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2-2 安藤四葉

令和の初めの年もそろそろ終わりが近づいている。まさか自分が生きている間に年号が2度も変わるとは思いもしなかった。9月に入ると秋の気配が段々と忍び寄り、その風が生ぬるさではなく、何とも言えない哀愁を漂わせ、窓をカタカタと鳴らし始める。


安藤四葉は前の冬に罹患した肺炎をうまく治せずに、結局また次の冬にその身をやつす事になりそうだった。そんな体になると、人生を回顧したりするものだ。


何をどうしても四葉のしてきた事は許される事ではない。それは本人も重々承知だ。肺炎は息を躊躇わせ、生と死を幾度となく味合わせる。この緩急こそつけど、それでも苦しみをじわじわと長引かせ、すぐに死を選ばせてさえくれない今にもう涙さえ出ない。大きい家に息子達に孫もいる。お金もある。食べたい物も食べてきた。会いたい人に会い、縁を取り持つ事だってあった。


必要とされたかった。


誰かにではなく、誰もに。


その方法が明らかに間違っている事は何度もその身に染みている。そしてそれはその心にシミを作り、そこから溶けて、馴染んで、体の一部はもうなくなってしまっているだろうと言う位に。


茹だるような暑さに悶える日も結局今年はもう外でその暑さに悩まされる事もなかった。クーラーの効いたこの部屋でずっと支え続けてくれた多野雪に世話をしてもらっている。我儘で傲慢で、時に八つ当たりをし、公に出来ない悪癖まで持った金持ちの女主人。逆らう事は恐ろしく、別の通いの家政婦は最後まで私の顔をちゃんと見る事はなかった。それでもこの雪はずっと私の側で、私と共に歩んでくれた。


私は随分と歳の離れた資産家の夫に囲われ、正妻になった後、かつて一緒に働いていた店で時折面倒を見ていた雪を自分付きの使用人として雇ってもらったのだ。それからの付き合いだから、もう何年になるのか。40年、50年。そうか、そんなにも時は経ってしまった。私は私を救えたのだろうか。あれだけ沢山の人に偉そうな話をし、人生を左右してきた私は私に何か出来たのか。人生の火が消えそうで消えない、そんな死を意識する今ならそんな”普通”の感覚でものが考えられるようになっているようなそんな気がする。


*****

初めての衝動は酒乱の夫を誤って殺してしまった時だった。あれは昭和47年の春、5月の初め頃だった。殺してしまった、と言うと若干の語弊がある。正しく言うと、元々血圧の高かった彼が深酔いした状態で暴れて興奮し、血管がとうとう切れたのだ。だから正確には私がその息の根を止めた訳ではない。その瞬間に救急車を呼べばよかったのかもしれない。それでも私はその考えよりも他の誘惑に駆られてしまった。被虐対象になり続けた事で、加虐対象に対しての道筋を見つけてしまったのだ。それはとても甘美で、恍惚で、まるで経験した事のないその喜びと興奮はどうにもならない程にその心に体に染みついた。


夫のその習性がどんなに酷かったとしても、それはそれで法で裁くべきだった。雪を手籠にして傷つけた時に警察に突き出すべきだった。自分以外に被害が出たその時に手を打つべきだったのだろう。それは頭ではわかる。それでも暴れ始めると息子が泣こうがお構いなし。普段はとても優しく、誰にも慕われる夫の裏の顔だった。その嗜好は屈折していて、誰かを傷つける程にその興奮が増す、どうにもならないものだった。私は何度となく殴られ、蹴られ、突き飛ばされた。時に刃物を向けられ、死を意識する事もあった。それでも翌朝に仏のような顔になり、懸命に謝るその姿に絆されて、何年も何年もそのままそんな生活をしていたのだ。


