001_華の終焉ですわ
王太子、ユリオ・ラグランジュの声が、豪奢な音楽をおさえて冷たく響く。
ユリオ王太子「侯爵令嬢クラリーチェ・ヴァレンティス。
今この時をもって、我とそなたとの婚約を破棄する」
月明かりの下、宮廷舞踏会の大広間。先ほどまで万華鏡のような輝きと笑声に満ちていたこの場は、一転、静まりかえった。
その中心で、侯爵令嬢クラリーチェ・ヴァレンティスも、ただ黙っている。
ユリオ王太子はまっすぐに彼女を見つめた。
ユリオ王太子「君には、我が妹アマリエを毒殺しようとした疑いがかかっている。
すでに複数の証言と物的証拠がある」
ざわっと空気が波打った。
誰かが「そうですわ」と言った。
声の主は濃い紫色のドレスをまとった令嬢--リゼット・コルヴィア。
リゼット「わたくしは見ましたの。クラリーチェ様がアマリエ殿下に怪しげな粉を飲ませるのを……
そしてアマリエ殿下は体調をお崩しになって……」
大きな仕草で扇子を口元にあてて、伏し目がちに語るリゼット。
クラリーチェ「……あれは、違います……!」
あれは先日の茶会……体調を崩したアマリエに、私の持っていた胃痛の薬を渡しただけだ。
そして、顔色の悪いアマリエに、薬を渡してやって欲しいと私に進言した人物ーーそれが他ならぬ、このリゼット嬢だ。
リゼット「ああ、おいたわしや、アマリエ殿下……
そしてユリオ王太子……このような者が婚約者だったなど……」
リゼットは芝居がかった調子で嘆いた。
扇子で隠した口元には、さぞ嬉しそうな笑みが浮かんでいることだろう。
クラリーチェはじっとリゼットの目を見返した。
リゼット「まあ、恐ろしい」
リゼットは、胸部を揺らしながらユリオ王太子の後ろに隠れた。
ユリオ王太子は左手をあげて、そんな彼女をかばう。
リゼット「早く捕らえてしまいましょう」
ユリオ王太子の背に身体を押しつけ、耳元でささやくリゼット。
その言葉に、わずかの逡巡も見せず、うなずくユリオ王太子……
クラリーチェ「……そういう、こと、なのですね……」
クラリーチェは口の中でつぶやいた。
つい先ほどまで婚約者だった男と、自分を陥れた女の親密な距離を見せつけられて、少なからず衝撃を受ける。
ユリオ王太子「捕らえよ!」
ユリオ王太子の決定的な一声に、リゼットは嘲るような笑みとまなざしをもう隠そうとしなかった。
数人の警備兵がクラリーチェに駆け寄る。
クラリーチェ「控えよ!わたくしはヴァレンティス家令嬢、クラリーチェ・ヴァレンティスなるぞ!」
クラリーチェは警備兵を手で制し、その後、うやうやしく王太子にひざまづいた。
クラリーチェ「御意に従いますわ。殿下。
ただし、こたびの冤罪が長きに渡るヴァレンティス家の名誉を傷つけたことだけが悔やまれます」
リゼット「……ふん……」
凜としたクラリーチェの言葉を、リゼットが鼻で笑った。
********
アマリエ「お姉様!」
牢の静寂を破ったのは、アマリエの泣き声のような叫び声だった。
クラリーチェ「王女殿下。このような場所にいらっしゃってはいけません」
牢の中の寝台から立ち上がり、クラリーチェは年下の少女にひざまづいた。
アマリエ「いや!そんな呼び方しないで!」
ここに来るまで散々泣いていたのだろう、目もその周りも真っ赤になっていた。
クラリーチェは妹のような--今回の件がなければ本当に妹になっていただろうーー少女を優しい目で見つめた。
クラリーチェ「分かりましたわ。アマリエ。
……ひどい顔よ?こっち、いらっしゃい?」
鉄格子の間から手を伸ばし、クラリーチェはアマリエの頬の涙をそっと拭った。
アマリエ「……お姉様……」
クラリーチェの指先の感触を頬に感じて、アマリエはわずかに頬を緩めた。
王太子の婚約者になった時から、アマリエはクラリーチェになつき、二人きりの時には本当の姉妹のように接していた。
アマリエ「ごめんなさい……お姉様……
お姉様はそんなことしないって……薬を渡してくれただけって……
……わたし……お兄様には何度も訴えたのに……」
クラリーチェ「いいのです……分かっていますわ……」
クラリーチェはアマリエの頭をなでた。
アマリエ「お兄様は、どうしてしまったのでしょう……?
あんな人ではなかったのに……」
クラリーチェはかつての婚約者を思い出す。
そこには、怒りや憎しみというより、哀れみのような感情が伴った。
真面目で頭の固い人だった。
クラリーチェが婚約者になったときも、ユリオ王太子はこんな風に言っていた。
ユリオ王太子「クラリーチェ・ヴァレンティス。未来の妃よ。
……政略結婚だが、余は一人の男としてあなたを守ると誓おう。
ともに、国を支えて欲しい」
クラリーチェは、ユリオ王太子の国を第一に考える誠意に共感し、好ましく感じていた。
自分もヴァレンティス家の誇りと名誉を大切に考えていた。そこが、少し似ているような気がして。
互いに望んで婚約者になったわけではなかったが、きっと愛せる人になる。その時は、そんな予感があった。きっと、ユリオ王太子の方も。
今はどのように考えているのだろう?
