1-2 邂逅と遭遇
あと2日程で立冬を迎え、暦上の季節はもう冬になる。街路樹の葉も色を付けたり、地に落ちたり、季節が段々と冬へと移行している事を目にも感じる。そうは言っても日中の気温はまだ20度近くまで上がるから、まだまだ調節が難しい時期でもある。先日のもやもやした気分を抱えたまま、今日も井上と安藤は担当地区の密行に当たっていた。
「なあ恵、ランチ行こうぜ。」
「ランチって・・・良いですけど。どうせいつもの蕎麦屋でしょう?」
「良いんだぞ、たまにはオシャレカフェに行っても。」
「パスタランチに1500円出せるんですね?」
「よし、じゃあちょっといい蕎麦にしようか。まだそっちのが安いわ。」
「わかりました。行きましょう。」
捜査が打ち切られ、容疑者は死亡。あんなにもセンセーショナルなご遺体が見つかったにも関わらず、あっさりと向かいのアパートの自殺者が容疑者になってしまった。私がまだ素人な事はわかっている。それでもまだ聞き込みさえ十分に出来たとは思えない段階での捜査本部解散だ。何か裏でもあるんじゃないかと勘繰ってしまうのはドラマや映画の見過ぎなのだろうか・・・。それにしてもミイラなのに。絶対にそうそう無いはずなのに。捜査以前に普通もっと気になるものでは無いのか?と署内の反応に純粋に疑問を持ったりもする。初犯で、初めての殺しであんな事になるだろうか?愛憎劇の末にもつれた関係で刺殺ならまだシンプルだ。決してその行為を正当化する訳ではないが、その場合は”殺してやる!”と言う殺意がある。そしてその目的は殺す事であり、相手が息絶えれば目的は達成だ。だから死体を隠そうとはしても、それをミイラにしてやろうとはそうそう思わないのではないか。首を切り、血を抜き、服を着替えさせ、体育座りに整えて、その上別の場所に放置するのだ。それはもう目的が違うだろうと、何度考えても、冷静に状況を組み直してもそうなってしまう。そこまでした代物を残して、自殺してはい終わりとなるのだろうか。どうにも腑に落ちない。それでも捜査本部が解散になり、容疑者だと断定されてしまった以上、もうそれをどうこうする事はヒラの私には無理だ。捜査中であったとしても、その意見を聞き入れてもらえたかさえわからない。細々とした捜査には参加した事があってもこんなに大きな山は今回が初めてだったのだから、実績ある井上さんがバディだったとしてもそれは変わらないだろう。むしろ私が発言する事で彼に迷惑をかける事も憚られる。塩梅が難しいものだ。
結局私達はいつもの蕎麦屋に入り、いつもの奥の4人掛けに斜めに座り、いつもの鍋焼きうどんと天ぷら付ざる蕎麦を頼む。ほらまた何で蕎麦屋で鍋焼きうどんなんだと茶々を入れるぞ、全く人の食べるものなんて放っておいてくれよと思って身構えていたら、お茶を飲んでまず井上が口にした言葉は意外なものだった。
「恵。お前どう思う。」
守秘義務だ、情報漏洩だと厳しい縛りのある中で、こんな場所で話始めるとは思いもしなかった。幸いランチ時は過ぎていて、店は私たち以外誰もいない。昼の営業時間最後に駆け込んだようで、気づくと暖簾はもう仕舞われていた。井上の問いは明らかにうどんだ、蕎麦だの話では無いだろう。
「私の意見でいいんですね?」
「だから聞いてるんだよ。お前の経験値だからこそわかる事だって多いんだ。自信持って言ってみろ。但し小声でな。」
空気を読んだのか、調理の終わった店主が店のテレビの音量を上げた。井上と店主の阿吽の呼吸を無駄にする訳にもいかず、悶々としていた持論をとりあえず話してみる事にした。