あの日私は倒れた夫がひくつくその様子を立ったまま見下ろしていた。途中で正気に戻ったのか、苦しそうに私に縋る素振りを見せたものの、その手が伸ばされた先にあった左足を私は無意識にスッと引いた。あと少しで手が届きそうだったのに、その希望を亡きものにした。それはこんなやつ死んでしまえばいいのに、とかざまあみろとかそう言う感情ではない。それは今となっても不思議なのだが、その時の感情は実にフラットで、どちらかと言うと何も考えていなかった。真っ白の思考の中で、無意識に目の前にある命に対して、何もしない事を選んだ。それは本当に他意がなく、まるで幼い時のような無垢な気持ちと言うに近い。突然の事で頭が真っ白に、の真っ白ではないのだ。子どもが道に列をなす蟻を指で潰している、それが一番近い感じがした。その瞬間に命をこの手で潰してしまった、あの蟻にだって家族も将来もあったのに、なんてそんな事は絶対に考えない。絶対はないかもしれないが、そんな事を考えながら蟻を潰す幼児がいればそれはそれで別に問題だろう。しかしそれはそれで、やはり無為に命を奪う。そこに意味はなかったあの幼少の無知の残酷さに近いその感情に抗う、そんな気持ちは特に起こらなかった。


最初は大きく痙攣していた夫もそのうちにそれが小刻みになり、ひゅう、はぅと声を出したかと思えば、程なくして動かなくなった。私はふと部屋を出て、台所に向かうと前に何の気無しに百貨店の催事で買った骨すき包丁を取り出した。一度も使っていないそれは鈍い光を放ち、衝動買いしただけあって握れば瞬時にその手に馴染む。実際は雪が料理をするのだから、私は包丁など握らないし必要がない。これは今日の事を見越して買っていたのだとしたら、自分の過去の行動も実に気味が悪い。箱からその包丁を取り出すと、空箱を丁寧に棚に戻し、新しい白いふきんを数枚持ち出すと、あまり明るいとは言えない小寒い廊下を歩き、先の座敷に戻る。途中の蛍光灯がチカチカとしてその寿命を終えそうだった。これはあの人の命のようだと、そう冷静に思った私は明日にでも武雄に変えてもらいましょう、そう口に出すとその下を静かに通り過ぎる。


襖を開けるとそこにはやはり先程息絶えたであろう夫が横たわっていた。やはりこの人は死んだのだ。目の前でその命が潰える瞬間を見たにも関わらず、改めてその死を目の当たりにした。着ていた着物に何かあっては、と思いたち、表ごろもを衣紋掛けに掛け、もう捨てようと思っていた肌襦袢はそのままに、ふきんを当てながら、その首に包丁の刃を当てる。サクッと思いの外軽い歯当たりに小さく驚くも、やはり問題はその血の量だ。それでもそれを凌駕する美しさと生々しさと生がその体を溢れでる。その感触がどうにも体をゾクゾクと震えさせる。


たまらない。


サク、サク。

ピーっとその皮膚を切ってみる。


優しかった私の大好きな人。


消化出来ない思いを酔いと暴力に昇華させてしまった私の愛した人。


「あなた。私はあなたを心の底から愛しているの。殴ってしまう気持ちが今ならほんの少しだけわかった気がするわ。あなたは身をもって私に教えてくれたのね。愛してるわ、あなた。」


そう話しかけながら彼の潰えたばかりの”生”と頭をもたげたばかりの”死”に向き合う。溢れる血は真紅から濃い色へと変わっていき、その移り変わりに私はまた目を奪われた。


人間ってこんなに美しい。


気が済むまで夫に浅い傷を沢山付けた。この今の気持ちが一体何を依代にして発生しているのかわからない。憎いから傷つけている訳ではない。私は今でもこの人を心から愛している。愛している彼から人の最後を感じている。その目に、その指に、その肌に、その血に、その少しずつ消えゆく体温に。


ふと時計を見やると、はて1時間位はそうしていたようで、このままでいる訳にもいかないだろうと、冷静になった私は考えた。彼の酒癖の悪さとその豹変っぷり、私に暴力を振るっている事を使用人たちは知っていた。雪はその詳細まで把握していた。それどころか被害者でもある。だからこそ今ここで私が夫を殺してしまったと言っても、証言はしてもらえるだろう。もし彼の血管が切れた時に救急車を呼んでいれば、間違いなく。ただ、今足元に横たわる彼の体には無数の傷跡が付いてしまった。このままでは不慮の事故であったのに、そうではないと思われても仕方がない。子どももいる、使用人もいる、財産もある。ここで正直になった所で周りを不幸にする事は目に見えていた。長期的に見れば、子どもにその犯罪がバレてしまったら、とも思うがそれでもやはり彼らを施設に送るのは忍びなかった。憎くて殺した訳ではないからこそ、妙に落ち着いていると言うか、自分で擁護も言い訳もし難いのだ。どうしたものか。そう思案した所で私は安易な見せかけの自己犠牲でどうにかしようと考えた。


