第8話 飲食を貪り、貨賄を冒り、侵欲崇侈して、盈猒すべからず。飽食も贅沢もしつくし足りず強奪しても乾き飢え、満足したた
皐は飛ぶように向かい、あっというまに士氏の邸へ着いた。その速さを士匄が予測していたか。
士匄はもちろん、そこまでの神速を予想していない。が、彼は以前こうも言っている。
――『信』とは個人間の約定ではない。常に国を思いおのが職分を越えずまつりごとを行う大夫としての基礎だ。日々国難を考え積み重ね怠らず、危機があっても必ず好機とする備えの心構えでもある。
いつか趙武に長々と宣った、《《罵倒》》の一部である。急難あろうが、常に備えあれば憂い無し。まあ、常に祟りや呪いやトチ狂った巫女に対して備えあるというのもいかがなものかと思うが、巫女の急襲に関してはかまえていたであろう。
ただ、門を護るものどもは全く役に立たなかった。むろん、門番たちも士匄に報告はもちろん、防衛も命じられている。問題の巫女が現れれば、すぐに対処するつもりであった。
よもや、怒りで我を忘れた巫女が、門ではなく邸を囲む土壁をぶち破って襲来するとは、誰も思うまい。よくよく考えれば門から入らなくても良い、とはなるのだが、芯を入れ何重も土を固めたそれは、砦の城壁と同じである。趙武はもちろん、士匄も考えもしなかった。
「くそ、山猿は儀も礼も常識も謙譲も知らぬ!」
士匄は吐き捨てる。巫覡は動く事なく座し、息を整えていた。
「正門、南より来られるなら私も共に動きましたが、これはよろしくない。あの者、心が乱れ巫覡としてなっておらぬが、能を忘れてはおらぬ。北より来ました。鉤吾は我が国より北にあります。この邸が、晋、絳都、我が士氏の廟であれば、やつは己の陣ごと乗り込んできたようなもの。私は荀氏の嗣子を守るためにおりません。あなたの命は二の次、士氏を護るためにいるものです。場を保つことに全力をせねばなりません」
「お、前。この期に及んで、逃げるのか!」
淡々と長口上をする巫覡に、士匄は怒鳴った。士匄は確かに霊感はすぐれており、知識もややあろうが、素人である。本職の前に徒手空拳で放り出されてもどうしようもない。しかし、巫覡は首を横に振る。
「口添えはします、護符も渡すことはできます。しかし、この場が壊れれば、負けます。助ける、処する、などということを言ってられない。士氏は祟られ呪われ、穢れ、確実に終わる。明日になる前にでも、祖霊さえ祟り見放し、あなたは自ずから縊死を選び、我が主は処刑されかねない凶事が襲います。巫女の力が強いわけではない。巫女が山ごと乗り込んできた。私は城を守る、あなたは砦を越えて領地に侵略してきた巫女を倒す、倒さねば城下の盟と同じです」
城下の盟。つまりは無条件降伏、完敗、恥辱屈辱屈服。あまりの言葉であった。怒りの増した士匄がなおも怒鳴る前に、趙武が制した。彼は、巫覡の言いたいことを察したのである。これは士匄の勘が悪いわけではなく、趙武が滅びに敏感すぎただけであった。
「士氏の内側のお言葉をさえぎり、ご容赦願います。范叔に若年として、そして滅びかけた氏族の裔として申し上げます。巫覡の方は、戦の話をしております。たとえ、巫女一人でも……いいえ、君命であろうが、氏族の邸に攻め込み滅ぼそうとするは悪意、そして戦です。主人は内に籠もって守ろうと思うもの多し、情としてはそうなります。しかし、助けは来ません。絶対に、来ないのです。助け来ぬ戦で、本陣丸裸で攻められて、無事の国がありましょうや、家がありましょうや。内は護り強く信頼篤い臣にお任せし、主人は外に出てうち払うことこそ肝要です。それが、悪意を祓うことにもなる。それをせず、他者に頼ることこそ、夢想を貪るということになりませんか」