「私としては、あの自殺された方は容疑者では無いかと。容疑者の存在は置いておいたにしても、先に発見されたミイラの遺体は明らかに殺す事が目的ではないでしょう。殺したい、殺す!の後にじゃあこれをミイラにしましょうってならないですよ。そんな経験がまず無いですけど、どう考えたって面倒でしょう。死んでしまった事がもし偶発的だとすれば尚更です。もっと単純に隠そうとするんじゃ無いでしょうか。もしくは自分から遠ざけたりとか。ですがそれをミイラにしようと思うとそれには恐らく加工に近い作業が必要です。放っておいたら何か条件が良くてミイラ化しちゃいましたって事は万が一にも無いと思います。過去に実例はあったかもしれませんが、それだってイレギュラーです。加えて、今回は首に裂傷もあります。これはその死自体が偶発的であったとも思えません。もはや何かの儀式でもしたのかとさえ思ってしまいます。あ、私情で熱く語ってしまった・・・。つまり、私は犯人はまだ逃走中、事件は終わっていないと考えています。でも私には状況を動かせるような力はないから、モヤモヤするしかない、と言った所が現状です。これで質問の答えになりましたか・・・?」
私が話している間にもさっさと食べ進め、早々に蕎麦湯を堪能していた井上さんがふうと息をついて、蕎麦猪口を置くとお前も早く食えと促される。
「驚いたな。やっぱり面白いよ、恵は。実は俺も引っかかる事が多くてな。あれは誤認だと思ってる。いや、間違いないな。あのご遺体だぞ。俺もう15年は刑事やってるけどあんなの無いから。どう考えたって異常なんだよ。だけど、上層部はそう判断しなかった。一応体面は保てるから、適当なとこで幕引いときましょって感じが拭えないんだよなあ。よし、お前もそうなら今日定時で上がるぞ。その後付き合え。」
「・・・業務後にですか?」
「お前も気になるんだろ?ツテがあるんだよ。ちょっと違う角度から見てみようや、この事件。でも他の奴には絶対勘付かれるなよ。俺はいいけどお前のキャリアを潰す気はない。」
「私も現場で一生終えたいタイプなんで、キャリアとかはいいですけど。わかりました。もし期待はずれだったら、コーヒー奢ってもらいますから。」
「別にコーヒー位いつでも奢ってやるよ。言えよ、先輩その位の金はあるからさ・・・。」
「いや、別にたかりたい訳じゃないんで。借りも作りたくないし。」
「可愛くないねえ。でもまあ可愛いだけじゃやってけないからな。その位の気概がある方が適正だよ。じゃあ仕事さっと片付けろよ。元々お前にも紹介したいと思ってたんだ。いいタイミングだ。」
「誰か、に会うんですね。」
「そうだよ。まあ楽しみにしとけ。」
そう言うと店員さんに蕎麦茶のおかわりと会計をお願いして、もらったお茶を飲み干すと足早に分署に戻る。途中それは誰なのか、と聞いてもまとも答えようとしない。これは絶対に教えてくれないやつだ。事件に向かい合う時に同じような手を取る事があっても、今回は違う。いや、違わないのか?実は結婚していたとか、子どもがいたとか、はたまた組織内での別の繋がりでもあるのだろうか。あの話の後ではあったものの、そもそも突飛な事を突然言い出したりする人だ。井上保と言う人物自体は警察学校時代にもチラリと聞き、交番勤務でも風の噂の中に常にいたような敏腕刑事だ。腕に今も残る傷はコンビニ強盗を制圧した際に切り付けられたとも聞く。その時の容疑者にしたって彼以外の誰もその違和感に気が付かなかった。何と言うか、動物的な鼻の利く人だなと思っている。ちなみにこれは賛辞であって、嫌味で言っている訳ではない。本当に。だからこそ、探し当ててきた思いもよらぬツテがあったとしてもそんなに驚かないか。となると家族を紹介してもしょうがないし、警察関係者でもないだろう。ドラマならば勘が良く口の固い小料理屋の女将さんが出てきそうなものだ。とは言え、その線が一番近い気がする。そんな事を考えながらも今日の報告書をまとめ、新しく上がっている手配犯の顔をザッと頭に入れ、要注意とマークされている案件の進捗もチェックする。