素人知識でも死後硬直が始まってしまうと、後の検視などで何かしら出てしまうかもしれない。そうなると厄介だ。一旦手拭いでナイフから血痕を拭き取ると、新しい手拭いでナイフを包み、懐にしまった。そしてそのまま部屋の隅の灯油ストーブの灯油缶を手に取り、それとマッチを持って夫の元に戻る。カラカラとそのキャップを外すと、倒れて息絶えている夫だったものにチャプリ、チャプリと灯油をかけていく。所々に血が滲み、それは光を集め、さながら赤い虹のような色合いを見せる。満遍なくかけた後に彼をぎゅっと抱きしめた。その体からは血と灯油と何かわからない匂いがした。そしてもう温かさはだいぶ消えていた。


「さよなら。私の愛した人。」


そう呟くと、数歩離れてマッチを擦り、彼の足元へポトリと落とした。ざぁあああと一気に体を炎が駆け巡ると、彼は周りの畳と一緒に鮮やかに燃え上がる。その炎は火を大きくする度にふわりと飛ぶその粉によって、飛び火していく。ふわり、はらりと火の粉が飛び、大好きな夫がジリジリと燃えていく。最後に抱きついた私の体には夫の血とそこに滲んだ灯油が染み付いていて、一歩でもそちらに踏み出せば私も諸共火に包まれる。でもそれはまだ今ではない。今ではないのだ。


子ども達は座敷から離れた部屋で休んでいる。それでもやはり雪に助けてもらう必要があろう。その色々な匂いと色が染み付いている私はそっと廊下を戻り、パチパチと言い始めた我が家を背にしながら雪の部屋に向かう。ドアをノックして、起きている事を確認するとこう呼びかけた。


「雪。私よ、四葉。あなたは私の側にずっといてくれる?どんな私であっても。」


カチャリとドアを開けた雪の目にはとうに覚悟があって、何があろうとあなたと一緒にいますと彼女は小さくつぶやいた。それでもその目は何よりも主人への忠誠を誓っていた。この時、その後の世路の教えにつながる礎が出来上がったのだ。


被虐から加虐に目覚めた主人とその主人を何があっても支えると決めた使用人は生きる世界を模索する事になった。その身が最後にどうなろうと、お互いはお互いを見放さないと、何よりも固く誓って。


「四葉さん。旦那様は酔っていつものように暴力を振るってきた。そしてそのうちに何を思ったのか、灯油を持ってこいと叫んだ。逆らう事が出来ないあなたは従った。戻ったら自傷行為を行なっていた上、それを俺にかけろとその刃物を向けた。灯油をかけたら、もう疲れたんだよと言って抱きしめた後に突き放し、自らに火を放った。わかりましたか?あなたは全てに対して、受け身だった。警察の聴取ではよく覚えていないと言ってください。消防はそろそろ到着するでしょう。そこまで延焼するとは思えませんが、一旦坊ちゃん達は起こしてきますので、四葉さんは庭でその燃える様でも見ていてください。忘れないでください。あなたはずっと暴力を振るわれていた。旦那様の死に責任はありません。後の事は佐藤先生に連絡しておきます。諸所取り計らうように、と。」

「・・・わかったわ。」


程なくして消防車のサイレンがけたたましく寝静まった街に鳴り響き、それは一つ二つと増えていった。私は言われるまでもなく、庭にへたりと座り込んで炎を見つめていた所を消防隊員に発見された。雪は先程の冷静さをむしろ隠して、それでいてまるで信じられない事が目の前で起こっているかのように取り乱して見せた。彼女がこんなにも役者だった事の方が意外だったが、それは生き抜く上で必要な術だったのかと思うとそれに長けているのもまた複雑だ。そして息子達は妙に冷静だった。そのまっすぐな瞳はまるで全てを見透かしているようで、その上で全てを受け入れているかのようだった。大人には出来ない状況処理能力がそうさせるのか、純粋さ故の解釈違いが生じるのか、そこで泣き叫ばれるよりはよっぽど周りは楽だが、これを闇が深いと言わずして何と言うのかとも同時に思わざるを得なかった。


