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2-4 始まりと終わり

令和2年5月7日。朝方まで降っていた雨はやがて止み、空は青く澄んで晴れてきた。今日の昼もそれなりに気温が上がるだろう。5月とは言え、春の陽気より夏の始まりのような汗が滲む日もそれなりに出てきた。初夏、と言う言葉がこの季節を指すのは言い得て妙なものだ。


大きな川に程近い丘の上にある洋館に安藤恵はいた。自らのものとなったこの屋敷に自分が忘れてしまっていた過去とそしてその家族の歴史と対峙する為にやって来た。恐らくその記憶は無意識に記憶の下の方にしまい込んでいたもので、父が必死にその上に土を被せ、更にまた別の新しい記憶と言う名のベールを一枚一枚慎重に重ね続け保たれてきた。それを思い出さぬよう。それに支配されぬよう。それでも人の意識や決意や状況は時と共に流れて、形を変える。その流れに紛れて見えなくなってしまう事もあれば、むしろ表面に押し出されて不都合な真実が詳らかにされる事もある。人は自分の心を守る為にある程度の安全装置を作動させる。でもそれは時として他者によって容赦無く外される。恵はこうなっている今も自分自身が行った事の全ては思い出せずにいた。それでもふと漏れ出す記憶のかけらが抜け出たその跡から違うかけらが頭を見せ、それが心を少しずつどんよりと惑わせる。


私は5歳の時、どうにもならない事をしてしまった。そしてそれは誰の目にも触れなかった訳ではない。むしろ複数の人が知っていた。それどころかその記憶を呼び起こす事を望んでいる人さえ存在する。再会以降は心の支えになっていた久方振りの親戚は父が望まなかった私の黒い記憶を、黒い欲求を呼び起こし、それを原動力として、そのまま祖母の跡目にするつもりなのだ。ただ単に悩める人の話を聞くとか、お話をするとか、その類なら一向に構わない。でもそれでも彼らが笑顔で語るそれは、明らかに犯罪行為だった。用意周到にすれば不起訴は勝ち取れる可能性がある、だが常習性を問われるような事があればそうもいかない。行くはずもない。それはどれも明らかに常軌を逸しているのだから。


その時屋敷には安藤郁と多野卓が恵を主宰にする為にあの日の事を思い出させようと集まっていた。実際は恵の呼び出しを好機と捉えた上での行動、とするのが正しいだろう。それぞれがそれぞれの思惑を抱えたまま、早めのランチを摂る。当たり障りのない会話で、傍目にはとても和やかに見えた。実際この為に雇われていたケータリング業者はその後の聴取でも全くその後の展開を予想していなかった。事件を公にしなかった事から、この時も詳しい経緯の説明は省いていたから、彼らとてその和やかな食事の後に何が起こったのかは知らない。何も知らない出張シェフの供す創作フレンチのフルコースを3人はデザートまで食べ終わり、そのテーブルは綺麗に片付けられた。最後にお茶の用意をしてもらうと、3人以外は皆帰された。大きな屋敷にどす黒い思惑を抱えた者だけが残った。


最後の車が門を出た事を確認すると、郁は自分の荷物の中から細長いペンケースのような物を取り出した。それは紐で巻かれていて、皮で出来ているようだ。恵は何かわからないままにその包みを受け取り、その結び目を解いた。そのケースから顔を出したのは、私のイニシャルが彫り込まれた小さなナイフ。その柄には一部変色した部分もある。ほら、そう言って手渡されたその勢いで手に握るとその感触をまざまざとまるで昨日の事かのように思い出した。


