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第四十話『アルヴァトロス』

 ご主人は呑気な性格であった。いつも穏やかに微笑んでいた。コーヒーの香りが好きだから、カフェを営んでいるらしい。

 モーニングの時間が終わると、お散歩の時間になる。店を出て、繁華街を通り抜け、川沿いの土手を歩く。

 時折、真っ白な犬とすれ違った。その犬はまるで綿あめのようにモコモコであった。その犬はいつも『歩きたくないよー。帰りたいよー。ごはん食べたいよー』と嘆いていた。

 吾輩は違う。お散歩が大好きだった。ご主人の歩幅に合わせたペースも丁度良い。

 のんびりとしていた。平和であった。誰かを傷つける事などなく、誰かに傷つけられる事もない。寝て起きて遊んで食べて、それだけの毎日である。

 最初の頃は雷帝の記憶を維持していたと思う。だが、次第に忘れていった。

 ここは雷帝の頃にいた世界とは違うと気付いていたし、今が幸せだったからである。

 

「クゥン……」


 吾輩は獣の王の仔として生まれた。いずれ、先王の役割を引き継ぐ為である。他の王とは違い、先王は不老不死では無かったからだ。

 その事に不満を抱いた事はなかった。それが宿命なのだと理解していたからである。

 ある日、冥王アルファが死んだ。すると、その支配領域から魔王を名乗る者が現れ、全世界に対して宣戦布告を行った。

 先王アルヴァトロスは獣や人を守る為に魔王と戦い、致命傷を負った。

 先王は吾輩に役割を譲り渡すと言った。けれど、吾輩はそれを拒んだ。

 役割を譲り渡した時、先王から権能が失われる。それは先王の死を意味していたからだ。吾輩は先王に死んでほしくなかった。

 その結果、先王の寿命が尽きたタイミングで王座を別の者に奪われた。

 ヴァイクという名の猿である。その者がいつしか獣王と呼ばれるようになっていた。

 アルヴァトロスの配下の魔獣達はその事に激怒した。

 彼らは先王の仔である吾輩こそが獣王であるべきだと主張した。まるで、人間のように血筋による継承を望んだのである。

 吾輩は彼らを止める事が出来なかった。ヴァイクを憎み、ヴァイクを獣王と崇める人間達を恨んだ。そして、最悪な事態に陥った。

 人間達の数が増え過ぎたのだ。人類の数の統制もまた、獣王の役割であったのだが、ヴァイクにその気はなく、人類の繁殖を止めなかったのだ。

 結果として、人類は自らの支配領域を広げる為に動き出した。先王の支配領域を踏み荒らし始めたのだ。

 それでもヴァイクは動かない。彼にとっての支配領域は迷いの森と呼ばれる小さな区画のみであり、他はどうでも良かったのだ。

 人類に支配領域を踏み荒らされ、多くの同胞が殺された事で魔獣達の怒りは頂点に達した。吾輩は彼らの旗頭となる事を望まれ、承諾した。

 雷帝ザインはそうして生まれた。


「……ワゥ」


 だから、メナスに殺してもらえた事が本当に嬉しかったのだ。

 雷帝であった頃の吾輩は絶え間無き苦痛の中にいた。死んだ方が楽だと思い詰めていたのだ。

 新しき世界はとても心地よかった。ご主人に愛され、カフェのお客様に愛され、ただ可愛がってもらうだけの生。

 それが吾輩の幸福であった。ご主人と共に生き、ご主人と共に死ぬ。それだけで満足であった。


 ◆


 ワンちゃんが眠ると共に室内の風景が何度も変化した。

 それはワンちゃんの心の風景なのだとドロシーは言った。

 先代獣王アルヴァトロスの仔として生まれたザイン。その苦悩と苦痛に満ちた時間。そして、ポチとして生まれ直し、ご主人という老爺と過ごした幸福な時間。


「……ここ、なんなんだ?」


 ヤザンは不愉快そうに表情を歪めながら呟いた。

 彼らしくない態度だと思った。


「これ、オレ達が勝手に見ていいもんじゃねーだろ!!」


 吠えるように叫び、彼はドロシーの服の襟首を掴んだ。

 獣のように低く唸るヤザンにドロシーは冷たい目を向けている。


「言っておくけど、わたしが見せてるわけじゃないわよ」

「なに!?」


 ドロシーが手を軽く振ると、ヤザンの体は弾かれたようにドロシーから離れて、そのまま床を転がった。


「ここがどういう場所なのか、まったく調べずに来たわけ?」

「どういう意味?」


 ヤザンに駆け寄ったミゼラは睨むようにドロシーへ問い掛けた。


「どういう意味も何もないわよ。ここは龍の腹の中。魂の揺り籠。ここを訪れると言う事は魂の在り方と向き合うという事。だからこそ、強さを求める者が試練として訪れるの」

「魂の在り方……? それは一体?」

「今まさに見た通りよ。それは心の底にあるもの。感情の根源とも言うべきもの。その者がそうある理由よ」


 ワンちゃんがワンちゃんである理由。

 前獣王アルヴァトロスの仔として生まれ、望まぬ立場を強いられ、苦難の道を生きたザイン。

 その魂がポチという犬に転生を果たし、幸福な道を生きる中で過去を忘れ去り、今を肯定した。


「ここに足を踏み入れた以上、誰か一人は試練を受けないといけないのよ。ただ、マリアは『剣聖の権能』がシステムの干渉すら防いじゃうから除外。そこの彼は魂の在り方をすでに理解しているから除外」