これは事件の内容が要注意とは少し意味合いが違い、上層部が気にしている案件。メディアに良くも悪くも注目されてしまったもの、警察の威信に関わるもの、後はどこぞのお偉いさんが押してきているもの。これを率先して解決して見目を良くしよう、とも考えられるが捉え方は少し違う。これらを頭の片隅に置いておけば、こだわりたい案件に割く時間を生み出しやすいのだ。警察と言えど人の集まる組織、そして公僕、守りたいイメージは正義の味方。実際にイメージが損なわれると自分の仕事だってやりにくくなるのは確かだ。出来る事はやる。誰かが気になっているものにアンテナを微弱にでも張れば損はない。実際に密行中に街中で手配犯を見かけた事がある。それは事件を覚えていなければ見過ごしてしまうだろう。それでも手配に至った過程で被害や迷惑を被った人達は解決を望み、そして今も苦しんでいる。だから出来る事はやって、私は全力を尽くすのだ。
今日はその後特に大きな問題も起こらず、ぱぱっと引き継ぎを済ませると井上と足早に分駐所を後にする。
「井上さん、いい加減教えてくださいよ。どこに行くんですか?」
「まあまあ付いてこいって。悪いようにはしないから!」
「何だろう、この会話だけ聞いたら、上司に連れ込まれる可哀想なOLみたいな構図に・・・。」
「柔道黒帯のやつをどう連れ込むんだよ。命が惜しいよ、俺だって。」
「はいはい。で、ここなんですか・・・?」
電車に乗りやってきたのは中華街の一角にある雑居ビル。実に細い作りで、よくもまあこの狭い土地にこの細長いビルを建てたものだと感嘆する程だった。ふふんと言いながら意気揚々とアジアン雑貨屋の中に入っていく井上に急いで付いていくと、店の奥に階段がある。ランプで所々照らされているだけの薄暗い階段はそこさえも誰かのお店のようで、置いてあるものには古びた値札が付いている。よくあるどこかのアジアの国で買ってきたようなシャツがかかっているかと思えば、木彫りの熊の置物や、年代物のアニメのフィギアまであまりに多種多様だ。売る気があるのかさえ怪しい。もしかすると店主はただコレクションを見せびらかしたいだけなのかもしれない。そんな異様な空間を階段で3階分上がった先にはまた他ジャンルの異空間が広がっている。ビルの3階なのに唐突に現れたのは夜の路地裏。空には三日月が浮かび、家々の窓には灯がともっている・・・ように見えるデコレーションだ。意外にも奥行きがあり、そしてあちこちから声がする。どうやらフロア全体が占い館のようになっていて、家々の一つ一つがそれぞれ別の占い師のブースのようなのだ。視覚のトリックが存分に使われていて、小さい空間なのに、どうやら6軒は軒を連ねている様に見える。井上は慣れたように向かって左から3番目、一番奥のドアを3回ノックする。若い男性の声で今日は終わりです、そう聞こえるともう一度ノックを繰り返す。
「たーちゃん!」
飛び出してきた女の子は柔らかい天然パーマのくりくりの髪を二つ結びにしている。幼稚園位だろうか?それにしてもたーちゃん・・・。
「お!瑠璃もいたのか〜。いるならお土産持ってくればよかったなあ。今日もかわいいなあ、天使だ。るりるりかわいい〜!!」
これは最初の読み通りの家族の紹介の線だったのだろうか・・・?でも何故今更家族を紹介するのだろう。それ程の信用をしてもらえたと言う事なのか?それとも俺に何かあったらこいつらに連絡してくれとでも言うのだろうか。井上のキャラブレと展開に付いていけない私が固まっていると、お兄ちゃんいらっしゃいと言って出てきたいかにも占い師なローブ姿の人がハグをするものだから、ますます私は硬度を増す。
「え!ちょっとお客さん連れてきたの!え!彼女?!え!瑠璃、どうしよ!え、お兄ちゃんの彼女?」
