4 柿木薫子と新しい真実
安藤恵の事件は数日して柿木薫子の耳にも噂の一つとして入ってきた。公にはせずとも、やはりちらほらと情報は漏れ出てくるものなのだ。とは言え詳細がわかる訳ではない。最後に彼女と話した後に大量のラムネを受け取った手前、依頼外ではあるものの井上佑に連絡を入れた。するとその兄の保が私に会って最後の様子がどうだったかを聞きたいと言ってきたのだ。もちろん彼の事も調べは付いているから、顔を合わせるのは初めてでも既に見知ったような気分ではある。加えて、顔立ちは違えどやはり佑に似た素振りをする。兄弟がいない薫子はこう言う見えない繋がりのようなものを目にすると不思議な気分になるものだ。
「井上さん。これで良かったんですか?」
「・・・いいも何も。恵が死んだ事はそりゃ悔しいさ。あれから夜はろくに眠れない。未来があったのに、いくら親類縁者だったとしてもだ、知らずに一生を終える事だって出来た。そうさせなかったのは俺なんじゃないかとそれを考えない瞬間はないよ。俺は一生これを忘れられないし、忘れるつもりもない。そんで背負って生きていく。あいつの目が変わった時、俺気が付いたのに。気が付いたんだよ。あ、こいつ何か危ない事考えてるなって。なのにさ、気が付かなかったフリをして、それどころか理解のあるフリさえして、この結果なんだからザマはねえよ。だから良いも悪いもねえな。恵だって決して本懐を遂げたとは言えないだろうし。でもな、何かこれは確信なんだけどさ。あいつなら、今はまあ死んでるけど。死ぬ気でまた人間に生まれ変わってきて、意地で次こそ幸せな人生を送るんじゃないかって。何でかなあ。俺幽霊とかそう言うの信じないタイプなんだけど、そんな気がするんだよ。今頃閻魔様の胸ぐら掴んでそうだわ。ハハ。」
そう話す井上の目からはつうっと涙が溢れた。それは自分のものでは無いとでも言うかのように、気が付かなかったかのように彼はその大きな雫を流して地面に落とすと、それは焼けたアスファルトにジュッと染み込むようだった。実際人の涙が蒸発する程の温度は決してないのだが、後悔や期待や哀惜や相思が流れて混ざって大地に帰るように、飲み込めない思いを無理やり手放したかのように見えた。
私は求められた事をした。掘り返さずとも良い記憶を掘り返し、結ばずとも良い縁を繋ぎ、忌みを集めて濃くした。いつもそうだ。探偵の仕事なんざ、始まりと終わりがハッピーエンドなんてそうそうあるものではない。それでも何でも私も生活しなければならないし、何よりそんな事をするのが私の性なのだ。重箱の隅を突いて、他の誰かであればスルーするであろう事柄をしつこく掘り下げる。その深淵から顔を出すのは決まって不都合な真実で、依頼者は戸惑い拒絶する。そうまででなくともその顔には要らぬ影を落とす。最悪の場合、今回のように死を招いたりもする。私が直接手を下していなくても、間接的には手を下した様なものだと言われても仕方ないし、そうだろうとの自覚もある。嘘はつくな、正直でいろと子どもの頃は何かにつけて言われるが、歳を重ねる程にそれはまやかしであると気付く。嘘をつかなければ自分を守れない。正直でいれば他人を傷つける。あれが正しい、これが正しい、それは間違っている、どれが間違っている。大きく見れば国だったり、法律だったり、そう言うもので枠は決まっているにしても、それ以外はどうだ。何となくの合意形成の中で、それぞれが違う尺度を持っているのに、あたかもそれが当たり前に”普通”だと言う。全くもって違うものを指している事がほとんどだからこそそれは時として、”普通”になり、当たり前に”異常”となる。全ては紙一重で裏と表。時として天国と地獄になる。それをどう捉えるかはその人次第、状況次第。
それにしても今日は随分と蝉が鳴いている。後数日で7月になる事を考えると確かにもうそんな季節か。人間の一生も彼らと同じ1週間なら、もう少し素直に生きる事が出来たのだろうか。それはわからないけれど、それでもその可能性を夢想して生きる事がこの息苦しい世界で息をする唯一の答えなのかもしれない。苦い思いの残る、口の中がざらつくようなこんな夏の日にこの肌に感じる暑さだけは、誰にも邪魔される事なく素直に表現できる私だけのものだ。そんな物思いは目の前に現れた古びたラムネの吊り下げ旗に全て持って行かれる。先客の鳴らす小気味よいカランと言うビー玉の音に全ての憂いを忘れるのだ。仕事には引きづられない。そうやって生きてきたし、これからも私はそうして生きていく。
カーンと玉を落とし口をつけた瞬間に広がるラムネの香りと炭酸の泡に今日も色々なものが溶けていく。