やはりあの……リゼットと親密な仲になるために、わたしの存在が邪魔になったのか……
クラリーチェ「ユリオ王太子より……リゼット嬢に気をつけるべきですわ。
……きっと、これで終わりではありませんわ」
アマリエはクラリーチェの言葉にコクコクとうなづいた。
そういえば、アマリエが体調を崩したお茶会もリゼットが主催したものだ。
……まさかとは思うが、最初にアマリエが体調を崩したのも……?
クラリーチェは、この無垢なアマリエを陰謀渦巻く王宮に残していくことが心残りだった。
クラリーチェ「カイル。アマリエを守りなさい」
カイル「……ああ……」
クラリーチェはアマリエの後ろに控えていた護衛騎士に声をかけた。
カイル・フォルセティはヴァレンティス家の傍流にあたる騎士の青年だ。クラリーチェとは、幼少期を一緒にヴァレンティス家で過ごした仲でもある。
今は、アマリエ王女専属の護衛騎士だ。
クラリーチェ「なに、その返事!命に代えてもだからね?分かってる?」
カイル「わーってるって、言ってんだろ」
クラリーチェとカイルは、お互いに対してだけ、言葉が荒くなる。
幼少期一緒に過ごした影響だろう。
アマリエはそんな二人のやりとりを聞くと、自分が踏み込めない領域を見せつけられているようで、いつも悔しい。
カイル「……次は、死んでも守るよ……」
クラリーチェは、カイルの小さな声を聞き取ることは出来なかった。
クラリーチェ「お父様は、なにか言ってた?」
カイル「王太子は裁判の準備を進めてる、と」
……裁判になれば、証言も証拠もねつ造されるだろう。勝ち目はない。
カイル「それで……」
カイルは腰の袋から、小さなアミュレットを取り出した。
顔を背けてクラリーチェに差し出す。
カイル「……これ……」
クラリーチェはアミュレットを受け取った。
ヴァレンティス家の家紋が描かれている。
クラリーチェ「……ツライ役目、させたね……」
クラリーチェの言葉に、カイルは言葉を返すことが出来なかった。
アマリエ「ヴァレンティス家の家紋は、双頭の不死鳥をかたどったものと聞きます。
きっと、お姉様をお守りになって下さいますわ」
アマリエの言葉に、クラリーチェはにっこりと笑った。
クラリーチェ「ええ。きっと、そうですわね」
********
二人が牢屋を出て、少しの間、クラリーチェは無実を訴える手紙を書いた。
他にも、なにか書こうと思ったが、書きたい内容が思いつかなかった。
クラリーチェ「……さて」
きっと、もうそれほど時間はない。
裁判が始まる前。疑惑の段階で済まさなければならない。
クラリーチェはアミュレットを開けた。中には、小指ほどの瓶。
クラリーチェ「……いざとなると、なにも思わないものですわね……」
躊躇する間もなく、クラリーチェは瓶の蓋を開けて中の液体を飲み干した。
クラリーチェ「……ぐ……」
胃が熱い。
さらに呼吸が苦しく、すぐに、息を吸うこともままならず。
意識が、ふっと遠のいた。
********
光が差し込む。
……もう、目が覚めることは無いと思っていたけど……
身体が冷えて、あちこちが痛い。
ここは、死後の世界だろうか?
目がおかしい。周囲のものがあまり見えない。
光の方向しか分からない。
差し込む光に手を伸ばそうとして、今自分が狭いところに横たわっていることに気がついた。
なんとか身をよじって、この狭い空間を抜け出す。
喉が焼けるように痛い。
すぐにでも、水が飲みたい。
依然として目は見えない。
このままではどうすることも……
いや、水の流れる音がする。川だ。川がある。
クラリーチェは必至に、しかし慎重に這い進み、やっと水のあるところまで来た。
そして、クラリーチェは夢中で水を口に運んだ。
……足りない、もっと……
欲求に従うまま水を飲んでいると、視界がはっきりしてきた。
いつの間にか、喉の痛みも和らいでいる。
ここは森の中の小さな川のようだ。
死後の世界にしては、生きてきた世界によく似ている。
いや、死ななかった、のだろうか?
確実に自害できる薬を飲んだはずだが……
クラリーチェは自分の四肢を確かめた。
ケガはなさそう……
クラリーチェ「……?」
なんだか、身体が硬い。自分の身体って、こんなに硬かったっけ?
筋肉質というか……
お世辞にも豊満とは言えなかった胸も、ぺったんこ、というよりは分厚い胸板のようで……
先ほど痛かった喉の真ん中には、なにか硬いものがある。
下半身を確認する勇気は出ず、川の流れが緩やかなところに顔を写す……
そこには、頬の引き締まった精悍な……
クラリーチェ「お、おとこぉ?!」
口をついて出た叫びも、低かった。