趙武の言葉に、士匄は少し茫然とした。備えあり、自信あり。そうかまえていた己が、実は薄っぺらいものに立っていたことに気づいたのである。焦り、という薄っぺらくやっかいな感情に囚われ、巫覡へ知らず知らずのうちに依存していたのだ。思わず歯ぎしりをする。己の未熟さこそ、腹立たしいことはない。常に攻め、欲しいままに勝つのが己である、負けぬことに拘泥するなど、なんとみっともないことだろう。
士匄は、とん、とん、とこめかみを二回叩いて、静かに言葉を紡ぎだす。
「鉤吾の山は北山二席の巓を主霊としている。北山は中原北方に位置する我が晋にとっても身近かつ恵みある山嶺山脈。そのお一柱の山霊が巫女を伴ってお越しになられたのであるからもてなさねばならぬ。が、北山の内に棲まわぬ卑小な我らには山ひとつひとつの祀りなどわからぬから、二の首十六山従え六一四〇里を要する主霊をもてなすが道理。で? 用意はできるか?」
すらすらとした、嗣子の命に巫覡が
「すぐさまに。邸北側を臨む堂はそのまま社にお使いを。獣は狗を嫌いますゆえ、その護符もお渡しいたしますが、主はあくまでももてなすことです。また、あなたは嗣子ゆえ、主人になりませぬ。主人代わりに我が士氏の祖、大司空が時の晋公から下賜された冠をお使い下さい。祖がお相手しくださいましょう」
「あー。じいさんの『じいさま』か。いざとなったら言上の足しになろう。……趙孟、急ぐぞ」
士匄のやらんとしていること、そして憑きものの落ちたような様子に、ポカンとなっていた趙武は、あわてて頷いた。士匄は短気でやりすぎた失敗というのが目立つ男である。が、それでも頼りになる才と我の強さがある。今、進んでいる時、彼は後ろを見ていない。趙武は士匄が何を見て歩んでいるか、わからない。が、わからずとも後ろは気をつけてやれば良いだけであった。
足早に邸を進む士匄に続き、趙武が足早についていきながら
「どうするのですか?」
と問うた。士匄はさすがに、鈍い、と返さなかった。
「鉤吾の山を牛耳る獣を使っているのなら、その山を統べる主霊に潰して貰うよう願うだけだ。祀りを行いこいねがう」
そこまで言って、士匄は一拍置く。
「一羽雄鶏と一頭の猪子、玉は一璧一珪投げ打って神前に穀は供えず。二首へはこれだ。私は正式な主でないゆえ、ここまでの山霊を呼ぶには非礼になりかねぬゆえ、高祖父の威を借りる」
「ああ、それで冠ですか」
「大司空として任じられた際にいただいた、我が家の家宝だ。法の象徴でもある。欲を司るものには、まあ対峙できるであろうよ」
大司空とは士氏の祖というべき高祖父のみが任じられた、都市と民を管理し、法制を整え施行した役職であり地位である。晋にて士という一族が成り立った基礎と言ってよく、士匄の中に受け継がれる血脈と土台であった。
最も北面の堂にたどり着いたとき、既に簡易の場は設けられており、玉璧と玉珪――瑪瑙でできた板状のもの、玉状のものである――や贄が用意されている。もちろん、冠もあった。布と革でできたそれは頭をすっぽり覆う帽子状であり、頭部前方に角でも出すような飾りがほどこされている。結い髪の先をまとめる程度の、小さな冠しかしていない士匄は、問答無用に上からかぶった。趙武は適当だな、と思った。そして――、破壊された土壁からまっすぐと、異様な女が歩いてきていた。
女。巫女。皐は、邸の中で荀偃のにおいがあやふやになったことに焦っていた。士氏の巫覡がすぐさま手を打ち、護りを固めたため、知覚が負けたのである。しらみつぶしに探さねばならぬと、周囲を伺いながら歩いていた。己の神域ごと乗り込んだというのに、この邸は抵抗しやがる、と苛立たしさがつのる。人ごとき、氏族の邸、祖霊の端末ごときに、おのが神域が押されるなど、不快であった。