「たーちゃんの彼女ーーー!」
ローブの男性と瑠璃が妙なダンスで囃し立て始めると他のブースからうるさいと嗜められた。そして何故か私が謝ると、瑠璃が笑いながら全員をその家風ブースの中に押し込む。ドアを入ると中も思ったより広く、少なく見積もっても4畳半はありそうだ。その中にはシンプルながらも怪しげなグッツが並べられ、いかにも占いに来ましたと言う雰囲気は十分に漂っている。水晶玉を見る事があるとは思っていなかったから、人生とは面白いものだ。
「で、お兄ちゃん。今日はどうしたの?彼女を紹介に来たの?でもうーん。彼女は同僚としてはベストだけど、そう言う縁はないから残念。あなたも気を悪くしないで。まあ見えるのは一部だけだから。どうしてもって言うならそんな未来もなくはないし。あ、俺は保の弟の佑です。これは愛娘の瑠璃。」
「いやいやいや、井上さんはただの先輩ですし、そんな関係では・・・。私は職場の後輩で安藤恵と申します。」
「あ、そうなの。と言う事はそう言う事か。瑠璃、帰り支度して。安藤さん、せっかく来ていただいたのに悪いですが、場所を移しましょう。昼食まだであればご一緒に。」
「え・・・?あ、はい。わかりました。」
ローブを脱いで荷物を持ち、リュックを背負った瑠璃を井上に抱かせると、フロアの奥に向かう。そこにはエレベーターがあり、まっすぐ1階まで降りると雑貨屋の隣の新しいビルの1階だった。本来はこちらからも行けるのに敢えて怪しい通路を通ったと言う訳だ。まあ面白かったけども!そう思いながら井上の顔を見るとニカっと笑うから確信犯だった事を思い知る。そこから駅とは反対方向に1ブロック歩くと緑のランプが怪しく光る中華料理屋があった。”支度中”の札を確認すると佑はドアを開けて中に入る。知り合いの店なのだろう。基本的に”支度中”はその字の通りのはずだ。交渉次第で食べられますとの意味ではない。そしてすぐに奥の個室に案内された。好き嫌いやアレルギーが皆にない事を確認すると、程なくして大きなポットに入ったジャスミン茶と大皿のエビチリ、酢豚、春巻き、油淋鶏が次々目の前の円卓に並ぶ。手際よく個々のセットをし、取り分けるとスタッフはさっと引いていった。ポットも置いていった所を見ると、話の邪魔は致しませんと言う意思表示なのだろう。まるで何かの会合のようだ。
「さ、恵ちゃん。熱いうちに食べて。ここのはどれも美味しいよ。」
ニコッと笑った目元が井上にそっくりだと思いながら、確かに美味しそうな匂いと湯気を纏う食事に意識が奪われる。何でもない話をしながら食事は進み、食べ終わる頃に現れたスタッフは空いた皿をさっと退けると今度は杏仁豆腐と胡麻団子、そして紹興酒と氷砂糖の入ったグラスを3つ置いていった。
「さて、本題に入りましょうか。お兄ちゃん、誰を探して欲しいの?ん〜、その人あんまり深堀しない方がいい気がするなあ・・・。うーん、やな感じする。」
「・・・えと、今更ですけど私は一体何故ここに・・・?」
「あはは!ただ晩飯食いに来たんじゃないぞ。佑は占い師もしてるけど、探偵みたいな事もやってるんだ。ちなみに前情報は何も与えてないぞ。恵の事も含めてな。」
「え?あ、そうなんですか。じゃあ探して欲しいってのは私たちが追っている・・・。」
「捜査情報は漏らせない。クローズになったとは言えだめだ。それにその情報がまさに思考の足枷になったりするから、渡せるとしても渡さない。俺たちは見えなくなってるものを探すにはそうするのが一番だからな。俺たちは緑の瓶だと思って探していても、実は陶器の皿だったなんて勘違いよくあるもんだ。あっちゃならないがこればかりはどうにもな。」
「なるほど・・・。佑さんは普段から人探しを?」
