第二話『吾輩、守るのである』
吾輩は犬である。名前はポチという。
「ワン!」
右を見てもジャングル。左を見てもジャングル。上を見てもジャングル。
隣を見れば、体育座りの状態で泣きじゃくるカイトくん。
吾輩、途方に暮れている。
「なんだよ、これ……。どこなんだよ、ここ……。ママ……」
途方に暮れている場合ではなかった。
空中に現れた鏡。一変した風景。これがワープなのか、テレポートなのか、はたまた別の何かなのか、そんな事は後回しである。
ジャングルは危険がいっぱいなのである。
毒蛇や猛獣、毒虫、吸血昆虫、有毒植物などなど、装備を整えた大人でさえ危険が満載なのである。
実はそんな危険など一切ない、新手のアトラクションである可能性もあるが、確証がない。今は最悪を想定して動くべきである。
老い先短い吾輩の事はいい。だが、カイトくんを死なせるわけにはいかない。
「ワンワン」
「……うぅぅぅ、ポチィィィ」
とにかく、動かなければ始まらない。吾輩、カイトくんに声を掛けた。カイトくん、吾輩を抱き締めた。
反省である。まず何よりも、カイトくんの心を落ち着かせる事が大切なのである。
抱き締められながら、吾輩、カイトくんの頬をペロペロする。
「ワゥ?」
「ポチ……?」
吾輩、生まれてから一度も危険というものを味わった事が無かったのである。
ペットショップでも、御主人のカフェでも、病院の駐車場でも、吾輩は愛され、守られてきた。野生で生きてきた事など一度もない。
それでも、吾輩には野生の勘が備わっていたらしい。
「ワン! ワン! ワン!」
姿は見えない。けれど、カイトくんの背中の向こうに何かがいる。
出来る事は吠えるだけである。それでも、必死に吠える。カイトくんを守れるのは吾輩だけなのだ。
「な、何かいるの……?」
「ワンワン!! ガルルルルルルル!!!」
吠えていると、意識が高揚して来た。
《『スキル:威嚇』を会得しました》
《『スキル:バトルモード』を会得しました》
何か、妙な声が聞こえたが無視である。木々の合間から、それはゆっくりと姿を現した。
蟲である。そうとしか言えないフォルムである。ただ、デカい。あまりにもデカい。成人した大人よりも遥かに大きい。
紅い殻に覆われ、カブトムシのような角を持ち、カマキリのような鋭い鎌を持っている。太い尾の先には針のようなものが見えた。
殺意の塊のようなフォルム。甘い考えなど一切浮かんでこない。吾輩はカイトくんの腕の中から抜け出した。
「ポ、ポチ!?」
「ワンワン!」
逃げて欲しいという意味で吠えてみたが、吾輩の言葉はカイトくんに伝わらない。
彼は青褪め、混乱している。
吾輩、覚悟を決めた。今日、この瞬間に吾輩はご主人の下へ向かう。だが、カイトくんだけは守ってみせる。
一度も使った事のない爪。ご主人が用意してくれたステーキをじっくり味わう時だけ活躍して来た牙。その二つが吾輩の武器である。
《『スキル:ワイルド・レンド』を会得しました》
《『スキル:サベージ・ファング』を会得しました》
爪と牙に熱が帯び始める。
「グルルルルルルルル」
蟲は角の下にある顎をカチカチと鳴らし始めた。あちらも『威嚇』しているようだ。
だが、負けぬ。吾輩、守るべき存在がいるのだ。
《『スキル:ブレイブ・ハート』を会得しました》
生涯、最初で最後の殺し合いを前に、恐怖はつゆ程も湧いてこない。
いざ、尋常に勝負である。
吾輩、飛び出し――――、
「オ、オレが相手だ!」
カイトくんが飛び出した。
「ワゥ!?」
「ウワァァァァァァァァァァ!!」
その手に枯れ木の枝を持ち、カイトくんは勇ましい声を上げながら蟲に向かって行く。
吾輩、大慌てである。あの体格差では相手になどならない。
《『スキル:疾走』を会得しました》
駆け出すと、思いの外速度が出た。先に駆け出したカイトくんを置き去り、蟲に接敵する。
「ガゥ!」
殺す。カイトくんを守るには、それ以外の方法がない。
蟲は思った以上に動きが鈍い。一気に懐へ入り込むと、その体を駆け上がる。
手足をカチャカチャと動かして吾輩を振り払おうとするが、その前に頭頂部へ到達した。その首の付け根目掛けて、牙を剝く。
《『スキル:サベージ・ファング』発動》
固い筈の殻がまるで老犬用ドッグフードのようにアッサリと砕け散った。そのまま首を落とすが、蟲はまだ動いている。
頭部が無くなっても動くとは、実に面妖である。しかし、もはや虫の息と見た。
吾輩、全身全霊の力を右前足の爪に込める。
《『スキル:ワイルド・レンド』発動》
まるで、御主人と旅行に行った時にウッカリ破ってしまった旅館の障子の如く、蟲の体は引き裂かれた。
なんという脆さだろう。吾輩、ビックリである。どうやら、恐ろしいのは見た目だけだったようだ。
《『経験値:173』を入手。保有経験値:238,168,236,933,895,277。レベルアップにしようしますか?》
「……ポ、ポチ?」
「ワン!」
相変わらず、妙な声が響く。しかし、無視である。
今はカイトくんを安心させる事が何より大事である。
「これ……、お前がやったのか?」
「ワン!」
カイトくん、吾輩に怯えた目を向けている。
悲しい。けれど、仕方のない事である。
恐ろしい事をした。殺すとは、そういう事なのである。
これで、吾輩はご主人の下へ行けなくなった。天国の門は殺戮者を受け入れてなどくれないだろう。
「……ポチ」
「ワン!」
カイトくん、膝から崩れ落ちた。慰めたい。けれど、果たして吾輩は彼に触れて良いのだろうか?
吾輩は殺戮者である。カイトくんと触れ合う権利はもはや……、
「ごめんな、ポチ」
カイトくん、吾輩を抱き締めた。
何故? どうして? 吾輩は戸惑った。
「ありがとう、ポチ」
カイトくん、泣いている。
「オレ、生きてるよ」
カイトくん、生きている。
嬉しい。
「だから、泣かないでくれ、ポチ」
吾輩、泣いていた?
「……オレが一緒だからな」
カイトくん、吾輩を抱き締めたまま立ち上がった。
「行こう。まずは森から抜け出さないと」
歩き始めるカイトくんの腕の中で、吾輩はウトウトし始めた。