皐がその仮面で表情を消し、異界のヒトとして、士匄たちに向き直る。士匄は、粗末な葛衣、簡易な面、そして面妖な体の模様に嘲りの目を向けた。淫祠。天、地、祖の正当性のない、土着信仰を貴族はそう蔑む。その侮蔑が正しいかはともかく、今、これが迷惑なのは間違い無い。
士匄は、威儀正しく、所作美しく座し、すっと息を吸った。趙武が金色に磨かれた小刀や、異常な空気に怯え身をすくむ生け贄どもを引き寄せ用意し、横に控える。
「……祁姓の流れ、晋にて大司空の権能いただき法の尊ぶ士氏嗣子である匄が申し上げる。荀氏への言祝ぎに北山二首の元から鉤吾の山霊が巫女を伴いお越し頂いたこと、まことに恐縮なれど、先触れなく我らには満足なご饗応さしあげることかないませぬ。恐れながら、こたびの儀にあなたさまの主である北山二首山霊がご存じか否かお許しか、伺いご教示たまわることお許しいただきたい。おおよそ八卦にて山は昆、北は坎としております。坎はあなたがたも大切な水を司っておられる。前に水、後ろに山あらば、我ら進むことも退くこともできず困難に人は立ちゆかず、すなわち蹇」
士匄が目で趙武を促す。趙武が頷き、すかさず儀に則り雄鶏を出し押さえつけて、首をゴトリと落とすと、返す刀で股の間に刃を刺し抜いた。血が飛び散り、趙武の衣は汚れたが、二人とも顔色一つ変えない。
ほんの少し、空気が流れる。澱みに変化が起きる。
「お、お前えぇ! 伯さまを、かどかわし、て、その上、その上無礼! 小賢しい!図々しいいいいいっ!」
高位の山霊で圧してこようという気配を察し、皐がおのが山霊、神獣に祈る。その神獣は、士匄たちから見れば凶獣でしかない。狍鴞の影がわきでて、社と化した堂へ襲いかかった。狗の護符が動き、大きな吠え声でそれを散らす。ひるんだ皐を尻目に、士匄は趙武にもう一度目配せしたあと、言上を続けた。
「前に坎、後ろに昆。こちら蹇は、大人を見るに利あり、貞しくして吉。我ら小人にはこの困難越えることあたわず大いなる山霊の助けを求め善処し待つことしかあたわず」
趙武が猪の子の首を刺し完全に動きを止めた後、耳を切って皿に載せた、血の中に耳が添えられているようであった。士匄がすかさず、玉璧玉珪を堂から投げ捨てる。それは、皐の方向へ飛んで落ちた。
「雄鶏ひとつ、猪子ひとつ人の育てし贄と山で生まれた贄を喜ぶ公平さ、玉璧玉珪を手ずからでなく受け止める度量、穀をいらぬという謙虚。まさに北山二首の主にふさわしき神霊山神のお方、あなたさまの従者へのおもてなしのためにも、我らにお力添え願いたい。我ら睽である。すなわち大きなことできず、小さき知恵のみが祝いの道。睽とは乖くなり、乖けば必ず難あり。故にこれを受くるに蹇をもってす」
天子の前でもここまでできまい、というほどの見事にぬかずくと、士匄は目を閉じた。繋がった、という確信があった。
「あ、あ」
皐の体に描かれた文様が粉のように散らばり、霧散していく。異人の仮面がボロボロと崩れ落ちた。影にいたであろう狍鴞どもが、皐の周囲に寄りそい、怯え立ちすくんでいる。
趙武には、風が、空気が渦巻いた、と見えた。士匄には、重圧としか思えぬ神気と瘴気の渦が邸の上に表れた、と見えた。
「何か、影のようなものが、巫女に、降りて……」
趙武が目を見開いて、茫然と呟く。木陰、日影。そのようなものとは違うが、影、としか形容しようがないものが、巫女を覆うように降りてきていた。
が、士匄はそんなもの見えていない。何が影だこいつ、と叫びたいが、そんなことをすれば、ご機嫌をそこねてお帰り遊ばれるであろう。お怒りのあまり、こちらを蹴散らすかもしれぬ。
