第4話 一利を享くるも亦一悪を得るは務むる所に非ず、その場の勢いですることなんて碌なことにならないね!
「問題の邑の引き継いだ内容を確認しましょう、あなたのお言葉だけでは私には判ずることできません」
一度命じられたのであるから、もう文句は言わぬ。腹をくくった趙武は士匄と共に歩きながら言った。
「わたしの記憶力を疑うのか」
周の貴族から渡された文書の一字一句、士匄はそらんじることができる。それで足りないのか、と噛みつけば、そうです、とにべもなく返された。
「あなたは己の行為に間違いは無いとおっしゃる。私にはそうは思えませんが知伯は肯定なされました。しかし、あなたは否定なされますが殺された方の祟りであるのも確かであるとも知伯はおっしゃった。つまり、言葉の解釈違いか、隠されたものがあるのではないでしょうか」
「……もしくは、わたしが謀られた、か」
顎に手をやり撫でながら、士匄は眉をひそめた。あの周人が士氏を騙す理由は無い。が、彼ら自身を騙していた可能性があることに気づいたのだ。つまり、自分たちへのごまかしである。
そのような会話をしながら、二人は政堂まで歩いて行く。政堂の前には集会のための庭がある。趙武はちらりと目を向けた。その場では、様々なドラマが繰り広げられている。史官が記録を発表するのも宮庭であった。趙武の父が意味も無く誅戮されたことも、趙氏が許され趙武を長と認めたことも、告示されたに違いなかった。
さて、士匄は相棒の感傷などもちろん知らぬ。政堂の扉のわき、常に待ち控えている場に座した。趙武も合わせて座る。朝政が終わったらしく、寺人がしずしずと扉を開けた。そうして、いつものように姿勢正しく威圧無く、しかし柔弱さ無く歩いてくる父に拝礼する――はずであった。
扉が開いた瞬間、大きな塊が、勢いよく飛び出し堂のすぐ外にある庭まで転がり落ちた。何が起きたか分からず、茫然としている士匄と趙武の前を、男が一人歩いて行く。背は高くはないが、厚みのある体が壮年になっても衰えが無いことを示している。手に持つは金色に輝く銅剣であり、これほどの業物は家宝のひとつに違いない。その刀身にはべったりと血糊がついている。
「正卿……?」
趙武が呻くように、男を凝視し呟いた。
欒書。沈毅重厚、落ち着きと冷静さ、そして手堅さを讃えられる欒氏の長である。大国・晋を束ねる宰相。
彼がゆったりと宮庭へ歩いていた。冷たく重い目つきで転がったモノを静かに見据えている。士匄は混乱から戻らぬまま、その姿を目で追った。そうして、庭に転がっている塊の正体に気づき、悲鳴をあげた。
「父上!」
士爕が庭に血まみれで襤褸のように倒れている。数カ所刺され斬られ、体中ズタズタでありながら生きているようで、蠢き、近づく欒書に何かを訴えようとしている。もはや、声も出ぬというのに、まるで諭すようなしぐさであった。士匄は欒書につかみかかるべく走り出した。手に剣はもちろん、無い。本来、政堂に武器など持ち込まぬ。欒書が何故持っているのかなどどうでも良い。とにかく、士爕を助けなければならず、それには欒書を取り押さえねばならない。若造が一国の宰相の肩を掴み、引き寄せなぎ倒すべく腕も掴んだ。が、士匄は何者かに首根っこを捕まえられ引っ張られる。肩を掴んだ手は斬り飛ばされ、斬撃の起こした風が袖をかすかに揺らした。
「あ――?」
己の身に起きたことがわからず、士匄はまぬけな声をあげた。そのまま地に組み敷かれ、罪人のように額を地にこすられる。痛みを耐え必死に顔を上げると、欒書が士爕の首を刎ねていた。
「まつりごとにて和することを拒み、己の保身のみを考える卿であった」
およそ、士爕を表す言葉ではない。言葉にならぬ叫びと共に士匄は憎悪を込めて欒書を睨み付けた。士爕と欒書は子から見ても仲が良く、互いの邸を往き来しては、穏やかに友誼を深めていた。士爕が欒書を尊敬し卿の一人として支えていることを、士匄はよく知っている。それを、蔑み殺すなど、許せるものか。
「|嗣子は足切りにて」