あの夢の中で私が握っていたのはスコップでもその辺の枝でもはなく、このナイフだった。


「恵ちゃん。これを覚えてる?恵ちゃんが5歳の時におばあ様がプレゼントしてくれたものよ。」


普通の祖母は5歳の幼児にナイフなどプレゼントしない。それをさも当たり前かのように言う郁の”普通”は確実にピントがズレている。そしてそれを何故彼女が持っているのかもわからない。そして何が一番受け入れ難かったか。それは私だ。5歳の私はそのナイフを手に握り、まるでこれから遊びにでも行くかのような楽しい、嬉しい感覚で握っていたからだった。その時の感情もナイフを握った時に一緒に思い出したのだ。私にとってそれなりに強烈な思い出だったのだろう。子どもの時の出来事の情景や感情を細かく覚えていたとしてもそう多くはない。そのうちの一つになりうるような私にとって特別な記憶なのだ。そしてその感情カテゴリは喜怒哀楽の”喜”もしくは”楽”。子どもだから善悪の区別がつかないからなのか、それとも彼らが期待する私の本質なのだろうか。思い出したその感覚をどう受け止めるべきなのかわからず困惑する。


郁が笑顔で説明を続ける。明らかに何かのシミがある新品ではない刃物について嬉しそうに彼女は語るのだ。


「これは骨すき包丁と言って、肉を骨から切り離す時や魚や鶏を捌くのに使われるものなの。頑丈で刃こぼれしにくくて、長く使えるわ。おばあ様からそれぞれがプレゼントされるもので私も父さんも持っているの。それぞれにイニシャルが刻印されていて、それは恵ちゃんのもの。紅葉さんがおばあ様に預けていたんだけれど、亡くなられる前にこれを恵に返して欲しいってお願いされてて。渡す事が出来てよかったわ。」


やっぱり満面の笑みだ。何ならその目には涙さえ浮かべている。まさに万感の思いとでも言うようだ。傍に控える卓も良かった良かったと言わんばかりに微笑んでいる。


この人達、何かおかしい。


足には自信があった。瞬発力や反射神経も警察学校同期で上位を争うレベルだった事は自負している。それなのに、今この異常な2人といるこの空間から、この建物から逃げ出す事が出来ない。足がすくんで動かない。


どうしよう、どうしよう。


そう考えていると、卓のスマホが鳴り、軽く会釈をして部屋を出ていった。そのドアに気を取られていると、いつの間にか郁が隣に腰掛けていた。手に持っていたのは鞘で、先程渡されたナイフの為に郁が作ってもらった物だそうな。どう反応するのが正しいのかわからないけれど、それでもキッチンでもない場所で刃物を剥き出しにしておくのも危険極まりないから、とりあえずありがとうと言って受け取り、その包丁に被せる。これだけでも精神的にだいぶ違う。ただそこで変に心に余裕が出来てしまった事が、記憶を呼び起こす鍵になってしまった。


その柄は触れると少し年季が入っているものの、最近使われたような形跡はなさそうだ。それぞれが自分のものを持っているなら、敢えて私のものを使う必要もなかったのだろう。それに祖母が預かっていたと言う。でも何故父は祖母にこれを預けたのだろう。そう思った瞬間に改めて脳裏にあの夏の日が浮かんで、そしてふっと意識が遠のいた。


そしてまた私は夢を見た。ただそれは今までのものとは少し違うようでもあった。それはさながら祖母の回顧録であり、情報源は祖母以外にあり得ないだろう。最後に伝えたい伝え忘れた事でもあったのだろうか。


