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映らぬ貌

作者: ちと
掲載日:2026/04/27

 夜闇の中で目覚めれば、寝床の狭苦しさで身体のあちこちが凝り固まったとみえ、上体を起こして伸びをひとつ、身体の節々がぽきぽき、ぱきぱき、軽快な音を立てては、大きな欠伸をして、はて、今は何時になるだろう、と置き時計を確認した。今は二時、それも夜が更けた方の二時である。おお、これは寝過ごした、とぐねぐね背筋を右へ左へと伸ばして、丹念に身体をほぐした。これをしておくと、おかないとでは天と地ほどの差、月と鼈、そういえば兎は月に、亀は水に住めるもの、何か共通するものがないではない。ともかく夜闇の中で、固まった身体をよくよく伸ばし解しをしていれば、冷たい肌に多少の血の気が宿ると思われ、ふと懐かしさを覚えた。今はもうお目にかかれぬ陽の光、窓から差し込むそれを目いっぱいに浴びて、髭を剃る。それがかつての日課だった。懐かしさついでに、そうだ、顔でも洗おう、と洗面台の前に立った。鏡には何も映らない。

 ぬるま湯で撫でるように顔を洗うと、滴が垂れて顎を伝う間に顔は既に冷たくなっている。口元がやけにべたつくため、入念に洗う。それでも、鏡には何も映らない。そういえば、昨日は呑んだ後、歯を磨かなかったが、それが悪かったのだろうか。

 昨日は久しぶりの楽しい食事であった。浴びるように呑み、天地をひっくり返すような眩暈のなか、女の短い悲鳴を聞いた気がした。あるいは、それは夢の中の出来事なのかもしれなかった。己の不揃いな犬歯に触れて思い出すのは、肉を引き裂き、ずぶずぶと食い込むあの感覚、あれは夢などでは決してなかった。噛むことは、食事の楽しみに彩りを添える大切な要素。違えるはずなどない。紛れもなく香り立つ現実のにおい、その奥の方に幽かに血の香り。

昔、飲み屋の親爺たちが口にしていた。上手い飯に良い女、男の人生はそれで事足りるのだと。なるほど、それは確かに一理あるのかもしれない。結局のところ、我々が動物に過ぎないということは、決して露悪的でない極めて現実に則した物言いだ。肉を喰らい、血を啜り、腹を満たすことの何が浅ましいというのか。飢えと渇きに苛まれる者を嘲笑う資格は何人たりとも持ち合わせてはいない。

 蝋燭の灯りが部屋の四辺を照らし、真鍮製の燭台には溶けた蝋がだくだくと流れていく。頼りないその灯りが机の上に並べられた皿を儚げに照らし出す。向かいに座った女の貌を翳が覆い、時折、ゆらゆらと揺れる。その首筋から燻るかぐわしき香り……危うく我を忘れるところであった。昨日の食事の風景は鮮明に思い出せる。けれど、鏡には何も映らない。

 そうだ、久しぶりに髭でも剃ってみようか。今はもう剃る必要はないけれど、懐かしさというのは必要不要の範疇の外にある。夜目は利く方だが、相変わらず鏡には何も映らない。存在しない貌の上を剃刀の刃が走る。ひんやりとした刃がつるりと滑るように、冷たい肌を一閃、その手ごたえは空を切るが如く、ぷつり、切り裂いた。そして、遅れて流れ出るどろりとした血がぽたぽた、陶製の洗面台の上に落ちた。ああ、やってしまった。などと思い、貌を確認するが、やはり相変わらずそこには何も映っていない。流れる血でさえも……。

 それにしてもかぐわしい香りだ。そのうち、腹が減って来るだろう。できれば、もう一度、味わいたいものだ。

 あたたかな日差しが恋しい午前二時、月の光は冷たく、薄暗い部屋の中を幽かに照らしている。けれど彼は鏡の中に、己の貌を見出せないでいる……。


鏡に姿が映らないと、困ることが多いと思います

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