欒書がふり返らずに言った。強い力で押さえつけられ、体を、特に足を固定される。ぎ、と士匄は喉奥から呻くように奇声をあげた。
脚を生きたまま切断する、欠損刑――。
「う、嘘でしょう、あ、韓主、韓主はどうしているんですっ」
扉の傍で唖然としていた趙武は、ようやく我に返り己の後見人でもある卿を呼んだ。
韓厥、呼称は韓主。その性質は謹厳実直であり情に流されぬが非情でなく、理で動くが理屈を弄ばず、私欲なく誰とも党を組まず。欒書が頼みにしている男の一人である。
政堂の中に、韓厥はいた。この男は表情が薄いが、感情が無いわけではない。ほぼ身内である趙武には韓厥の気持ちが伝わることが多い。優しさ、厳しさ、労り。例えばそのような感情である。
今、政堂の中、銅剣を持ち、卿のほとんどを殺し終えた韓厥は薄い表情で悦んでいた。そのおぞましい姿に、趙武はヒッと悲鳴をあげる。
「だ、誰か、誰か止めて下さい、ねえっ、誰か!!」
趙武の叫び虚しく、惨殺死体が趙武の視界に映る。
戦場にて力を発揮しながらも、穏やかな政見から賢人と讃えられていた。それを韓厥が何度も刺していた。
士匄の脚に刃が食い込み、ぶちぶちと筋肉の繊維をちぎりながら
「がああああああああああああああああっ」
全て落ち、
「うそ、うそです、なに、こ、れ」
庭に響く叫び声に趙武は首を振りながら、両耳を手で押さえた。そうなれば、目の前の惨劇は隠れない。しかし、陰惨な絶叫などもっと聞きたくない。趙武はとうとう頭をかかえて丸くなりうずくまった。
「いかがした、趙孟」
声をかけてきたのは、士爕だった。扉のわきで、拝礼しながら頭を抱えて動かない趙武を心配し、優しげな瞳で見下ろしていた。その後ろから欒書も現れ、どうかしたのか、と首をかしげている。政堂は清澄であり、宮庭は惨劇どころか血の一滴さえもなく静穏である。趙武の横で、士匄は一息ついていた。腹の奥まで冷えているのに、首筋を汗がつたっている。何か言おうとする趙武を手で押さえ、士爕に拝礼し、しずしずと口を開いた。
「お役目お疲れ様でございます。本来、嗣子としてお迎えにあがった後は父の後について帰るべきですが、本日みなで交わした問いにより調べねばならぬことができました。父上、そして正卿に謹んでお願いがございます。我ら若輩、この匄と趙孟に宮中の書庫を使うことお許しいただきとう存じます。まだ未熟な身でございます、先達のお言葉、史官の記録を見ねばわかりかねること多く、自邸の書庫では難しいと判断致しました。未だまつりごとに関わらぬ身で公室の書を見るは僭越なれど、伏して願うしだいでございます」
ゆったりと流れる水の如く、すらすらと出てくる言葉に趙武があっけにとられる。宮中の書庫は儀礼や法、律、そして政事の重要な記録に満ちている。そのようなところを使う、という話などしておらぬ。
「范叔、それは」
趙武が小さく声をかけるのを、し、とさらに小さな声で制し、士匄はさらに士爕と欒書に願い出た。士爕が困惑を隠さぬ表情を見せる。
「……宮の書庫は極めて重要な書が保管されている。汝のような若輩が研鑽のためとはいえ使うのは――」
「良いではないか。汝の嗣子も趙孟もいずれこの国を背負い、卿として人々を導く立場のものだ。今から史官の言葉や議の記録に触れるは良いことだろう。正卿として私が許そう。行ってきなさい。学び、そして私たちに後進の頼もしさを見せておくれ」
難色を示す士爕を遮り、欒書が深みのある笑みを浮かべて許諾する。そのまま、趙武に顔を向けた。
「趙孟は嗣子として学ぶ機会が無く、お困りのこともあろう。趙氏はわが国を覇者とした文公以来、代々おそばでお仕えした。公室の書にも、あなたの祖の話は多い、きっと身になるだろう。あなたの父に関しては書に少ないかもしれぬが、私はあの人の佐として支えた時期がある。もしお話必要なら申し出てほしい」
重厚さの中に労りを込めた欒書の眼差しを受け、趙武は、感謝の言葉と共に拝礼した。あなたは少々若者に甘い、と士爕が困った顔をし、欒書がくすくすと笑う。そこには気の置けぬものどうしの空気があった。