*****

安藤四葉は次男の紅葉が育児に疲れてしまったから、仕事の調整を付けて、孫の恵を預かっていた。頻繁に夜泣きをしていたから心配したものの、今の所その気配もなく、胸を撫で下ろしていた。調整を付けたと言っても、どうにも動かせない用事もある。その中の一つが最近ポツポツと話が出たり消えたりする類のものだった。私が夫を火事で亡くした件、そして伝え聞いた家庭内暴力の件が組み合わさり、尾鰭がついて話が独り歩きを始めてしまったらしい。私を頼ればどうにかしてくれるかもしれない、と考える者がより深刻に相談を持ちかけてくるようになってしまった。今までは喧嘩の仲裁とか、まあ言ってみれば口でどうにかなる問題だったのにも関わらず、何をどう曲解したのか、私なら持て余した命を救済してくれるとさえ言われてしまっている。別に魔法使いでもイタコでもない私に魂やら命やらをどうこう出来るはずもないのに。何か見えたりとか祓えたりする訳でもない。それでもそのどこかで生まれた勘違いは熱烈な思いを孕み、気付けば私が否定した所でもはや引き返せないレベルにまで達していたのだ。さて、どうしたものかと最初は考えた。夫を傷つけ燃やしたのは事実だけれど、事の真相は私しか知らない。雪は多少なりともわかってはいるが、実物は既に火に包まれていた。私の説明から内容を知っているだけだ。それでも私が見つけてしまった人には言えないような悪癖を持ってしまった事も同時にすぐ理解した。自分の身を差し出す事も考えはしたようだが、最終的に斡旋する事に専念したらしい。どれもこれも私が積極的に始めた事ではない。私は新進気鋭の未亡人起業家と言われながらも、その端々で雪がフォローをし続けてくれたから全てうまく運び、形になっていた。彼女に対しては感謝と言う言葉では到底足りないそんな思いを常に持っていた。亡き夫に乱暴されても、その子どもを養子にしてもそれでも昔の恩がありますから、といつも一緒にいて尽くしてくれた。雪が一緒に過ごす中で幸せな時が少しでもあればいいのに、とそう願うけれどそれは都合が良すぎるのかもしれない。本来なら彼女には恨まれて、呪い殺されてもおかしくないだけの思いをさせている事だろう。少しでもその憂いが祓えたら、そう思いもするがそれは恐らく叶わない事をどこかで悟っている。この先死に際に思い残す事があるとすれば、多分それだ。


依頼の数をこなせばこなす程、その欲求は強固なものになる。その間にも社会的立場は固まっていき、絶対にバレてはならない秘密になっていった。ただだからこそ、その魅力は際立つ様で妙な団結感さえ生まれていた。私はそれが妙だと気が付いていた。それでもそれを利用すれば、私の人には言えない欲求が満たせる事にもまた気が付いてしまった。一度、二度、回数を重ねればそれはどんな事だろうと自信になり、私は慢心していく。最初に100万の報酬を得た時、それはまともな商売をしてどれだけの物を売れば得られる金額かと呆れた。趣味が高じてやっていた骨董品や美術品の売買であれば時折ある金額ではあるものの、それには仕入れも売れるまでの経費も掛かる。カウンセリングや実行までの期間を考えると確かに早くてひと月、長いと1年、と言うものもある。それでも仕入れの必要がない、実に見入りのいい商売でもあった。そしてそれは口コミでのみ広がり、組織内でのみ完結させたから、外に漏れる事もない。実際、法の穴を突いている所も大きいからこそ、話を漏らしても得なしだった。それが功を奏したのかもしれない。対象は身辺調査を細かく行い、皆に公正な遺書を作成させた。そこで踏みとどまるならそれはそれで良かった。その後で方法を模索する。基本的にはこちらからその生に対して手を下す事は少なく、ほぼ全員が薬や治療を止めた時点でその灯火は消える、そんな残り時間の中で我々の元に辿り着いていた。そしてその内に届く要望の全てに応えていくのは私だけでは無理が出てきた。母として、子どもに引き継ぐのは”普通”ではない。だが、それでも長男の庵はすんなりとその仕組みを理解して、否定する事もなかった。自身も積極的に私のカウンセリングに関わり、手法を学んだ。次男の紅葉は一定の理解を示したものの、それを次世代に引き継ぐ事には難色を示した。三男の神楽は兄さんがやっているならとそれ以上は特に何も究明せず、やるのは構わないがそれ自体にはさして興味がない、と言った様子で一緒に育った兄弟と言えど反応は様々だった。こうして、裏稼業として現金払いのみ、会員のみの安楽死もどきのような仕事が本格的に始まったのだ。中にはその死を人の目に触れさせたいと奇妙な申し出をする者もいた。そもそも生をどうにかしようではなく、死に焦点を当てているのだから、論点がずれているのはどうにもならない。それを一般的な”普通”にしてしまえば、彼らの最後の望みは聞き届けられないのだ。何もない病院の無機質なベッドの上で、運が良ければ限られた外の景色を見られるかもしれない。でもそれも叶わないかもしれないし、その窓から見たい景色が見えるなんて奇跡はまずない。自分の部屋で最後を迎えた所で、残す家族にその片付けをさせるのは本意ではない。など、思いはそれぞれ。調査をパスして、前金の支払いを現金で済ませたら、その人の死が始まる。


