はじまり
ひょう、と軽く滑らかな音が響いた。枝々が揺れる静かな騒めきばかりが満たしていた暗がりに、一直線にそれは疾る。
一拍の後、太い鳴き声が一帯を木霊した。這い出たるは一頭の熊。皆畏怖の心を持つであろう大きな体を丸め、後ろ脚を庇いながら懸命に進むそれには、既に何本もの異物が見えた。矢である。
暗く塗られた細い篦に、褐色の小ぶりな矢羽根。一つではこの大柄な熊にろくな痛痒を与えもしないようなそれらは、しかして毛皮の色も伺えぬ程の密度でもって、大熊の四肢の一つを見事封じている。
ひょう。もう一度、彼の矢音が響く。空を切る矢は先と違わず、後ろ脚へと突き刺さり、悲鳴を響かせる。ただ、此度は大熊もただでやられたわけではなかった。最早逃げることは出来まいと悟ったのだろうか。引き摺る脚を無理矢理回し、猛然とある方向へと突進する。
広がる矢傷を顧みず大熊が一点に目指す先には、木々に溶け込むような、暗い緑衣を羽織った存在がいた。猛然と近付く獣に対し、太い枝に座り込み、矢を番えたまま微動だにしない。外套から覗くのは、皴一つ無い張りのある肌。驚くべきことに、この肝の据わった射手は年若い青年であった。
彼の腰掛ける樹へと、大熊はあと一息というところまで迫っていたが、何故か射手は先程まで雨の様に降らせていたのとは打って変わって、弓は構えるのみで、矢を握る手を開く素振りさえ無い。それを怪しむ余裕すら無い大熊は、遂にその幹へと飛びつかんと強靭な爪を掲げ上げた。
途端、大熊は横殴りに倒れ込んだ。僅かに地面を揺らし背を叩きつけられた大熊に、立ち上がることは許さぬとばかりに再び追撃が走る。
剣である。森で振り回すのには到底向かないような、大振りで厚い刃でもって巨体を弾き飛ばしたのだ。怯んだ隙を見て、斬るというよりも殴るように、腹に、首に鉄の塊を振り落としていく。
息も絶え絶えとなった大熊に、大剣の使い手はとどめとばかりに切先をその胸へ突き刺した。大熊は弱々しく震えた後、四肢を弛緩させ、遂にその呼吸を止めた。
使い手は、慎重に剣を引き抜き、数歩離れ構えたが、真に熊が事切れた事を感じると、漸くそれを革造りの鞘へ仕舞った。その姿は大剣を軽々振り回すに相応しい屈強な大男ではない。剣を一振りし血を払うのは、あの膂力とは不釣り合いなほど華奢な青年である。
戦いの終焉を悟って樹から滑り降りてくる射手の青年は気安げに相方の肩を叩き、腰に提げていた小刀でもって熊を解体しにかかる。血の匂いに釣られて他の獣がやってくる前にきっちり終わらせねばならない。ここで獲れた肉の量如何で今後何日の食事が豪華になるかが決まるのだ。
これが、愛仔狩りの二人の日常である。