*****
井上と別れた薫子はその足で次のクライアントに会う為に空港へ向かった。降り立ったのは瀬戸内の小さな地方空港。荷物を受け取り、到着ロビーに出た所で迎えに来ていた人物が薫子に飛びつく。
「かおちゃん、待ってたよ。」
その声の主は或木可奈。2人は数年前にバイト先で出会い、それからお互いの家に泊まりに行くような親密な仲だ。今日は前々から薫子に依頼していた件に区切りが付いたから、父と祖母に会わせようと可奈がわざわざ実家に呼び寄せたのだった。
「薫子さん。可奈がお世話になっております。初めまして。可奈の父の神楽と申します。諸々手筈を整えていただき助かりました。可奈の言う通り、その手腕は確かでしたね。」
「いえいえ。私は情報を適切に整理し、お渡ししたに過ぎません。」
「もう。そんな事は後でいいからさ。雪ばあも待ってるから。さ、行こう!」
そう。神楽は娘の可奈と音信不通になどなってはいなかった。ただ周りにはそう装っていた。あくまで家族に安藤家に従順な三男であり続けた。目の上のたんこぶだった紅葉の死は望んではいたが、あくまで事故だった。酒に弱く呑まれがちな兄を寒い冬の日に酔わせ、わざわざ歩道橋を渡る道に導いた。実子でありながら、その宿命を背負わず、ただ甘い蜜だけを吸おうとした兄は母の理想とする世界に必要なかった。何の手を下した訳でもないのに、兄は自ら足を踏み外して階段を転げ落ち、程なくして息絶えた。あまりにもあっさりと幕をおろしたその兄の人生は呆気にとられる程だった。その死の真相はほとんど知られていない。母の四葉、そして一人娘の恵でさえ、酔っ払った末の事故だと信じている。それは正しいが、同時に正解でもない。
神楽の産みの母は安藤四葉ではなく、多野雪だったのだ。その父は四葉の夫である安藤藤助。酒で見境の無くなった所に居合わせた雪が不幸にも身籠った事は隠され、世間体を守る為にその子どもは秘密裏に養子とされた。母の座は四葉に取って代わられた。彼女は神楽を虐めるような事は一切なく、雪同様に慈しみ可愛がってくれた。それでもやはり自分の子と同様に扱えと言うのは無理がある。頭ではわかってはいるものの、それが日に日に、年々雪の中に積み重なっていったのだ。いっそ邪険にしてくれた方が手放しで恨めたが、そうする事もできず、それでも溜まる負の感情の行き場がどうにも見つからなかった。雪にしても神楽にしても置かれた状況としては最善だった。それでもどうにもならなかった。四葉の勧めで神楽が中学に入る時に自分が母である事を本人にも伝えた。関係が拗れた事もあったが、大人になるにつれて気にかけてくれる優しい子に神楽は育った。親の都合で複雑な家庭環境にしてしまったものの、父が早々にいなくなり、金銭的に困らせる事はなかったから、それが良かったのだろう。
多野雪はずっとずっとずっとこの時を待っていた。今全てを手の内にし、そしてそれを今度こそ正しく次世代へと引き継いで行く。
「薫子さん。いらっしゃい。多野雪と申します。今ちょうど最後の仕事が片付いた所だったの。可奈と一緒にどうぞゆっくりしていってね。」
雪が弟の武雄に目配せをすると、神楽と共に母屋奥の離れにある庵の部屋に向かう。そこには息絶えた庵が血まみれになって倒れていた。これで最後の安藤四葉の血は途絶えたのだ。全てリセットされ、今日から新しくまた”世路の教え”が始まる。武雄は慣れた手つきで息絶えた庵を部屋の裏手からビニールシートの上に引き摺り出す。
その日の夕方。薫子は庭の鯉が妙に騒いでいる様子に気が付いた。可奈の父、神楽がどうやら餌をやっているらしい。遠目に見ただけでは何をあげているのかわからなかったが、あの興奮っぷりから言ってさぞかし美味しい餌なのだろう。すると遅れてきた可奈が笑顔でこう言った。
「鯉はね。雑食なんだよ。喉に咽頭歯って強い歯があってね。何でも噛み砕いちゃうの。怖いよね!さ、夕飯の時間!松子おばちゃんが美味しいご飯作ってくれてるから早く行こ。」
うなづきながら最後にチラリと見えたその神楽の手が赤かったような気もしたが、それは恐らく夕陽の反射したガラス戸越しに見かけたからだろう。
全てを知る必要はない。知るべき時に知るべき事が避けようとも身に降りかかる。私はそれを待つ。あえて自分から薮を突いたりはしない。それは客の様子を見るだけで十分だ。
知らない幸せ。それを享受する人生があったっていいじゃないか。口には出さないけれど、他のこだわりの全てを捨ててもこれだけは最後まで手放したくない。
私が私である為に。
私の”普通”を生きる為に。