ある日両親に連れられてやってきた少女はあまりにも青白く驚いた。話を聞けば、生まれた頃から体が弱くてほとんど外に出る事が叶わないらしい。それならば私が出向きますよ、と言っても、ここには来たいと言ったので、とその母は小さく笑う。少女だと思ったのはその外見からで、実際はもう成人した女性だった。小柄なのは両親譲りではあるものの、筋肉を年相応に付けるような生活もままならなかったようだ。実際に寿命と言われていた歳はとうに過ぎていて、今も治療法が無いからただ一日一日今日かもしれない、明日かもしれないと過ごしているのだとか。私は両親の先入観なしで彼女と話がしたかった。まだ若い。今何を思っているのか、聞きたかった。


「私は私が出来る自分の選択をしたいんです。まだ若いのに、とか思ってるんでしょう。私からしたら、こんなにも長生きしてる、って感覚なんですよ。本来はもう10年程前に死ぬって宣告されてたみたいだから。学校にも行けなかった。病院の人と家族以外ほとんど誰も私の事を知らない。みんなに私って言う人間がいた事を最後に知らしめたいんです。だから、派手に目立つようにしたいんです。何をしてくれても構いません。みんなの人生のたった一瞬でいい。彼らに打ち上げ花火のような衝撃を与えてこの命を終わらせたいんです。」


決意は固く、若いとかそんなのは勝手にこっちが思っている事でむしろそれを引き合いに出す事が卑怯でさえあるのかもしれないと考える程であった。誰しも長生きしたい訳ではない。生きる事も死ぬ事も同じ様に選んで、自分を生き抜きたいのだ。わかったような口を聞いて、理解したフリをして、私は高揚する気持ちを一旦押し込める。どんな綺麗な言葉を並べようと、私はあの感触をもう一度、もう一度と手にしているだけだ。でももう手が血で真っ赤だからこそ、彼女の願いを今叶えられるのだろう。どんなに間違っていても、それは人によっては救いだ。やる価値がある。迷えばどこかでミスをする。もう今更迷ったりもしないが、それでもふと今日の様な依頼に対面すると考え込んでしまったりもするのだ。


どこかでまだ昔知っていた”普通”と今の”普通”がせめぎ合う事がある。それでも日々が毎日積み重なれば過去は段々と色を失い、そしてその思いも途切れる。淡々とこの仕事に加勢する庵は恐らく同じような嗜好を持つ。紅葉や神楽もそうだ。ならば、外に出して犯罪者となる前に囲い込んでしまった方がいい。その子どもとて同じだ。庵の娘の郁は庵同様、そう言うものだと受け入れた。子どもながらに、仕組みを理解し、感謝される父を見て人助けをしているとそう考え消化した。名前を彫った骨すき包丁を与えた時も私もいつかこれで誰かを助けられると喜んだ。そこには求める人がいるのに、それを解消すべき術がない。だから私たちがいる。存在理由は求められてこそだ。求める者がいなくなれば、本業で食っていけばいい。ただ開花させてしまった悪癖を飼い慣らす為に、恐らく私たちは救いを求める者を探し続けてしまうのだろう。


