第一話『吾輩は犬である』
吾輩は犬である。名前はまだ無い。
「ワン!」
生まれた瞬間の事は覚えていないが、子犬だった頃から吾輩は吾輩である事を自覚していた。
―――― 吾輩、犬になってる!?
宇宙までぶっ飛ぶ程の衝撃を受けた。
混乱している内に親元から引き離され、吾輩はペットショップのケージの中に閉じ込められた。
圧倒的窮屈! 他にも子犬がわんさか居たけれど、彼らは外の世界の広さを知らないから、それなりに楽しそうだった。けれど、吾輩は違う。知っているのだ。外の世界が広いのだと。
外に出たい。その為に飼い主を求めた。貧乏人はノーセンキュー。おいしい食事と快適な生活を提供してくれそうで、なおかつ優しげな主人候補の前で必死に媚を売った。お腹を見せたり、あざとい鳴き声をあげたり、吾輩は必死だった。
その甲斐あって、吾輩は初老ながらも裕福な主人を手に入れた。個人経営のカフェを営む男だ。動物を飼って大丈夫なのかと心配になったけれど、大丈夫だから買ったのだろうと思い直した。
猫カフェが許されている昨今である。吾輩は主人のカフェのアイドルドッグになると決めた。
第一話『吾輩は犬である』
「おおっ!」
吾輩、今日もお客様を出迎える。愛嬌たっぷりの吾輩の仕草と鳴き声にお客様はメロメロである。
今日のお客様は元気そうな男の子とお母さんだ。
「ほら、カイト。ワンちゃんよ!」
「すっげー、かわいい!」
素直な感想に吾輩、満更でもない。ご主人が用意した吾輩と遊ぶ為のおもちゃをカイトくんが手に取った。
「……これって、猫用じゃねーの?」
首を傾げながら吾輩の前でネズミの人形がくっついている猫じゃらしを振り始めるカイトくん。
もちろん、吾輩は猫ではない。犬である。こんなおもちゃに飛びつく習性などない。けれど、それが求められている事ならば飛びつく事も吝かではない。
「ワフーン!」
飛びついた。カイトくん、大喜び。
基本的にご主人のカフェは年配のお客様が多い。若い子には敷居が少し高い。けれど、カイトくんのような小さい子がお母さんやお父さんに連れて来られる事は結構ある。それ故に、吾輩の対子供スキルは中々のものだ。
吾輩、これで遊んで! と言わんばかりにおもちゃのボールを加えてカイトくんに渡す。
ここは店内。割れ物もある。投げる物を子供に渡すのはあまりにもリスキー。けれど、ご主人はボールを用意している。この意味が分かるかね?
「よーし、取ってこーい!」
カイトくん、全力投球! お母さん、目玉が飛び出す程驚いている。このままではカイトくんに雷が落ちてしまう。
だけど、安心して欲しい。ボールを全力投球する事、それはこの店の中では許される事なのである。
「ワオン!」
吾輩、機敏な反応と身体能力によって見事ボールをキャッチ。静かに着地する事で店内に被害はなし。
お母さん、ほっと胸を撫で下ろし、カイトくんにお説教スタート。涙目になるカイトくんに吾輩、慰めアピール! カイトくんの体にすりすり! 怒られて涙目のカイトくん、吾輩に抱きついて来た。お母さん、困った顔をしつつも微笑ましそうである。
これでカイトくんの心は吾輩のものである。
「ワッフーン!」
その後もカイトくん親子はご主人の店に常連として来てくれた。
吾輩はその度にカイトくんと遊ぶのだった。
けれど、時は流れるもの。カイトくんが成長すると、店にはお母さんしか来なくなってしまった。
吾輩、ちょっとしょんぼりである。けれど、接点が無くなったわけではない。お母さんが来る度にカイトくんはどこ!? アピールを欠かしていない。その甲斐あって、ご主人とのお散歩コースに時々カイトくんがエンカウントする。お母さんと一緒にカフェに行くのが恥ずかしくなってしまったお年頃のカイトくんだけど、吾輩に会いたい気持ちは変わっていないのだ。ちょっとぶっきらぼうな態度になっているけれど、吾輩がじゃれつくと頬がユルユルになる。
吾輩の犬生、中々に快適かつ幸福である。
優しいご主人、吾輩を愛でるお客様達。
犬は人間よりも寿命が短い。だから、そろそろ終わりが近づいて来ている。だけど、寂しくない。辛くもない。
ご主人も体を壊して長くないからだ。子犬の頃から一緒のご主人。死ぬ時も一緒なのだ。
もう、犬になる前の自分の事など覚えていない。
だけど、いい。犬として、吾輩は満足している。
「ワンワン!」
カフェを閉じて、ベッドに横たわり続けるご主人の隣に居続ける。