「正卿のお許しに感謝し、公室の財を使いなさい。だが、その前に、だ。匄、なんだその不祥に満ちた気配は。この宮中の中をそのようなみっともない姿で立ち入っていたとは、父として恥ずかしい限りだ。正卿が指摘せぬは、他家の嗣子として慮ってのことと知れ。早急に巫覡の方に願い出て祓って貰え」
怒鳴り声を抑えたような声音で、士爕が口早に言った。
朝に祓われていたはずの士匄の体中に、重苦しいほどの禍々しい気配が絡みつきまとわりつき、のしかかっていた。
本日二度目の祓いを巫覡に、文句を言われながらしてもらうと、士匄と趙武は書庫の中へ足を踏み入れた。棚に整然と紐でとじられた書簡が並んでいる。その数膨大、そして壮観。書簡に圧迫される思いで部屋を見回しながら、
「何を調べるのですか?」
と、趙武は問うた。問われた士匄の背中は、ひくり、と蠢く。
「方便に決まっておろうが。こういう、かび臭い、誰も来ぬ、宮中の奥でないと、な」
士匄の声は少しずつ、震え、ひび割れていく。それは、まさに静かな黄河が一気に奔流となり、氾濫していくようであった。趙武が一歩、後ずさる。
「一瞬でも! わたしを絶望させやがった、この不祥! ああ、知伯が祟りと言っていたから、祟りでよいか! 許せるか? 許せるわけないな! 我が父を襤褸のように切り刻まれる屈辱、足斬りの罪人とされる恥辱、その人生に一瞬でも絶望したわたしへの汚辱! わたしを祟り呪ったことを後悔させる、わたしを敗者として扱ったそれを、絶対に負かす、潰す、天、地、山川どこにも居場所のないほどにその念を切り刻み、とかくわたしが気が済むまで絶対にすりつぶしてやるわ!」
士匄が怨毒を帯びた怒声を部屋中に響かせた。赫怒したその姿は、溶けぬ氷と固まった雪、黄砂を含んだ泥水が一気に押し寄せ氾濫し、荒れ狂う黄河そのものである。くそ、死ね、いや死んでるわ消えろ、消し炭にする、と勢いよく罵倒する士匄に趙武が声をかけた。
「もしかして、怒りを発散するためだけに、あの、すらすらと見事なお言葉で書庫をお借りしたのですか?」
書庫を借りたいと願いでる士匄の所作は若輩としての謙譲と研鑽への求道に溢れ、落ち着いたものであった。趙武は、あの禍々しい光景を見たのは己だけだったのか、趣味の悪い白昼夢だったのか、と思ったほどだ。
「九割はそうだ。あと一割は、ここが安全だからだ」
肩で息をつき、少し落ち着きはじめる士匄に、趙武が首をかしげる。その様子に士匄は思わず
「鈍い」
と呟いた。言われた趙武は薄い笑みを浮かべると
「……申し訳ございません。私は経験浅い若輩にて、鈍いのです。范叔は毎日色々な方を受け入れて反応鋭くユルユルでございますもの、極めて経験豊富でものごともよくご存じでおられる。このたびは范叔のお導きにより政堂に不祥が起きるという経験をさせていただきました。今後も日々精進してまいりたいと思いますが私は非才かつ鈍才でございます。正卿が范卿の首を切り落としたり、范叔の脚が斬られたり、政堂が阿鼻叫喚、そしてここが安全ということをこの鈍い若輩にお教え頂けませぬでしょうか」
と、棘を含んだ声で言った。柔和な物言いにならないところが、若さというものである。士匄は、趙武の不快と埋み火のような怒りに気づき、咳払いをして、いや、うん、とどもったあと、
「言い過ぎた、悪かった」
と小さく呟く。ここで謝ってしまうところに、この若者のかわいげというものがあり、趙武も、いいですよ、と笑みを浮かべて失言を許した。
「宮中、つまり公室の書庫は記録と知恵と知識の財であり、また、卜占の結果も保管している。これらは元々天に盟い地に祈って作られているのだから、ここにあるもの自体が不祥を寄せ付けぬ。そして、それを守るための祀りもされている。宮中で最も清浄なのはもちろん君公のおわす室であり、次は君公と卿がまつりごとされる政堂だ。が、この書庫はその次に清浄であり、しかも閉じられているため守りが固い。ゆっくりお前と話せるというものだ。まさか、あそこまでする祟りとは思わなかったぞ」
「あのような幻覚を見せてくるとは、陰湿です」
趙武が士匄の言葉に頷く。が、士匄は首を振った。