「まあそんな依頼もあるけど、お客さんはそうそう取らないからふらっとお兄ちゃんが依頼してくる位かな。今回はそうだな、名前はもらえるの?」
「既に容疑者は公表されてる。多野努。そして多分これも既に・・・出てるな。被害者の佐々木あかり。夕方にメディア公表になってる。」
「おっけ。猶予は?」
「もう捜査本部はクローズだ。でも俺たちの勘が間違っていなければ・・・早いに越した事はない。頼めるか?」
「はいはい。まあいつも通りって事ね。今の所だけど・・・。多野さん、関係はあるけどないわね。佐々木さんはそうねえ・・・。揺るぎない意志を感じる。殺された、とは言えないかも知れないわ。まずこれが第一印象。3日、早ければ2日。わかり次第連絡するわ。」
「わかった。頼む。」
「はいはい〜。じゃお会計よろしくね。恵ちゃんもまた一緒にいらっしゃい。帰る前にちょっとだけ兄貴と話してもいいかな?」
「あ、じゃあ私先にお店出てますね。外で待ってます。」
「うん。ありがとね。」
すると瑠璃が私のズボンを掴むと一緒に外で待つと言う。ニコリと笑いかけるとその手を取り一緒に出てきた。店先でしゃがみ込んで瑠璃に目線を合わせて話をしようとすると、私の目をじっと見据えて彼女はこう言った。
「恵ちゃん。血に気をつけて。」
「・・・血?」
そう聞き返すと井上兄弟が出てきてしまって、そのまま有耶無耶になってしまった。まるで私の何もかもを見通したようなあの瑠璃の目の前では何一つ隠す事が出来なかったように思う。本能的に従わざるを得ない気分にされてしまった。唐突な展開ではあるが、私は血に気を付ける必要がありそうだ。それは怪我に気をつけろと言う事なのか、はたまた血筋の事なのか・・・。幼児の言う事だ、と一蹴出来ない言いしれぬ予感に何だか背筋が寒くなる。
ピリリリリ・・・別れるタイミングを探していた私たちは佑のスマホが鳴った所を区切りとした。駅までの道のりを歩きながら、瑠璃の言葉を思い返していると、井上に思いがけない質問をされる。郷里はどこか、と。郷里と言う言葉を使う40代がいるものなのか、と思いながらも東京だと答えると少し考えてそうか、と答えた。確かに私は東京の所謂ベッドタウンで育った。かつては一世を風靡したその街の住人は高齢化が進み、街も同様に歳を取っているものの東京である事には違いない。何故そう答えた時に一瞬考えたのか。父母の出だったのだろうか。実際の所、私がどこ出身かなんてとうに知っているはずだからその線が正しかった可能性が高い。でも何か思う所あって、深くは聞かなかった、のか。確か母は東京出身だったと昔聞いた事がある。父は西の方だが、幼い頃に行った事がある程度で物心ついてからは特に縁がなかった。父は数年前に突然事故死したが、私しかいなかったからもう1人で全て済ませてしまった。連絡を取ろうにも、何も知らず何も出来ずじまいだった。調べてわかった所で今更連絡をもらっても向こうとて困るだろう。色々それらしき理由を並べてはみるものの、知らない人にその瞬間を邪魔されたくない、気持ちの整理をつける時間が欲しかったと言うのもある。本気で探そうと思うならお金をかければ探偵だって、弁護士だってそんな相手に頼めばすぐに見つかっただろう。でもそうはしなかった。あまりにも自分には親戚達が縁遠いように感じて想像すら追いつかなかったと今はまだ誰宛にでもない言い訳をしている。
駅から徒歩10分程度の一人暮らしのアパートに帰り着くと、珍しくポストに手紙が届いていた。ダイレクトメールもあまり送られて来なくなった昨今、ポストはピザ屋と寿司屋専用となりつつあったけれど、だからと言って放っておくと治安がよろしくない。久々に開けると今回のような事があってドキッとするものだ。
差出人は・・・安藤庵?あんどうあん?変な名前。安藤ってもしかして親戚かな・・・?
