005_王女殿下はわたくしが守りましてよ
幼き王女、アマリエ・ラグランジュは、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
吐き気をこらえるだけで精一杯だ。
華やかな音楽と、シャンデリアの明かりがきらめく舞踏会場。
アマリエ王女がこの舞踏会を主催したのは、事情がある。
彼女は半年前の事件からずっと体調を崩していた。
クラリーチェ・ヴァレンティス侯爵令嬢がアマリエ王女に毒を盛ったとされ、投獄の後に自害した、あの事件だ。
あれは、冤罪だ。
アマリエには確信がある。
体調が悪くなったのはクラリーチェお姉様から薬をもらう前のことだし、第一、お姉様が自分に害をなすなんてあり得るはずがない。
お姉様と呼んで慕っていた。お姉様も可愛がってくれていたはずだ。
あのまま、兄の王太子と婚姻を結んで名実ともに姉となって幸せに過ごすはずだった。
どうしてこうなってしまったのか。
優しい人だった。
気品があって聡明で、すべてがあたたかい人だった。
罪人に準ずる者として、葬儀すら行われなかった。
そんな風に扱われていい人では、決してなかったのに。
訃報を聞いたとき、アマリエは卒倒した。
その前日、牢で言葉を交わしたばかりだったと言うのに。
アマリエはしばらく病床に伏すことになった。そして、そのこと自体がクラリーチェの罪の重さを裏付けているかのように噂された。
やっと回復して来たところで、兄のユリオ王太子が今回の舞踏会を提案した。
ユリオ王太子「アマリエの回復を印象づけるような会にするのが良い、リゼットがそう言っていてね」
リゼット・コルヴィア!
アマリエが最も聞きたくない名前。
兄はいつからこんなに愚鈍になってしまったのだろう?
見舞いに来るたびにその名が出る。
そのたびにアマリエは取り乱して泣き喚き、再び体調を崩す。それなのに。
リゼットのおかげで、アマリエの命は救われた。
ユリオ王太子の中では、それがもう、真実になってしまっているのだ。
アマリエの必死の抵抗で、この会にリゼットを招く事態は避けられた。
招待客はリゼット派閥の外から選んだはずだ。
それなのに。
令嬢A「まあ、王女殿下?もうお帰りになるのですか?」
体調の悪化に耐えきれず、退席しようとしたところを呼び止められてしまう。
令嬢B「殿下のお姿がやっと見られたと、皆が喜んでおりますのに。
ここでお帰りになられては、主賓を欠くことになってしまいますわ」
声は笑っているが、目は笑っていない。
周囲の貴族達も、声を聞いてちらちらとこちらをうかがっている。
アマリエ「ご心配いただき、ありがとうございます。
ですが、わたくし、少しだけ、休ませていただければ……」
出口に向かって数歩進んだが、令嬢に行く手を阻まれる。
令嬢A「まあまあ、ご休憩でしたら、どうぞそ奥のイスをお使いくださいまし。
あそこでずっと座っておられれば、周囲の皆様にも殿下の”お姿”を楽しんでいただけますわ」
あくまで柔らかく、しかし退路を塞ぐような言葉。
アマリエの視界が揺らぐ。
必死に吐き気をこらえる。
アマリエ「ですが、わたくし、少し……外の空気を……」
絶え絶えのアマリエの言葉を令嬢たちは聞こえないふりをした。
吐き気をこらえる。
ああ、やはり、この二人は自分をこの場に留めたいのだ。
そしてわたしの醜態をこの場に晒したいのだ。
リゼットの派閥は慎重に避けたつもりでいた。
しかしアマリエの予想を超えてそれは広がっていた。
他の貴族もここに集まってくる。
苦しい。
視界が回る。
もう、こみあがる吐き気を抑えられない。
アマリエ「……だめ……」
舞踏会、衆目を集めて。
アマリエ王女は嘔吐した。
********
ガシャアアン!
