある。


 手には二本のバールがある。


 足元には、どんな足場でも踏みしめてきた安全靴がある。


 剣豪ではない。


 武将でもない。


 だが、現場で身体を張ってきた男には、崩れかけた場所で動く力がある。


 壊れた門をこじ開ける力がある。


 倒れそうな梁を見抜く目がある。


 そして、背中に人がいれば退けない程度の意地がある。


 こうして、ニッカポッカの現場作業員、工藤隼人は、二本の鉄梃を手に乱世へ踏み出した。


 後に、誰かが言う。


 劉備玄徳の義勇軍に、妙な男がいた。


 槍も剣も持たぬ。


 膨らんだ袴のような奇妙な衣を着て、腰には見たこともない道具を下げていた。


 その男は、二本の鉄梃で槍を外し、盾を崩し、門を開き、民の逃げ道を作った。


 名を、工藤隼人。


 乱世の者たちは、彼をこう呼んだ。


 鉄梃の隼人、と。


短編─了



反応を見て連載を検討します。

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