階段を登りながら封筒を開けていると、ビリビリにしてしまうつもりはなくても、端々がボロボロになる。そうなってしまうとハサミで開ければよかったなあといつも思うのに、気が付くと事後なのはある意味いつも通りだ。悪い癖だと井上にちくちく言われるものの、その井上も同じタイプだからどうにも直せない。他責ではなく、どうしてもその方が効率がいいと体が覚えてしまっている。ともすると今生はもう悪癖となって治せないかも知れない。そんな事を考えながら封を開けてみる。高級そうな便箋に書かれていたのは今までに自分が知る事のない世界の話だった。
*****
月一の研修だった安藤は分駐所に戻った所で改めて顔を合わせた井上に思いがけない話が身に降りかかっている事を半ば愚痴のように話して相談していた。一人ではどうしていいかわからなかったのだ。
「遺産分割協議?お前んち金持ちだったのか?」
「いや、知らないんですよ。お父さんも実家と疎遠だったから、本当に小さい頃に行ったかなあ?って位の薄い記憶しかなくて。お墓も既にこっちのマンション型を買ってたからそこに納骨したし。だからいきなりの話すぎてどうしようかなって。」
「どうしようかってお前。別に関係が拗れてたって訳じゃないなら一度行ってみるのも縁かとは思うけどな。一応俺たちにも有給休暇ってのはあるんだし。俺はいいから、あとは課長に聞いてみろ。このご時世ダメとは言えんよ。ただ気をつけろよ。」
「気を付ける?ん〜。まあ確かに。こんな事でもないと行く機会もないか・・・。お父さんのお墓の事言われるかなあ・・・。じゃあ課長に話してみます。ありがとうございます。」
気をつけろ、と言う言葉が何となく引っかかったものの、それでもテレビで見るような場面に自分も参加出来るのかもしれないと思うとそれはそれで別のアドレナリンが出る気がして、少しワクワクし始めていたのは確かだ。その後、課長からの休暇許可もすんなり取れ、私は二十数年振りに父の故郷に帰る事となった。
*****
返信期限も迫った招待状にギリギリで返事をして、あっと言う間に年が明けた。令和も2年目になった1月15日。私は父の郷里である瀬戸内の小さな空港に降り立っていた。一体どれだけの人数が待ち構えているかわからないけれど、それでも何も持たずに行く訳にもいかないと、羽田で老舗の羊羹セットや行列が出来ていたクッキー屋のアソート箱をそれぞれ無難にお土産として用意した。空港には度々来ても、お土産を買って行くような先はなかったから、今初めてこの量のお土産物屋さんがやっていける所以を知った。
毎日どこかの誰かが帰省や客先訪問だったりで誰かにお菓子やら何やらを買って行くのだ。羽田の1日の乗降者数はおよそ13万人。繁忙期や閑散期もあろうから、毎日こうとは言えないにしても相当な人数である事は確かだろう。ざっくり半分がここから飛び立つ人としたら6万5千人。その人たちが1人一個それぞれ千円のお土産を買ったらどうだ。沢山の人が働いていて、唯一無二の施設を擁しているとは言え、さっと通り過ぎるこの場所には毎日沢山のお金が落ちていく。人が動くとお金が落ちるのは何となくわかってはいたが、こうも目の当たりにするとなるほどと思わざるを得ない。
