011_瞳の奥の、まだ見ぬ恋ですわ
1ヶ月が過ぎた。
社交界の華であり王太子の次の婚約者とも目されていたリゼットがいなくなって、社交界は揺れ動いた。
勢力図が書き換わり各々が慌ただしく身の振り方を変えて行っていたが、今は少し落ち着きを取り戻しつつある。
リゼットの代わりに社交界の中心になったのは、目の前のこの小さな少女だった。
アマリエ「クラリオ様。どうしても、行ってしまいますの?」
今日は、華やかなドレスとは違い、身分を隠すための黒いワンピースだ。顔を隠す大きなつばの帽子の下から、上目遣いにクラリオの顔を見つめる。
その涙を堪えるような表情からは、パーティの中心で堂々と振る舞う王族の姿をうかがうことが出来ない。
ここはクラリーチェの屋敷の前。領地への帰路につくクラリーチェをアマリエが見送りに来たのだ。
クラリーチェ「報告のための一時帰郷ですよ。半年もしない内に戻ってまいります」
アマリエ「……半年も、会えないなんて……」
おずおずと差し出したアマリエの手が、クラリーチェの袖をつまむ。離れないように、ぎゅっと。
クラリーチェは優しく笑みを浮かべた。
クラリーチェ「心配することはございません。アマリエ様の社交界でのお立場は確立されております。
私がお伝えした約束を守れば、ご苦労することはないでしょう」
アマリエ「……そういうことでは、ないのですけど……」
真意が伝わらず、アマリエは口を尖らせた。
クラリーチェ「あとは、優秀な執事に任せておけば良いのです」
クラリーチェはアマリエの後ろに控えるカイルを見た。
カイルはわずかに視線を落とすことで、かしこまる意を伝えた。
この一月でカイルの所作は洗練され、そつなく執事の勤めを果たせるようになっていた。
アマリエは名残惜しそうに、クラリーチェの袖から手を放した。
別れのあいさつを執事に譲るため、一歩、身を引く。
カイル「……」
カイルは無言で一歩前に出て、『男同士のあいさつ』のために、両手を広げた。
その厚い胸板をクラリーチェは指先一つで押しとどめた。
クラリーチェ「もう、調べはついておりますよ。
……あまり、一般的ではないようですね、このあいさつは」
カイルは、ばつが悪そうに視線を逸らした。
クラリーチェは背伸びをしてカイルの耳元にささやいた。
クラリーチェ「よくも、からかってくれたわね。
他にもウソ吹き込んでないでしょうね?」
カイルはその言葉には返事をせず、クラリーチェの腰に手を回して強引に引き寄せた。
クラリーチェ「きゃっ」
小さく、甲高い悲鳴をあげてしまい、今度はクラリーチェが視線を逸らした。
カイル「……ちゃんと、帰って来いよ」
カイルの静かな言葉に、クラリーチェは苦笑した。
少しの間、離れるだけなのに。2人とも大げさなんだから。
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馬車に揺られながら、クラリーチェは窓から空を見上げた。
目の覚めるような晴天に、一つ二つ、小さな雲が浮かんでいる。
リゼットの罪は、秘密裏に処理された。
王太子にリゼットに対する温情の念が残っていたのだろう。コルヴィア伯爵にいろいろと言い含めたうえで、リゼットは親元に送還されることになった。
クラリーチェはあの夜のことを思い返した。
たしかに、アマリエ王女には、発言が握りつぶされる心配のない高貴な方をお願いした。リゼットの罪を暴き、証言してもらうために、いっとき、誰かに協力して欲しい、と。
まさか王太子が来るとは思ってもみなかった。
ユリオ「余の言葉なら、どうであろうな」
ユリオの言葉には、悲しげな響きが含まれていた。
予想外のユリオ王太子の姿に、リゼットは言葉にならない叫びのようなものをあげた。力なく首を振った後、飛びつくようにして床のワイングラスの破片を拾い上げた。
リゼット「はあ、はあ、はあ……」
しかし、リゼットは鋭い破片をどこに向けるべきか分からず、迷った末に自分の喉元に突き立てようとした。
それを止めたのは、カイルだった。
王太子とは反対のカーテンの影に身を潜めていたのだ。
リゼットの手首を掴んで、易々と取り押さえた。
