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第10話 よく終わり有るすくなし、終わりよければ全て良し

 汚れた身を清め服を改め、問題の(ゆう)へと帰り着いた士匄(しかい)趙武(ちょうぶ)は、その周辺の異常にすぐ気づいた。


「軍?」


 士匄は思わず呟く。趙武も己の馬車から異様を見る。邑を威圧するように、軍用馬車――兵車(へいしゃ)――と、軍服と言える戎服(じゅうふく)を着たものが整列している。その先頭にいるのは、荀罃(じゅんおう)であった。彼も戎服を着ていた。士匄たちに気づいたらしく、笑みを浮かべると兵車から降り、出迎えてくる。


「戎服にて立礼(りつれい)を詫びる。そのお姿を見るに、全て差配終え、儀を執り行ったご様子、お疲れ様です。私はあなたがたを教導する身としてこの度はお力になれませんでしたが、若輩ながら立派に取り仕切られたこと、この(しん)の先を治めるに相応しいと言えるでしょう。もし、(けい)としてお立ちになられたあかつきには、私は従い道を掃き清めて参ります」


 礼に威あり、儀に美しさあり。しかし野卑なく穏やか。(よろい)はなめされた革がつやつやとしており、身につけるさまに紐のほころびも一つも無い。壮年の男盛りは、戸惑う若者たちに柔らかく笑んだ。


 士匄や趙武も合わせて立ったまま返礼する。趙武は少々拙くなったが、士匄はさすがすらすらと返した。が、闊達とは言いがたい表情であった。そのまま口を開く。


「恐れ入ります、知伯(ちはく)。一軍とは言えませぬがかなりの手勢をお連れになられているご様子。山にて神事を行っていたわたしは、俗世に疎くなってしまいました。ご理由を伺いたい。……立ったままの会話など戦場でなければ大夫(たいふ)のやることではない。我が邑にて歓待つかまつります」


 士匄の言葉に荀罃は手で制し、


「私は(なんじ)らが帰ってこれば邑に入らぬ、とこちらの邑宰(ゆうさい)に誓いを立てた。帰ってきたのだ、私は兵を引き上げ帰るのみ。范叔(はんしゅく)が誘うからといって邑に立ち入れば私の軽重が問われ、また誓いを破る愚か者となる。約定は守るべき、というのは范叔も言っていたろう」


 と、穏やかに言った。士匄はそれで意味がわかりだまりこんだが、傍らの趙武はわからない。


「どういうことですか、范叔」


 と、士匄に聞いた。荀罃に問わなかったのは僭越になるからである。士匄は困惑した顔を隠さず口を開いた。


「知伯は我が邑を囲み攻めるおつもりであった。ということだ」


 士匄の言葉に趙武が目を見開き、荀罃を凝視した。士匄も内心、驚愕と困惑が強い。何故そこまでするのか。このあたり、趙武はもちろん、士匄の認識は甘すぎた。


「……あなたが独断でお考えになるはずがない、父上の考えですか。何故」


 荀罃をまっすぐ見て士匄は問うた。


 正直、この柔和な笑みを浮かべる壮年はやはり怖い。柔和な笑みに嘘は無い。荀罃は笑みを浮かべながら人を圧迫などしない。しかし根底に、砂塵巻き血肉引き飛び屍体転がる戦場を生きる男がいる。


「本来、己のことでなければ范叔も気づいたであろうが、汝にとっては未だ私事であったか。仕方無し。趙孟(ちょうもう)も同じく私事とお思いであろう。さて、私は汝の申し出を公事として承ると言った。ゆえに、公事として范叔のお父上である上軍(じょうぐん)()とお話し、手遅れになるまえに邑にまつわる凶事を防がねばならぬ、ということとなった。ゆえに、邑を攻め、邑宰以下、祀りに関わるもの全て奴隷とし他の邑へ移す。むろん、反抗したものはかわいそうだが殺さねばならない。邑を完全に滅ぼし、祭祀無い領地を公室直下の『(けん)』として新たな名を与える。そのために私はここで差配していたのだ。邑宰には全てお話しているため、お覚悟は決めておられるであろう。私が入るは邑の滅び、去るは繁栄と誓った。汝らがきちんと戻ったため、人が死なずにすんだ、善きことだ」


 士匄と趙武はひきつり、ひっ、と小さく喉奥で悲鳴をあげた。この先達は、士匄たちが戻ってくるまで待っていたわけではあるまい。決めていた刻限までに、たまたま士匄たちが帰ってきただけなのだ。