少し早いかとは思ったが、紅葉の娘の恵にも名入りの骨すき包丁を用意していた。紅葉はああだから、これも渡す事を拒否するかもしれない。郁の受け入れ方を見たからこそ、まだかろうじて自分の中に残る”普通”を娘に与えたいとそうもがいている様にも見えた。それでも生き生きとした目でこの仕事をしている紅葉を知っているからこそ、その運命からは逃れられないものだと私はわかっている。預かっている今がいいタイミングなのかもしれない。そしてあの病気の女性のその日が恐らく数日中におとづれる。けしかけはしない。それでも彼女の希望でもある派手な打ち上げ花火をこの小さな孫が思いがけず打ち上げるのではないかとそう考えた。


「恵。後でおばあちゃんと一緒にお仕事に行こう。その前にこれをあげようね。これは恵の為に作ってもらった物だよ。これで困っている人を助けてあげようね。」


純粋な目でニコッと笑う恵にその刃物を渡すと、嬉しそうにありがとうと言いながら受け取った。プレゼントと言うだけで嬉しいのもあるだろうが、ピカピカに光るその包丁自身にも目を輝かせて興味津々だった。一旦こちらに戻して、専用のカバーを付けて返すと早速近くを通りかかった雪の元に走り寄って行ってそれを自慢していた。雪が良かったですね、と言うからますます誇らしげにしていて、何とも可愛らしい。雪はただ通りかかったのではない。彼女の準備が整い、1時間後に約束の場所へ出向いて欲しいと連絡があったと伝えに来たのだった。恵を連れていく旨を伝え、万が一の時の為にタオルや着替えを持って近くで待機しておくようにと伝える。


暑い暑い夏の日。彼女が最後の場所として指定したバス停にナイフを嬉しそうに握った孫を連れて歩いていく。辿り着くと彼女は何と嬉しそうな笑顔を浮かべた。この子もまた”普通”と縁遠かったのだと思うと心が締め付けられる。私に出来る事、彼女の最後に叶えてあげられる事。


「恵。お姉さんね、もう天国に行きたいんだって。どうしたらいいかな。」

「おばあちゃん。このカバー外して。恵がお姉さんを助けてあげたい。」


笑顔でうなづいた彼女はすうっと息を吸うとその命を今にも終えそうだった。その時、恵が座っている彼女によじ登り、握っていた包丁でその首にスッと線を引く。まるで紅を引いたように浮き出たその血は最後にパッと噴き出し、彼女のその体、恵の顔と体を濡らした。目を爛々とさせ、興奮している恵の頭を撫でると、ニコッと笑い、こう言った。


「お姉ちゃん、嬉しそう。ここも真っ赤でとっても綺麗だね。」


そうだね、と告げると現場に辿り着いた雪に手渡されたタオルで顔を拭く。顔を拭き終わると興奮が解けたのか、恵は一気に寝落ちてしまった。


それは四葉に強烈なそれこそ打ち上げ花火とも言える衝撃を与えた。雪の運転する車で家に帰り着く頃、外には雨が降り始めた。晴れているのに、雨が降っている。狐の嫁入りのようだ。彼女は果たして最後に幸せになれただろうか。


それからすぐに首から血を流す遺体を郁が発見した。警察が恵に辿り着く頃、弁護士の佐藤は既に家で待機しており、全ては計画通りに進んだ。何もかも亡くなった彼女の希望通り。若かった彼女のその死に方は関係者に衝撃を与え、例えすぐに忘れられようとも確実に強い印象を与えた。希望はしっかりと叶えられたのだ。