病院で聴取を受けるも、すぐに到着した佐藤弁護士によって、それは本当に最低限で済んだ。消防が建屋全体への延焼は食い止めたが、座敷とその周辺計3部屋を焼く程の火の手は夫に傷があったかなかったかなんてわからない程にその形を変えていた。それがわかったから、もう私は彼の暴力癖と自殺行為に触れるのみで全て丸く収まった。屋敷は一部取り壊し、残りの部分を整える事で生活は出来た。彼の遺産はこの人生をあと3度は送れるであろう程はあったから、手狭になるならばまた買えばいい。その程度の話だった。


*****

火事の後は一時妙な噂が立ったりもしたが、雪と佐藤弁護士のお陰でそれも最小限で済んだ。子ども達が不便な思いをする事もなかった。こうなってしまって気がついたのだが、私が日々妻として夫を支えてきていた日々は周りの信頼を得ていたのだ、間違ってはいなかったのだと。その顔や体にあざを作っていた事が今の自分を救ったのだ。だからこそ、そんな私が話すからこそ、信ぴょう性があって、死を意識する人たちの心に近い場所を探し当てる事が出来たのだ。


彼らは死を望み、私はそれを叶える事が出来る。代償として、その体に刃を当てる事を受け入れるのであれば。


安楽死の定義がある。6つ程。それに当てはまれば、それは罪に問われない。問われる事もあるが、実際はそう言う定義になっている。そして、現実ではそれは認められていない。判例はそれをうまくかわし、減刑する事で安楽死を暗に認めないのだ。


病に苦しむ人がいる。その治療にはお金も時間も精神力も必要だ。その全てを以てしてまで、私は生きたいのか。そう問うと、そうではないと言う結論に達する人もいる。また、生きている意味がわからないから、その位ならこの命を誰かの為に使いたい、そう思う奇特な人も時にいる。彼らと契約を交わすのだ。


それが合法だなんて考えていない。だからと言って、非合法とも違う気がする。少なくとも一億も人口がいるのに、全ての人の欲求を満たすルールなんてどうして作れよう。それが一世一代、一度きりのカードしか持たない”死”がテーマならどうだ。誰かを強引に、その意思を一切無視して、自己の欲望の為だけにその命を奪う事は許されない。


ただそれが誰かの選択なら?


もし自分の愛する人がそう望んだら、愛すまではなくとも大事な人がそう望んだらどうだろう。自殺に関しては処罰はない。その選択は黙認されている。宗教的だとか、倫理的だとか、そう言う問題はありはするが、法律では規定されていない。ただそれを幇助すれば自殺幇助、唆せば教唆、規定の要件を満たせば安楽死。大切な人の思いを大切にしたい、でも自分は手が下せない。そんな家族からの依頼も口コミで徐々に増えていった。大っぴらには決してしない。それでも少なからず需要は確実にあったのだ。


大金持ちならば、安楽死を合法化している外国へ行く事も可能だろう。時折そんな話をテレビで聞いたりする。ただその遺体の搬送は?葬儀は?大抵は準備済みなのかもしれない。それでもそれならば、そんなに意志が固いのならと家族が同意する事がある。それなりの代償を覚悟した上で。覚悟は死ぬ人間よりもその後を生きる人間に問われる。全てを伏せてこの世を去ると決める人もいる。時としてそれはそれでも善意であったり、最後の自己顕示欲であったり、復讐の場合もある。人それぞれで、それなりの事情を抱え、そして”世路の教え”に辿り着く。カウンセリングの末に思い直して去る者が実は大半で、土壇場でやめにする人も決意した人の半数以上。それでも焦りはしない。そこで欲を掻けば、確実にそれが自分の足を挫く。異常な欲求である事には蓋をし、せめてもの正義感を振りかざし、私はあくまで困っている人に手を差し伸べるのだ。それが他の人の手では成せないのなら尚更に。


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