「あ、えっと。いや、知伯も父上も、お、大げさでは」


 なんとかそれだけを口からねじりだし、士匄は荀罃を窺い見た。一瞬、鷹の目のような視線が貫いてきて、士匄は背を震わせた。


「范叔。私は公事とすると、言った。もし、汝が己で范卿(はんけい)に相談なされていたらどこまでも()氏のお話であり、汝が教導している趙孟が見聞を広げるためについてきている、私事で終わった。しかし、私に口添え頼んだ以上は公事とする。そして公事とはこういうことだ。どのような小石ひとつでも、国の歩みに邪魔となれば取り除く。その小石がおのが子であろうが忠心の家臣であろうが、同じ。わかったら、私事を軽々(けいけい)と公事にせぬよう心がけなさい」


 ――私の立場で范卿に申し上げるということは私事ではなく公事となる。その覚悟はよろしいか――


 その言葉の意味に今さら気づき、士匄はほおを引きつらせた。公族大夫としてその見識を誇る士匄であり、趙武にえらそうな講釈まで垂れた。しかし、国事の重さが全く分かっていなかった己にようやく気付いたのである。


「――さて。邑に入らぬ、立ち話で問おう、范叔。汝は結論は合っていた。が、やるべきことをしていなかった。それが何か気づいたか」


 荀罃の厳しい声が、士匄にぶつかるようであった。士匄は一呼吸をしたあと、拝礼し応える。


「わたしは素衣素冠(そいそかん)の男が我が地であると(のたま)ったとき、名乗りをさせるべきでした。名乗られ名乗り、その上で儀を続け贄とすべきであった。知伯に申し上げます。この度の祟りは己を祖霊と思い込んだ山神でございました。名乗りをさせておれば、すぐさまそれが知れ、その場で対応でき、山神からの贄も無事に地へ収められたでしょう。わたしの不知不徳により皆々様にご面倒おかけしたことを、まず今、知伯にお詫び申し上げます」


 士匄の言上に荀罃は、まあ及第点、という顔をした。その後、趙武に目を向ける。


「理はわかったかな?」


 その一言で、問われた意味を察した趙武はやはり拝礼し、口を開いた。


「実は、山神であった、ということで、贄にしたのは理に適いますが……。知伯はそれが分からぬ前から理であるとおっしゃってました。それは、素衣素冠の男の正体がわかっておられたからですか? 私には、男が狂人と疎まれわからぬことを言っていた、とされていてもいきなり殺し贄というのは、わかりません」


 素直な言葉に、荀罃が少し優しく笑んだ。趙武はこれから多くのことを学ばねばならない。十五才まで隠され生きてきた彼は、どこか貴族的価値観から浮いているところがある。それを本人も自覚し、常に努力もしている。その趙武を慮り、荀罃は先達として優しさを向けた。


「わからぬことを羞じなくてもよい。これから覚えていけばいい。はっきりいえば、素衣素冠の男が何者であろうが、私は殺し、贄にした。ただ、名乗りをさせる儀を忘れてはいけない。それにより儀式が違う場合がある、程度の話ではあるけどね。その男は、邑から外れた存在でありながら、所有を主張した。そして新たな所有者に譲らぬと言う。ならば、戦の作法として宣戦は受け、そして勝ち、殺して贄にするは当然だろう? その素衣素冠の男が何を主張しようが、山神であろうが、邑を侵す外敵であることにかわりはない。国を担う我らにとって、邑を持つ、民を養うというのは、そういうことでもある」


 諭すように言う荀罃に趙武は黙って拝礼した。荀罃の言うことも道理、それを踏まえて動いたのであれば士匄も道理である。そう受け止めながらも、趙武は


 戦い倒す以外に道は無いのだろうか


 と考えた。命を奪うことを最善とするのか――。趙武の表情を見て荀罃は察したらしいが、それ以上何も言わなかった。彼の役目は終わったのである。士匄たちが全てを収め帰った以上は、荀罃のすることなど、もう何もなく、彼は手勢を率いてさっさと去っていった。


「我らも帰らねばならぬが、まあこの邑に泊まっていけ、趙孟。我ら野営ばかりで進んでいた。わたしは疲れた、床でまともに寝たい」


 士匄の言葉に趙武が思いきり頷いた。ようやくのんびりできるというものであった。


「そうですね。范叔はずっと、えっと地雷女? みたいなもののせいで不祥にまみれてましたから、やっと息がつけますね。でも、どうしてそのご面倒でしつこい女性は范叔と一緒に死のうとなされたのでしょう。お嫌いになられたのでしょうか。あれ? そうしたら自分も死のうと思いませんよね」