ご主人の娘夫婦の介護を邪魔しないように鳴く事も控えている。
目を覚ます頻度が少なくなり、体にいっぱい管が繋がれるようになり、病院に連れて行かれた。吾輩、病院の中には入れてもらえなかった。
病院の院長先生がカフェの常連さんで、自腹で吾輩が快適に過ごせるスペースを駐車場に作ってくれた。そこで眠り、起きている時はご主人の病室を見上げて過ごした。
ご主人が亡くなった。泣きながら、ご主人の娘さんが教えてくれた。
葬式の日、吾輩は犬なのだけど、会場に入れてもらえた。棺桶に入れられたご主人の肌はロウのように白くて、とても冷たくて、死の匂いがした。
「アオーン」
犬でも涙は流れるのだ。悲しいと声が震えてしまうのだ。
お坊さんの邪魔をしてはいけないと思ったけど、止められなかったのだ。
何度も何度も鳴き声をあげて、それでも誰も吾輩を追い出さなかった。
葬式が終わると、吾輩は店に急いだ。
理由は分からない。ただ、店に行きたかった。
死の匂いじゃない、本当のご主人の匂いをまた嗅ぎたかった。
だけど、店は閉じていた。鍵なんて持っていない。
「アオーン! アオーン! アオーン!」
扉を叩いて鳴いていると、近所の人達が集まって来た。
「ポチ!?」
懐かしい声が聞こえた。この匂いを吾輩の鼻は覚えている。
カイトくんだ。
「な、なんで締め出されてるんだ!?」
駆け寄ってくるカイトくんに近所の人達が事情を伝えてくれた。
もう、ご主人は亡くなってしまった。この店がオープンする事は二度とない。
「ポチ……」
悲しそうな声だった。
吾輩、カイトくんを慰める為にすりすりした。
「……お前の方が辛いくせに、ばかやろう」
カイトくん、久しぶりに吾輩を抱きしめてくれた。
「ポチ! 散歩いくぞ!」
カイトくんはそう言った。
散歩。その言葉を聞くと、ついついシッポが持ち上がってしまう。
「あ、あの、すぐ戻ってくるんで!」
カイトくん、近所の人に我輩を散歩に連れて行きたいと頭を下げた。
思春期の少年が大人に頭を下げるのは難しい事なのに。
「行くぞ!」
近所の人達も納得してくれたようだ。隣の肉屋のパートタイマーのおばちゃんが店の扉に張り紙を貼ってくれている。これでご主人の娘さんが来ても大丈夫なのだ。
カイトくんと一緒に色々な所を歩いた。ご主人と一緒に歩いた所、歩いた事のない所、歩きたかった所。
「ボールで遊んでみるか?」
「ワン!」
カイトくん、ポケットからゴムボールを取り出した。
もしかしたら、店に来たのは偶然ではなく、吾輩と一緒に遊びたいと思ってくれたからなのかもしれない。だから、ゴムボールなんて持っていたのだろう。
「よーし、いけ!」
「ワン!」
カイトくん、ボールを投げる。吾輩、そのボールが何度も弾んだ後にキャッチ。
「ワン!」
「ポチ……」
カイトくん、少し悲しそうだ。
仕方のない事なのである。吾輩、もうおじいちゃん。出会ったばかりの頃のように機敏には動けないのである。
しんみりした空気が流れる。
「ポチ……。そろそろ、帰ろっか」
「……ワン」
吾輩、カイトくんと一緒に帰路を歩く。
少しでも明るい所を歩きたかったのか、繁華街の方を歩いた。
人通りが増えてきて、カイトくんが吾輩を抱きかかえる。
「ん?」
突然、目の前に鏡のようなものが現れた。高さは二メートルくらいで、横幅は一メートルといった所の楕円形だ。奇妙な事に浮いている。
「なんだ、これ……?」
カイトくん、石ころを投げ込んで見る。驚いた事に、石ころは鏡に吸い込まれて消えてしまった。鏡の後ろを見ても何もない。
家の鍵らしきものを入れてみる。すんなり入り、すんなり出てくる。鍵に変わった様子なし。
「よーし、ポチ。ちょっと待ってろ」
そう言うと、なんと! カイトくん、鏡に頭を突っ込んだ!
吾輩、慌ててカイトくんの足に捕まった。こんなよく分からないものを潜ってはいけないとボディランゲージで必死に伝えたけれど、そのまま吾輩諸共、カイトくんは鏡の世界へ飛び込んでしまった。
そして……、
「……どこだ? ここは」
鏡の向こうには鬱蒼としたジャングルが広がっていた。
慌てて振り向くと、そこに鏡は無かった。
額から汗が滝のように流れる。カイトくんも遅れて事態に気が付いたようだ。カイトくんの額からも汗が滝のように流れだした。
「ど、ど、ど、ど……」
カイトくん、小刻みに震えながらビートを刻み始める。
「どこだよ、ここはぁぁぁぁ!?」
吾輩、分からない。