天を覆うほど大きな頭が、まず目立つ。厳かな賢人の顔で髭の長さは不老不死と神威を表しているのであろう。目は、人間の形であるが、ヒトの情などみじんも無い。見つめていれば発狂する、と士匄はすぐさま目をそらした。首から下は、うねるような蛇身である。雄大な稜線そのもののうねりであり、これは二首が統べる十六山六一四〇里を表しているのであろう。六一四〇里は現代の縮尺で言わば、約二五〇〇キロメートルである。その鱗ひとつひとつに陽光が反射して煌めいた。蛇は山の神であり、北は水を含む。そして蛇の鱗は太陽神の加護にある。北山にある三つの大いなる山霊。その一角を担うに相応しい。
人面だが目の無い羊。獣でしかない狍鴞は、気配で高位体に気づいていたのであろう。完全に体を伏せた。皐は、ガチガチと体を震わせる。己でさえ、ここまでの距離を以て主神山霊を呼ぶことはできぬ。大貴族の、上質な贄、玉、そして教養の粋を極めた口上あってこそであろう、と妬みさえあった。
強大すぎる異形の圧力に鼻血を出し、嘔吐しながらも、彼女は膝を屈せず、立った。怯える狍鴞を撫で、
「おとうさんをよぼう」
と小さく励ましてやる。
呼び出した山霊の圧力に耐えながら睨み付ける士匄を、皐はやはり圧迫に耐えながら睨み付け、一歩ずつ、歩いた。地が、重力に耐えかねるように沈む。その足をむりやり抜いて、また歩く。
士匄はこれ以上の言上はできぬ。残っているものは、あの神にお帰りいただく言葉しかない。が、動くことくらいはできるのだ。金を持っていけ、使え。巫覡は言っていた。士匄は、研ぎ澄まされた銅剣をそっと引き寄せる。
「伯さまは、欲が、必要! あたしに、その贄を寄越せ、財を寄越せ、知を寄越せ、伯さまを返せ、すべて、すべて、食う、食い、食わせる、食わせろぉ! お、お! おおおおおおおおお!」
皐が、獣のような吠え声と共に己の爪を強引にむしり取り、地に撒く。撒いてはむしり取り、指先が血にまみれ、激痛走ろうが、爪を剥ぎっては撒いた。
静かについて回っていた狍鴞が、赤子の声で泣きだした。ああーん、ああーん、ぎゃあああん、ぎゃあああん。夜泣きのようであり、遠吠えのようである。
瞬間、夏の陽光に照らされていた場が、暗闇に溶けた。中天に日あり、しかし闇に入る。陰陽を備え、神気と瘴気を纏っていた山霊が、膨れあがりつつある瘴気に飲み込まれ、声なき悲鳴を上げた。その、長い蛇の尾をのたうち回らせる。その鱗に日の加護は無い。
空に渦巻く瘴気から、ずう、と大きすぎる羊の蹄があらわれる。それは実体でないことくらい、士匄もわかった。趙武でさえ、それが見えた。
「な、にあれ」
枯れた趙武の声に、士匄が
「くそったれ」
と、貴族令息にあるまじき雑言を吐き捨てる。
それは、カタチしかなく、ご本人ではない。しかし、だから何だというのか。淡い影だけでも、一国を平らげることなどできるであろう。羊の体に虎の口、人の面に禽獣の瞳。大きすぎる羊の両角は美しい弧を描き、規則正しい螺旋をかきながら直状に伸びている。完全なる左右対称、歪な異形であるにも関わらず均整の美しさ。絢爛かつおぞましい、そして、全てを喰らいつくす混沌の一つ。
「貪って、全てを貪って、伯さまにそのすばらしさを、全てを食べることこそ生きること、勝つこと、ご教示ください、お恵み下さい! 我が神獣の父、四方の護り、饕餮!」
皐は指先を喰われながら、歓喜の声をあげた。
そのころ。士氏の巫覡はとんでもない瘴気と圧迫に身を苛まされながら、必死に護りの陣を整え続ける。卦を占い、毎秒ごとに変わる祀りの場を作り続けているわけであるから、邸の護りと場の護りしか見えぬ。ゆえに。
ゆえに、荀偃がいなくなっていたことに気づかなかった。気づきようもなかった。
「皐を、いたわってやらないと」
枯れ木のような体をかかえ、荀偃は歩き、その歩みはどんどん早くなっていく。彼は四つ足で邸を北へと走り抜けていた。