007_わたくしの華麗なる日々ですわ
社交界にて今、急速に注目を集める者がいた。
名は、クラリオ・フェルディナン。
大小問わずパーティに精力的に参加してまわっている彼は、その立ち振る舞いとウィットに富んだ会話、また細やかな気遣いで、どこでも注目の的となった。
男爵令息という決して高くない立場であったが、だからこそ高い爵位の相手からは気安く側に呼ばれ、低い爵位からも親しみを込めて声をかけられた。
リゼット「まあ、クラリオ様。
あなたもいらっしゃっていたのね?」
リゼット・コルヴィアもそんな彼のファンだった。
今日もガーデン・パーティの噴水のかげに彼の姿を見つけるなり、声をかけた。
リゼット「ねえ、聞いてくださいます?
わたしの、ささやかな夢の話」
クラリーチェ「もちろんです。ぜひ、お聞かせください」
クラリーチェはにこやかに応えた。
……にこやかに、見えているはずだ。多分。
幼いころから社交界のいろはを学んできたクラリーチェにも、自分を死に追いやった相手を前に表情を作れているか、自信がない。
リゼット「わたし、恥ずかしながら、海というものを見たことがなく……
見渡す限り水だなんて、いったいどんな感じなのかしら?」
リゼットは小首をかしげた。
リゼット「わたし、いつか海に行って、船に乗るんだって、ずっと夢見てますのよ」
リゼットは屈託のない笑顔を見せた。
人は浮かべる表情で、こんなにも違って見えるものか。
クラリーチェは心底驚いていた。
そこには、あどけなく夢見る少女がいた。
恋敵を罠にかけてあざける、かつてのリゼットの面影が全く感じられない。
この少女の手で死に追いやられたことなど、まるで嘘かまぼろしだったかのようだ。
クラリーチェ「それはそれは、素敵な夢ですね」
微笑みを絶やさぬよう、クラリーチェは言葉をつなげた。
忘れてはならない。
彼女は将来の政敵を抹殺するため、今もアマリエ王女に攻撃を加えている。
汚い手も平気で使う、憎むべき悪女だ。
親しくなって、情報を得るのだ。
今の蛮行を止めるだけでない。過去の事件を覆すきっかけを得られるかも知れない。
リゼット「ふふっ……叶うのは、いつになるかしら?」
クラリーチェは心の中で、自分と幼い夢を語るリゼットを比べた。
嘘の名前。嘘の表情。嘘の言葉。
クラリーチェには、まるで自分の方が醜い、汚い存在のように感じられた。
クラリーチェは、目の前のリゼットに悟られぬよう、静かにため息をついた。
********
夜。カイルがいつものようにクラリーチェの屋敷に来訪した。
食堂に通されると、クラリーチェがテーブルの奥の席に座って待ち構えていた。
クラリーチェ「来たわね」
カイル「おう」
カイルは食堂のドアを自ら閉めた。古ぼけたドアは、大きくきしんだ音を立てる。
クラリーチェ「……ちゃんとした執事になるのは、まだまだ先ね」
カイルは早速、護衛騎士の任を返上し、王女の執事見習いになっていた。
執事になれば、これまでのように威圧的に立っているだけではいられない。
騎士の中でも不器用でガサツだった彼には、貴族のそばでスマートに振る舞うことが難しいようだ。
カイル「……このドアがボロいんだよ。
ドアだけじゃ、ないけどな」
カイルは負け惜しみを言った。
クラリーチェ「王女殿下のお屋敷と比べないで。
……男爵なら、こんなもんよ」
クラリーチェも、この古びた男爵邸には思うところがあった。
しかしここでパーティを主催することさえなければ、問題ないだろう、とも思っていた。
訪ねてくるのは、今のところカイルだけなのだ。
カイルは週三日、クラリーチェの屋敷に来て、社交界についての作法を教わっている。
カイルは、どうやらクラリーチェが男に変わったことを完全に受け入れたようだ。そんな小さなことより、生きて目の前にいることがなによりも嬉しい、と言ってくれた。
クラリーチェ「さ、今日は紅茶の作法ね」
カイル「……その前に……」
カイルはクラリーチェの手を引っ張り上げて、立たせた。
そして、おもむろに背中に手を回して抱き寄せる。
クラリーチェ「これ……ホントに男同士の一般的なあいさつなの……?
わたしたち以外に、やってるとこ見てないんだけど……」
カイル「俺たちほど仲の良い男友達ってのが、そういないんだろうな……」
カイルはうそぶいた。
クラリーチェは納得のいかない顔を見せた。
カイルの顔が近すぎて、まだ頬が赤くなってしまう。
カイル「照れるなよ。男同士だろ」
クラリーチェ「むぅ……」
悔しいが、体の大きいカイルにギュッとされると安心が湧いてくる。
クラリーチェは、おでこをカイルの肩に載せた。
カイル「……どうかしたのか?」
クラリーチェ「昼のパーティで、ちょっとね……」
カイル「……落ち込んでるのか?」
クラリーチェ「ちょっと。
自己嫌悪、感じちゃって……」
カイル「……元気づけよう……」
クラリーチェの頬に手を添えて、カイルは顔を近づけようとした。
いけない。このままでは、唇と唇がくっついてしまう。
クラリーチェ「ちょっ、ちょちょちょ!?
