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散文

気持ち悪い文章

作者: 永井晴

気持ち悪い文章。それだけ聞くと、なんだか筋の通っていない、ぐちゃぐちゃな文章を思い浮かべるかもしれない。でも、僕が最も「気持ち悪い!」と思ってしまう文章は、学生時代にほぼ全員が書いていたような、読書感想文や小論文、英検のライティング、といった定型文に支配された文章だ。先生や友達から教えてもらった定型文を堅苦しく思いながら書くのが嫌で、さぞよく出来ているであろう模範解答とやらを見るのだが、そこにも定型文というのが染み込んでいる。もしかしたらAIに書かせた文章との見分けなんてつかないのではないか?少なくとも、「言葉を扱う」といった感じはしない。ただ無表情の記号をはめてゆくような作業。僕はそれが本当に嫌いだ。

フォーマットの必要性については僕も認める。論文なんかを見ていても、整理されていて分かりやすい。しかし、その言葉一つ一つまでを限定する必要はあるのだろうか。「ーだと思います。なぜなら」「i have two reasons. First, 〜」なんだかコンクリートのように窮屈な文章である。戦前の日本の国語教育では自分自身の学習や生活における感動の発見を綴ることが中心となっていたらしい。我々が文豪の言葉をはじめとした近代の日本語に浪漫や威厳を感じるのも、少しはこれに関係しそうである。体系として日本語の持つ情緒というものが薄れてきたのだろうか。もはやエキゾチックな感覚すらあるから悲しいものだ。別に研究をした訳でもないので偉そうなことは言えないが、現代文学の文章の平易さなんかも何となく繋がりが感じられなくもない。「なんか月並みな表現だな」と思うような、そんな文章たち……

僕は自由でありたい。そういう意味では、詩は誰にも囚われないから好きであるし、僕自身も詩人でありたいと思う。もっと自分を出して、詩人になって、言葉を紡いでもいいのではないか?でもその完全なる自由はあくまでも言葉を紡ぐ人のもので、それを味わう人たちが錯綜してしまっては、表現は成り立たない。「文学の捉え方は人それぞれだからね」という人がいるが、確かにどう捉えるも自由だけれど、確実な方向性というのはあるだろう。そういう読者の側の意識も、教育の賜物ということだろうか?

ーー気持ち悪さというのは、本当に色々なことを考えさせてくれる。

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