アマリエの足下で食器が割れる音がした。
誰かの声「申し訳ございません!」
アマリエは薄く目を開けたが、涙でにじんでなにも分からない。
誰かの声「ああ!なんてこと!シチューでドレスが!」
わけの分からぬまま、体がふわりと浮かぶのを感じた。
誰かに抱きかかえられたのだ。そう分かった時には、もう廊下に出ていた。
アマリエ「……おやめください……
……汚れますわ……」
ドレスにべったりと付着した吐瀉物が、自分を抱える誰かの服にもシミを残す。
誰かの声「違います。私が汚したのです」
ああ、なんて優しく、あたたかい……
アマリエ「……お姉様……」
薄れゆく意識の中、アマリエは小さくつぶやいた。
********
アマリエ「ありがとう……助かりましたわ。
……ええと……」
クラリーチェ「クラリオ・フェルディナンと申します。フェルディナン男爵家、長男でございます。
助けたなど、とんでもないことでございます。大変、失礼いたしました」
アマリエは微笑んだ。
もうこの青年は、自分の非と言って聞かないだろう。
アマリエは、ベッドの中で身を起こした。
30分ほど眠って、随分、体調は落ち着いた。
今から身支度を整えれば、舞踏会を締めるあいさつに間に合うだろう。
でもその前に、彼と話をしたい。
アマリエ「……そんなにかしこまらなくて、大丈夫ですよ?
この部屋には、わたくししかおりませんわ」
クラリーチェ「そんなわけにはまいりません」
クラリーチェはかしこまったままで言った。頬がぴくり、と引きつるのを感じた。
アマリエ「……どうか、いたしまして?
良いのですよ?なんでも遠慮なくおっしゃって?」
優しく微笑むアマリエ。
しばし迷って、クラリーチェはため息をついた。
クラリーチェ「……では、ひとつだけ……」
クラリーチェは思わず立ち上がって、熱弁した。
クラリーチェ「異性と二人きりで寝室など、絶対にあってはなりません!噂が立ったら取り返しがつきませんよ!
男性を自室に招くなど、意味は分かっておられるのですか?!」
アマリエ「……どういう意味です?」
クラリーチェ「そ、それは、その……あの……
……言えませんわ!」
クラリーチェは顔を隠して叫んだ。思わず地の言葉が出てしまったが、本人も気づいていない。
クラリーチェ「とにかく!もう男性を部屋に招かぬよう!わたくしと約束してくださいまし!」
アマリエは堪えきれず、吹き出した。
クラリーチェ「笑い事ではございません!」
アマリエは、肩を震わせ笑いが収まるのを待った。そして、大きく息をついてから言った。
アマリエ「……はい。お約束いたしますわ」
そして、さびしそうな表情を浮かべる。
アマリエ「こんなところも、お姉様に似ておりますのね……」
小さなつぶやき。そして、意を決したように、アマリエは口を開いた。
アマリエ「わたくし、お姉様と呼んでお慕いしていた方がおりましたの。
……半年程前、亡くなってしまったのですが……」
クラリーチェは無言で聞いていた。
アマリエ「わたくし、ショックを受けてしまいまして……
まだ、立ち直れていないみたいですわ。
もう……ずいぶん経ったはずなのだけれど……」
アマリエは苦笑いを見せようとして、上手くいかなかった。涙が目から溢れそうになる。
クラリーチェ「無理に平気になることはございません。
……ずっと、辛いままでも良いのですよ」
自分がこれまでかけられた言葉とは、真逆の言葉を差し出す青年に、アマリエは頬を緩めた。
それは本当に、心地よい言葉だった。
そして、意を決したように、告白を始める。
アマリエ「……あの日、わたくしがリゼット嬢に……伝えてしまったのです……
お姉様が、薬を持っているはずだって……
……あんなことになるなんて……」
涙を止めることが出来ず、顔を手で覆った。
そして、言葉を絞り出した。
アマリエ「……そのこと……お姉様に言えなかった……」
アマリエは声を殺して泣いた。
アマリエ「……お姉様……ごめんなさい……ごめんなさい……
……お姉様……わたしのせいで……
……ごめんなさい……」
クラリーチェは無言でハンカチをアマリエの頬にあてた。
やさしく、頭をなでる。
そのまま、泣きじゃくるアマリエに、ただ無言で付き添った。
アマリエ「……ごめんなさい。
どうしても、あなたに聞いていただきたかったの……」
クラリーチェに渡されたハンカチで涙を拭いて、アマリエは言った。
クラリーチェ「……どうして、私に?」
アマリエ「だって、あなた……
お姉さまにそっくりなんですもの!」
アマリエは乾かぬ瞳のまま、笑顔を作って見せた。