弁護士がついていた事、遺族が事件化を望まない事、自殺を認識していた事、死んだ後に死体に傷を付けたであろう被疑者は5歳の幼児だった事。全てのピースが不都合にピッタリはまったから、警察が出来たのは家庭裁判所に問題を送る事位だった。恵の様子から罪の意識は全くなく、何が起こったかすらよくわかっていないようだと結論に達した。最終的に家庭で面倒をしっかり見るように、との沙汰で済んだのだ。粛々とこなす庵の跡を継ぐであろう郁とはまた違い、あの時の屈託のなさから、将来を託すならこの子なのかもしれないとそう感じたのは間違いではないようだった。私の跡を考える頃にはもっと成長しているだろう。その時どうしているか、既に楽しみでならなかった。そんな四葉を見て、雪もまた嬉しそうだったのは言うまでもない。


あの後、紅葉はその敷かれたレールは恵には踏ませないと言って、彼女を私たちから遠ざけた。彼自身は引き続き、その手を血で染めながら、その血濡れた手で娘を真実から守った。


果たしてその行動がその先でどうなるか。その時を迎えてみるまで、答えは誰にもわからない。


*****

嘱託殺人、もしくは自殺幇助とも言えるそれは、命を持て余した人や治る宛のない病に悩む人が最後の砦と門戸を叩き望んでくるもの。安楽死を希望しても、現状日本ではほぼ不可能だ。凡例に規定はあるものの、それを満たす事は極めて不可能に近く、基本的に”殺人”としてそれは処理される。大抵本人の承諾は取れている。どうにもならない病に悩んでいるケースもあろう。人知れず、もしくはその家族も病む程に苦しんでいたりもするだろう。それでもそれは医師が倫理的な方法を踏んだ場合にのみ、その要件は満たされる。現代社会で倫理的に人の命を奪う事は出来ようか?否、それはまた不可能だ。実行者が一般人であれば、医師でないからダメ。では医師が実行したならどうか。今度は倫理的に許されない。どう転んでも、生き残った方に咎が残るように今の社会は出来ている。人が弱り、救いを求めた時にその選択肢を得られなければ、その受け皿となるのが宗教やらそれ未満のセミナーやら心に寄り添う、と明言する何かしらの集団だろう。黒寄りのグレーゾーンでその欲求を満たす輩ももちろん出てくる。悲しいかな、生きる希望になるような心の拠り所はそう言う場所には転がっていない。それを主催者側はわかっているから、耳障りの良い言葉で存分に迷える彼らを抱きしめるのだ。


「・・・さぁみなさん。可能性について考えましょう。この世にはたくさんの誘惑や不安や恐怖があります。もちろん楽しみだってありますね。あなたが想像出来る事は実際には起こってもたかが知れています。だからもっと広い視野で想像しましょう。未来の不安や恐怖に正しく向き合う為に。私たち、世路の教えはあなたの悩みに一緒に向き合います。みんなで支えます。この場所から仲間たちと新しい世界を想像して、明日の道を一緒に創造していきましょう・・・」


集会の後、縋る様な表情で近づいてくる会員が今日もいる。今日も私たちは求められていて、彼らの願いを聞き届けるのだ。


「こちらへどうぞ。私たちがお話を聞きましょう。」


奥に設えられた応接間には嗚咽と安堵が行き交う。うんうん、とうなづき、優しい優しい声で呼びかける。


私たち以外に拠り所があれば、解決策があれば、それはそれで良かっただろう。しかし責任から目を背け、それが”普通”だと言ってしまった場合、こうするしか他ないのだ。彼らはそれで救われている。


お金があれば?希望があれば?他の国に行けば?


そうではないのだ。向き合わない限り、我々の様な輩は生き延び続ける。それでいいも悪いもそんな事はお構いなしに。


*****

恵は気を失って、ソファに横になっていた。その恵に郁は知る限りの昔話をしていたのだった。今回に限っては、祖母の夢枕ではなく、現実に郁の声が夢のような感覚で聴こえていたのだ。うつらうつらとした意識の中、郁の声によって紡がれる理不尽と自分勝手が詰まった物語。それをさも夢や希望かのように話すから全てがややこしくなってしまうのだ。もういっそ悪魔との取引とでも言ってくれた方がまだ話がわかりやすいとさえ思う。やっと目が開けられる位に意識が戻ってきた頃、私もそちら側だったのだと、追われる側だったのだとようやくわかってしまった。