リゼット「あああああーーー!」
リゼットは怨嗟の叫びを上げた。その手はざっくりと切れて、血がしたたり落ちる。
騒ぎを聞きつけて、リゼットの執事が部屋に飛び込んで来たが、王太子の姿を認めて驚きのあまり立ち尽くした。
ユリオ「ケガをしているようだ。治療してやってくれ。
その後、王宮に連行する」
ユリオの言葉に、カイルはうなづいた。
リゼットをなかば抱え上げるようにして立ち上がらせ、2人の執事と部屋を出て行った。
部屋には、クラリーチェとユリオだけが残された。
夜は、急に静けさを取り戻した。
ユリオ「……本当に、クラリーチェ……なのか?」
呆然としたユリオの言葉に、思い出したようにクラリーチェは身をかがめようとした。
ユリオ「やめてくれ。かつての……
かつての婚約者として、言葉を交わしてくれ」
すがりつくようなユリオの視線に、クラリーチェは身を起こした。
じっと、ユリオの目を見つめる。
クラリーチェ「ええ。わたくしの意識では、たしかに。
わたくしはクラリーチェ・ヴァレンティスですわ」
ユリオの中で、その立ち姿が、長きにわたって許嫁として過ごしたクラリーチェと重なった。
自分を真っ直ぐに見つめるクラリーチェの瞳に堪えられず、ユリオは床に視線を落とした。
ユリオ「……余は愚かだったのだな。
一時の感情に流され、なにも見えていなかった……」
クラリーチェ「……」
ユリオ「……なんと謝罪するべきか、見当もつかぬ……
余に、なにか出来ることはないか……?わずかでも、償わせて欲しい……」
クラリーチェ「……ヴァレンティス家の名誉回復を」
ユリオ「分かった。約束しよう」
ユリオは視線を上げた。クラリーチェの次の言葉を待ったが、それは無かった。
ユリオ「……他にはないか?
なんでも……言って欲しい……」
クラリーチェはゆっくりと首を振った。
ユリオは再び視線を床に向けた。そして、小さく息を吸って、口を開いた。
ユリオ「……もう一度、余の元に来る気はないか……?
許嫁にはなれずとも、余を支えてくれないか?
その……
余には、やはりそなたが……そなたが必要で……」
クラリーチェはユリオの伸ばした手を見た。そして、自分の心がわずかも揺れていないことに、驚いた。
だから、クラリーチェは。
ゆっくりと首を振った。
********
ユリオ王太子は約束を守った。
つい先日、クラリーチェ・ヴァレンティスは冤罪だった可能性が高いと国王の名で公表された。
名誉を回復したい目論見もあってか、ヴァレンティス侯爵家主導で大きな葬儀が予定されている。
実は今回の帰郷は、その葬儀への参列を避けたい思いもあって決めた。
自分の死が政治的に利用されるところを見たいとは思わなかった。
それにしても。
クラリーチェは遠くに浮かぶ雲を見つめながら、思いにふける。
きっとユリオ王太子は頑張ったのだろう。
冤罪の公表が、国王の名で行われたことには驚いた。
ユリオ王太子が父親に掛け合って、説得したのだろうな、と想像した。
ただ、心は弾まない。
自分は薄情なのかも知れない、と思った。
一度は添い遂げようとした相手だ。それなのに。
軽い気持ちではなかった。良き妻を、良き后を目指すつもりだった。
正式に婚約者になったときも、決して嬉しくないわけではなかった。
だがそれは、相手がユリオでなくても、王太子の立場があれば同じだっただろう。
きっと、あれは恋ではなかった。
少なくとも、リゼットの恋のような激しい感情ではなかった。
きっと、自分はまだ恋を知らないのだ。
自分もいつか、恋をするのだろうか。
誰かの何気ない仕草に心を揺らす日が来るのか。
たった一言に、鼓動を早める日が。
名を呼ばれただけで、世界がきらめくような、そんな瞬間がーー。
クラリーチェはそっと目を閉じた。
やがて訪れるかもしれないその日。
まだ見ぬ初恋を、静かに、優しく思い描こうとした。
……ん?
クラリーチェ(……ところで、その相手って、女性かしら?
それとも、男性?)
まだ思い描くことすら出来ない、恋……
しかし、それを思うたび、クラリーチェの胸の奥で小さな鈴が鳴った。