 後を追いかけながら首をかしげる趙武に、士匄は何度目かの苦い顔をさらし、


「その話はいいかげん、忘れろ!」


 と怒鳴った。


 さて、以降は顛末、オチ、余談である。


 まず、山神は公室の巫覡たちによって縁を切ってもらった。祀りも正しく改め、山神の脅威は完全に消えた。


 士氏が(しゅう)人から貰い受けた問題の邑は公室に献上された。


「どうしてですか! 父上!」


 知った士匄は情けない顔で訴え縋った。命をかけて祟りを祓い、名実ともに己の所有となったのである。正確には士匄が受け継ぐ領地となった、である。それはともかく、納得がいかなかった。


「汝が公事にしたがため、おおやけとして(じゅん)氏に始末を願った。その際、私から君公(くんこう)に献上奉るためと申し上げている。元々、周人が賄賂として渡してきたのだ、我が邑とするより公室にお入れしたほうがまるく収まる」


 言外に、お前の差配のせいである、とくぎをさして士爕(ししょう)は半泣きの嗣子(しし)を睨み付けた。士匄は欲が深い。己のものは己のもの、お前のものは己のもの、という人間である。この結果に本気でへこんだが、親もそんな息子に頭が痛くなる思いであった。


「……(かい)。我が家が周と繋がり威勢を持つことで、君公から疑心を持たれることをまず怖れよ。小さな利を失って動揺するなど、恥ずかしいかぎりだ。元々、己の過失であることも忘れるな。いや、汝はその。才は私よりいっそある、それはあるが……。すっごく心配になってきた」


 いつもなら、黙って頷けと殴ってくる父親が、本気で心配し、憂い、幼子を見る目を向け、ため息をついた。常に自信を持ち不敵不遜である士匄は、言い返すこともなく引きつった顔で、身を縮込ませる。二十半ばの息子としてはどうしようもなく、いたたまれなかった。


「ご、ごめんなさい」


 士匄は、幼児のような言葉で思わず謝った。


 趙武と言えば、久々に祖霊の(びょう)へ赴いていた。むろん、(ちょう)氏が領する邑である。邑宰は祀りの時期ではないと驚いていたが、


「ただご挨拶したかっただけです」


 と趙武は断り、廟で一人、祖霊に拝礼した。曾祖父、祖父、父が祀られているのだが、趙武はその三名の顔全てを知らない。会ったこともない。趙武が生まれた時には全員死んでいる。


「縁もゆかりもない山神をこちらに移して祀るはめにはなりませんでした。公室の巫覡(ふげき)のお方々はとても優秀、仮で作った山神の社も処理してくださると仰ってました。おかげさまで、妙な守護の気配も全くございません。他の職を侵さず己の職を全うしろ、とは違うかもしれませんが身に沁みてしまいました――程嬰(ていえい)


 趙武は父の傍らにある小さな社に話しかけた。この、趙氏の廟には、氏族でないものが一人、祀られている。名を程嬰と言い、趙武の父の親友であり、趙武の育ての親でもある。彼もすでに鬼籍(きせき)であった。


 ――人生の言葉は先人の記録か、生きている先達から学ぶことだ。死者を呼び出し学ぶは凶事――


 范武子(はんぶし)の言葉が趙武の心を小さく苛む。はっきり言えば、曾祖父祖父はもちろん、父さえ呼び出し学ぼうなどと思ったことはない。顔くらい見たいとは思うが、それは淡い感傷でしかない。


「……もっと立派になって、あなたにご報告したいものです、程嬰。私はまだ未熟者で、育ててくださった恩に報いることできてません。わからないことばかり。……そういえば、女性には情を交わした相手を殺して自分も死のうという方がおられるそうです。好きな人には幸せになってほしいものだとばかりと思ってたのですが、世の中やっぱりわかりません。程嬰はどう思いますか?」


 未練がましい報告が徐々にあほな内容となり、趙武はもの言わぬ故人に、今回の顛末を語りだした。その姿も話の内容も趙氏という大貴族の長と思えば少々幼いのだが、まあ大目に見て欲しい。彼はまだ成人してすぐの、恋さえ知らぬ青年なのだった。彼の過去に関しては、まあ機会があれば語ろうと思う。

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