遺産分割協議と言うものが一体どれ程のものなのか全く検討がつかなかったから、とりあえずスーツで来た。たった2日の予定だし、いつの間にやらお土産の方が多いのではないかと言う程、自分の荷物は大してない。出席の連絡をメールでした際に宿もチケットもあちらで用意するから必要ないとの事だったし、今回自分で用意したのはお土産だけ。そう考えるともし数が足りなかった時が気まずいから、慌てて搭乗口前のお土産物屋で見た目が少しは良さそうに見えるお菓子の詰め合わせを3つ買い足した。ターミナル内を行き交う人が紙袋やビニール袋をいくつも下げているのはやはり同じような理由もあるだろう。
やっとこさ乗り込んだ機内で一息つくと、もらった手紙をもう一度開く。封筒を逆さにして中身を振り出すと手紙より先にかさりと名刺が落ちた。
世路の教え 安藤郁
最初に封を開いた時は気が付かなかったが、同じ安藤姓だし、この人も親戚なのだろう。郁、その名前に何となく聞き覚えがあるような気もしたが、仕事中に聞き及んだものかもしれない。ふと名刺の裏を見てみると、空港までお迎えにあがります、と書いてあった。この手紙は一応出欠を問うものではあったけれど、私が欠席する選択肢はなかったのだろうと察するとやはりお土産を余分に買い込んだのは正解だったと思う。そして私は大部分好奇心だけで飛行機にまで乗ってしまっている事に今更ながら不安を覚える。よく考えたら、父が死んだ事に関しては調べが付いていて、その上で一人娘の所在を確認。そして知らせを寄越したのだ。相続人を確定するには仕方のない事とは言え、自分が調べられる側なのも落ち着かない気分になるものだ。そして旅費を負担してでも早々に話をつける程の事態となれば、本当に父の実家は裕福なのかも知れない。とは言え、私は突然出てきた存在だろう。父とて、実家には私が生まれてから特に関わっていなかったかもしれない可能性を考えると、全放棄しろと言われるのが想定出来るシナリオだろうか。とは言えその体験にしろそうそう出来るものではない。警察官をこれからもやって行く上で、して損になる経験はないと考えるタチだから今回も今まで同様に糧にすればいい。捜査の上でも思考回路がいくつも増えるだろうし、今までには思いもよらなかった事情まで考える事も出来るようになるかもしれない。何事も経験だ。
カウンターで手荷物を受け取り、到着ロビーで迎えに来ると名刺にあった安藤郁を探す。とは言え、顔写真がついていた訳でもない。今更ながらどうやって探せばいいものか、とキョロキョロとしていると、ピンヒールを履いた妙に姿勢のいい女性が笑顔でこちらに近づいてくる。その出立はとても垢抜けていて、仕事に明け暮れる私のスーツ姿が何と吹いて飛んでしまうような霞み方だった。せめてスーツで来て正解だっただろう。大学の頃とほとんど変わっていないくたびれた私服なんて見せられたものではなかった。背格好はあまり変わらないのに、着こなすものが違うとこんなにも見目が変わるのだ。その彼女は目の前まで歩いてくるとニッコリと笑いかけ口を開いた。
「失礼ですが安藤恵さんでしょうか?私、安藤郁と申します。」
「あ、はい。初めまして、安藤恵です。」
「やっぱり!恵ちゃん、久しぶり。私たち初めましてではないのよ。私は5つ上だから子どもの時の事覚えてるの。もう本当にこんなに大きくなって。まあそれは私もだけど。じゃあ行きましょう。」
返事もそこそこに郁に手を引っ張られながら、空港の建屋から横断歩道を渡ってすぐの駐車場に向かうと、そこにはスーツを着た初老の男性が待っていた。
「武雄さん、こちら恵ちゃん。恵ちゃん、こちら多野武雄さん。彼は安藤家で働いていただいている方。では行きましょう。みんな待ってるわ。」