「白いワンピースって何か意味があるんですか?そのバス停の彼女からなんですか?あの時、この前の家にいたスーツケースの中の人もミイラになってた佐々木あかりもみんな白いワンピース着てましたよね。」

「そこに気が付くなんて!あれはね、指定してる訳ではないんだけど、イメージなのかとても多いの。ほら亡くなった時に白装束って着るじゃない?だけどああ言う衣装って売ってないし、それこそそれ着てウロウロは出来ないしね。みんな死を望んでいるにしても、別に幽霊とかオバケになりたい訳ではないから、着物は避けるみたい。女の人は基本的にワンピースが多いの。卓さんのお陰で最近は白さも保てているしね。」

「いや、そうじゃないでしょ。何で?何でさっきからすごい楽しそうに喋ってるの?」

「だって恵ちゃん、思い出してくれたんでしょ。あの日の事を。私それをどれだけ待ち望んでいた事か。ずっと恵ちゃんと一緒にやりたいと思ってたの。だから嬉しいに決まってるわよ。逆に何で恵ちゃんはそんな辛そうなの?」


全く以って話が通じない。一緒にやりたい?つまりこれから先一緒に誰かを殺して行きましょうって事なのか?


狂ってる。


まだ私の中で引き返す道があるかもしれないと思っている部分があった。過去は確かにあって、それはもう変えられない。それでも今は違うの、と言われればそれはそれだった。全ての整理を付けては来たが、それでもそうなら、また一から全て始めればいいとそう思っていた。本当にそれこそ一縷の望みをかけていたのだ。でもその蜘蛛の糸は最も簡単に引きちぎられた。


終わりにしよう。全部。今ここで。私の手で終わらせよう。


「郁ちゃん。過去の私のやった事見たんだよね。あれ気に入ってくれたって。卓さん。あなたもそれに同意して、賛同してるんですよね。」


郁も卓も笑顔でそうだとうなづく。いい歳の大人2人が揃いも揃って何の迷いもない。洗脳の一種なのだろうか。それとも何か呼び起こしてはいけない人間の本能の黒い部分か何かなのだろうか。それはもう人の形をした違うものなのだとそう考えると気持ちがふっと軽くなったのだ。ここで軽くなるのだから私も人の形をした何か違うものだったのだろう。死んだら父に聞いてみたいものだ。私は一体何だったのかと。


「あの時の方法を再現してあげる。このナイフで2人とも。一緒に全てを解決しましょう。郁ちゃん、卓さん。私に身を任せて。せっかくだから同じように外でやりましょう。あの日みたいに今日はとっても天気がいいから。ね?」


2人は全く抗おうとしなかった。それどころかその目は潤み、喜びさえ感じられた。何故、などと問うのは陳腐だ。そんな事で何かわかるのなら、何か変わるのなら、とうの昔に全てが終わっていただろう。何もケリが付いていない今、何をどう言おうがそれは全て詭弁だ。


さよなら。


そう告げると卓の首を先ず切り裂いた。腕に蘇った感覚は相当に強烈で、想像以上に血が弾け飛ぶ。その様子を見て歓喜に震える郁を抱きしめて、同じように別れを告げた。彼女も全く抵抗しなかった。そうされる事をまるで望んでいたかのように、その首を差し出した。ザクっと刺さったナイフを首から引き抜いた後、ハンカチであらかた血を拭う。本来なら、そのまま続けて自分も死ぬつもりだった。同じ方法で同じようにこの場所で。それでも最後に欲が出てしまった。あの人に会いたくなった。ポケットからスマホを取り出すが、血でヌルついた手はそれをすぐに落としてしまう。今一度手の血を拭い、そして110番をタップした。


全てを終わらせる為に。最後に自分のエゴを満たす為に。


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