なに?!やめて!男同士、男同士でしょ?!」
カイル「俺とお前で、男とか女とか関係ないだろ」
クラリーチェ「なにそれ!ズルい!もう、離れて!」
クラリーチェは必死になって、カイルから身体を引き剥がした。
怒るクラリーチェを見て、さすがにカイルも、ばつの悪い顔を見せた。
カイル「……まあ、悪ふざけだ。その……男同士の……」
クラリーチェ「あんた、それで全部が誤魔化せるとか、思わないことね……」
クラリーチェの顔がピクついた。
カイル「……すまない。ちょっと、浮かれすぎてるんだろうな、俺。
お前と、また……会えて……」
クラリーチェ「……むぅ……」
カイルのさびしそうな笑顔をみると、クラリーチェはこれ以上怒れなくなる。
クラリーチェ「もう、いいから始めましょ」
クラリーチェは紅茶の受け方の説明を始めた。
********
クラリーチェ「お、王女殿下?!なぜこのようなところに……?」
カイルの後ろに、地味な黒いドレスに身を包んだアマリエ王女を見つけて、クラリーチェは驚きの声をあげた。
昨日に続き、カイルがクラリーチェの屋敷に社交界を学ぶために訪れるだけのはずだった。
それが、突然の王族の来訪だ。クラリーチェが慌てるのも無理はなかった。
アマリエ「クラリオ様。お邪魔いたしますわ」
いたずらっぽく笑って、アマリエは帽子を取った。
身分を隠すためか、つばの大きい暗いトーンの帽子。ドレスといい、あまりアマリエには合っていないようだ。
クラリーチェがかしこまったあいさつを始めようとすると、アマリエが手で止めた。
アマリエ「お忍びでうちの執事の訓練の様子を見に来ただけですの。
お気になさらず」
クラリーチェは、笑顔で応えた。
その笑顔のままカイルに耳打ちする。
クラリーチェ「ちょっと、どういうことよ?」
カイル「ついてくって言って、聞かないんだ」
クラリーチェ「……せめて、事前に準備したかったわ」
二人のやり取りを気にせず、アマリエは部屋の中を物珍しそうに見回している。
きっと、古びた男爵邸が珍しいのだろう。
アマリエ「今日は何をなさるの?」
絵画のあとだけが残る壁を眺めながら、アマリエが尋ねた。
クラリーチェ「では、カイルに紅茶を淹れていただきましょう」
アマリエはクスクスと笑みをこぼした。
アマリエ「それは楽しみね。カイルってば、この前ティーカップを割ったばかりですもの」
クラリーチェの笑みが引きつった。
ティーカップ一式を買い直す余裕はない。
カイル「……こんなに薄いもの、壊すなって方がムリなんだよ」
カイルは声に出さずにつぶやいた。
アマリエ「それにしても不思議ですわ。クラリオ様とカイルがこんなにすぐ親しくなるなんて」
クラリーチェ「ええと、まあ、その……おさな……
いや、ウマがあったと言いましょうか……」
アマリエ「毎日のように楽しそうに出ていきますのよ。
カイルだけ、ズルいですわ」
クラリーチェ「ご容赦ください。慣れぬ仕事に、懸命になっているのですよ」
本当にそうかしら?
カイルの様子は嬉しそうで、少し浮かれているようで……まるで恋人にでも会いに行くような……
アマリエ「……わたしだって、毎日、会いたいですのに……」
アマリエは、目の前の青年に聞こえないよう、小さくつぶやいた。
伝えるような勇気はない。
今は、まだ。
クラリーチェはヒヤヒヤしたが、ティーカップは無傷のまま、紅茶をたたえてクラリーチェとアマリエの前に置かれた。
クラリーチェは一口目、唇を湿らせるだけで香りを楽しんだ。
クラリーチェ「うん、ちゃんと淹れられてますね」
アマリエ「わたし、その飲み方……覚えてますわ。
……お姉様と……同じ……」
クラリーチェ「……ええと……」
アマリエの予想外の発言に、クラリーチェは言葉に詰まった。
アマリエ「クラリオ様……?」
アマリエは顔を真っ赤にしながら、クラリーチェの目を見上げていた。
その視線はかつてお姉様に向けたものと同じ、懐かしいそれだった。
アマリエは立ち上がって、クラリーチェの袖の端をちょんとつまんだ。
アマリエ「クラリオ様って……ひょっとして……」
アマリエの中で何かが結びつきそうになったその時。
ガシャン!
甲高い音が部屋に響き渡る。
カイル「失礼いたしました」
カイルがティーカップを落としたのだ。ティーカップは割れて、地面に破片が散らばった。
クラリーチェ「大丈夫?ケガは?」
クラリーチェが立ち上がる。
カイル「大丈夫だ。気にしないでくれ」
カイルは破片を拾いながら、クラリーチェにだけ見えるように、ぎこちなくウインクをしてみせた。
アマリエ「うちの執事が申し訳ございません。カップが……」
クラリーチェ「いえいえ、問題ありません」
カイルなりに、私を救おうと、話題を逸らそうとした結果だ。
そういう気が回るようになってきたのは、カイルにとっては大きな進歩だ。
恐縮するアマリエをなだめながら、クラリーチェは心の中でつぶやいた。
きっと、カイルが求めた、守る力がついてきているということだろう。
連日の訓練のおかげだと思って良いだろう。
授業料は、ティーカップ一式にしてもらおう。