「え? オレって、魂の在り方を理解してるの?」


 カリウスはキョトンとしている。


「だって、君は自分が何者なのかを知っているでしょ?」

「……いや、自分が何者なのかなんて考えた事ないんだけど」

「考えるまでもないって事よ。試練は迷いを晴らす為のもの。一定の水準を超える力を得た者は、誰も彼もが原点を見失ってしまうものなのよ。だから、ここに来るわけ」

「オレって、その水準を超えてるの?」

「超えてないよ? もしかして、自分が特別なんだと思った? はっずかしー! そうじゃなくて、君はとても普通の人間って事だよ。迷う程の人生経験がないってだけの!」

「……すっげー、腹立つな」


 ケラケラと笑うドロシーにカリウスは鬼のような形相を浮かべている。


「ただまあ、そっちの二人よりはマシかなぁ。水準に達していない癖に迷ってる。軸が歪んだまま、何となくで生きて来たんでしょ? だから、試練をワンちゃんに受けさせたのよ」

「……どういう事?」


 ミゼラは表情を歪ませながら問いかけた。


「だって、君達は――――」 

 

 彼女が何を言おうとしたのかは分からない。だけど、それだけは言わせたくないと思った。

 だから、ドロシーの首に刃を向けた。


「マリア。わたし達って、一応は友達だよね? さっきから、ちょっと酷くない?」

「悪いけど、ドロシーよりもミゼラやヤザンの方が大切なの。だから、傷つけるような事を言うなら斬る」

「……マジで傷つくんだけど」

「じゃあ、二人を傷つけないで」


 ドロシーは頬を膨らませた。


「わたし、質問に答えてあげただけなんだけど!? そもそも、来るならちゃんと下調べしとけって話じゃないの!」

「言い方が悪い」

「口が悪いのは生まれつきなんだから仕方ないでしょ!」

「ワン!」


 ドロシーと言い争っていると、ワンちゃんが吠えた。

 ビックリして顔を向けると、ワンちゃんはエヴォルクした。その姿はワンちゃんの心の風景の中にあったもの。

 その存在を耳にした事はあっても、見た事のなかったもの。


「……アルヴァトロス?」

「ああ、前王の名が種族名として世界に刻まれたようでね。今の吾輩はそう……、アルヴァトロスである」


 漆黒の毛皮に覆われた、四足の獣。馬のような鬣がなびき、虎のような青白い文様が全身に浮かんでいる。

 

「どういう風の吹き回し? 君は犬なんでしょ?」

「吾輩はこの姿を忌避しているわけではないのだよ。まあ、常の姿で居る方が好ましい事は事実だがね」


 その声は地上で襲い掛かって来た少年に語り掛けていた時のように穏やかで優しいものだった。

 

「じゃあ、どうして?」

「君達の喧嘩を止める為だよ。犬の姿では君達の言葉を真似る事が出来ないのでね」

「……その為にわざわざエヴォルクをしたってわけ? それ、無尽蔵に使えるわけじゃないって、分かってるのよね?」

「分かっているとも。だが、君達が傷つけあう事を吾輩は望んでいないのだ」

「一度は人間に宣戦布告した雷帝様のお言葉とは思えないわね」


 ドロシーの皮肉に対して、ワンちゃんは愉快そうに笑った。


「君は人間ではないのに、実に人間らしい事を言うな」


 その言葉に彼女の顔は凍り付いた。


「過去を理由に今の心を否定するのは愚かだ」

「……それ、開き直りって言うんだよ。知ってる?」

「さて、吾輩は犬なのでね。人間の言葉はあまりよく理解出来ないのだよ。すまないね」


 クックと笑いながら、ワンちゃんはそう言った。

 ドロシーはその態度に苛立ちを募らせている。


「さて、意地悪はやめておこう。喧嘩を止めてくれたようだしね」


 そう言うと、ワンちゃんはエヴォルクを解除した。

 いつもの姿で「ワン!」と鳴くと、カリウスの腕の中へ飛び込んでいった。


「このバカイヌ!! 大っ嫌い!!」


 顔を真っ赤にして、そう叫ぶ彼女にワンちゃんは「ワンワン!」と笑うように鳴いた。

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