「あの場では幻であり、我らは同じ夢を見たようなものだったろう。が、あれは警告だ。わたしを祟り続け、あのようにする、という未来を見せた。正卿は我が父を疎み政敵として粛正する。族滅はせぬが嗣子は脚斬りの罪人として見せしめとする」
「そんな先があるわけございません。正卿は思慮深いお方です。范卿を賢人の一人として耳を傾けていること、みな知っております。それに……韓主が他の卿を殺しておりました。状況からするに、正卿に味方されたのだと思いますが、韓主は血腥い政変に手を貸すかたではない。あの方は、公事で誰の味方もなされない。ただ、国のためだけに考え動くお方です。あんなの、絶対に、無い」
士匄は趙武の泣きそうな顔を見て、少し湿った声音でそうだな、と呟いた。趙武は十五才で趙氏が許されるまで、隠され生きていたという。それまでの人生を士匄は全く知らぬ。後見人の韓厥に対して、父のように思っているのであれば、確かにあの幻覚を未来のものだと言われたくないであろう。
「あの光景そのままが現れるとは私も思えん。あまりに戯曲的だ。が、物事が祟りにより歪み、父が粛正され韓主がその粛正に手を貸すような政変が起きるという脅しだ。ち。己の地だと言うから儀に入れて贄にしてやったというのに、何が不満なのだ」
腕を組み、鼻を鳴らす士匄に、趙武がしらけた目を向けた。
「己の主張をまともに聞いて貰えず、殺されて贄にされれば誰だって不満だと思います、普通祟るものでしょう」
そこまで言って、趙武は首をかしげ、少し考える。
「……あ。知伯は范叔は正しいとおっしゃってましたね。贄にするのは正しいのだと。でも、手順を間違えていると……。ねえ范叔。その邑は周から見れば飛び地、我が晋の邑が点在する場所にあるのですよね?」
趙武の問いに、士匄は頷き、場所を詳しく説明した。そのひとつひとつを丁寧に頷きながら聞き終わった趙武が再び口を開いた。
「周の大夫自身が嘘をついていたわけではないかもしれませんが、失念があるかもしれません。つまり、邑を最初に祀った人々や時期のことです。そのあたりは元々晋の領土ではございませんでしたが、多くの邑を保護されて、晋の国土になったと伺っております」
簡単平易に言えば力づくで併呑した、である。それはさておき、趙武の言葉は続く。
「周囲の邑を詳しく調べれば、問題の邑のことも察せられるのではないでしょうか。そうすれば、范叔が何を間違えたのか、その贄になった方が何を求めてらっしゃるのか、わかるかもしれません」
そうして、くるりと部屋を見回す。そこには多くの書物が分類され棚に並べられていた。
「ここは書庫です、ちょうどよいですね」
言いながら、趙武が書庫の奥を指し示した。そこには晋の邑について細々記された書が大量に並んでいる。士匄はうんざりした顔を隠さず、うえ、と呻いた。
「あの近くの邑といっても、一つ二つというわけではないのだぞ。大邑、小邑、全て調べると言うのか。いくつあると思っているのだ、わからねば徒労ではないか」
心底嫌がっている士匄に、趙武がやるのです、と強く言った。
「范叔が死ぬまで毎日雑多な鬼が憑くくらいでしたら私だってどうでもいいです。しかし、晋の大事に繋がるというのであれば別です。きちんと、丁寧に調べていきましょう。それで何もわからないのであれば、次を考えれば良いではないですか。この書庫ではわからなかった、ということが一つわかります。さ、やりますよ。せっかくお借りした書庫です、きちんと使います。ほら、だれない、面倒って顔しない、階段は一歩一歩登るしかございませんでしょう、一足飛びに最上段には登れないんですから。はい、ファイト、オー!」
趙武が握り拳を作り、上に掲げて見上げてくる。士匄は身をよじって顔をそらしたが、見上げてくる趙武の圧が強い。
「ふぁいと、おー……」
見た目によらず体育会系のノリが苦手な士匄は、諦めた顔で、拳を作り掲げ、言った。趙武が満足げな笑みを浮かべながら、はい、やりますよ、と書庫の奥へ歩いて行く。士匄はしぶしぶ後ろをついていった。