郁が慣れたように双方に紹介を済ませると、いつの間にか開けられていた後部座席のドアから車に乗り込む。スーッと走り出すその様子は普段乗る車とは段違いで高級である事が車に詳しくない恵にさえわかった。普段とはあまりにも違う状況に緊張してカチンコチンになっている私の様子を見て、郁が小さく笑う。
「恵ちゃん、緊張しないで。あんまり覚えてないみたいだから簡単に説明しとくわね。今回は先日送った手紙の通り、私たちからしたら祖母の安藤四葉が昨年令和元年の10月15日に亡くなりました。財産分与は遺言に沿って行われるのだけれど、そこで相続人の洗い出しを行ったら、あなたの父である紅葉叔父さんが亡くなっている事がわかりました。紅葉叔父さんにも相続が発生していて、その分を娘であるあなた、恵ちゃんが代襲相続する事になります。ちなみに叔父さんは次男。私の父は長男で庵。あんじゃなくて、いおりって読むの。遺言に名前があるので私も今回は参加します。あと1人は三男の神楽叔父さん。なので、長男三男の2人と次男の代襲の恵ちゃんと私の4人でおばあ様の遺産を分割します。」
「あの、私はあれですよね。全放棄してほしいとかですよね。今まで何もしてきてないし、叔父さんや郁さんからしても突然出てきた存在だろうし。」
「あら、随分と卑屈なのね。そんな事言いません。遺言を最優先にするから、と言うのも勿論あるけれど、そうじゃなくても恵ちゃんは突然出てきた訳じゃないのよ。みんなあなたの事を知ってるわ。じゃあ何で紅葉叔父さんの死に辿り着けなかったのか、なんだけど。それに関しては色々あってね。問題があったとは言え、お悔やみの電報も打たずに申し訳ない事をしたわ。そちらでお墓も用意していたようだったから、でしゃばらないようにしていたの。紅葉叔父さんも私達が恵ちゃんを差し置いて出ていくのは喜ばないだろうし。でも私は恵ちゃんとまた会えてとても嬉しいの。今日は来てくれて本当にありがとう。」
「私は恥ずかしながら父から全く話を聞いていなくて。お手紙をもらうまで父の故郷がどの県だったかさえもあやふやで。父1人に育ててもらったのに、その背景を何も知らずに育って、挙句何かを聞く前に亡くしてしまって。ちゃんと聞いていれば、訃報をお届け出来たのに。いい大人が・・・。こちらこそ申し訳ありませんでした。」
そんな事言わないで、そう言って抱き寄せてくれた郁の感触が何だか懐かしくて驚く。子どもの頃の記憶なのか、全く別の人と間違えているのか、そのどれでもないのか。落ち着くその行為は緊張も懺悔も少しほぐして慣らしてくれて、その余分はこれから会う叔父2人に対する緊張へと取っておけそうだった。
そろそろ本家へ到着致します、そう運転をしていた武雄が告げると、住宅街の中に一際目を引く純和風の大きな建屋が見えてきた。職業柄、この手の家は色々な捜査で目にする事はあっても関係者として入る事はなかったから改めて緊張してしまう。
物心ついた頃にはもう父と二人で過ごしていたのに、思った以上に私は父の事を知らない。この場所に降り立ってから、今まで知らなかった事がどんどんと積み重なっていく。もしくは見えなかったものが薄いベールを一枚ずつ剥いでいくかのようにその姿を現していく。この目に見えなかったものや、見ようとしなかったもの、知ろうとしなかった事、が含まれていない訳がないのに、その時の私は全くそんな予感に気が付く事もなく、私を知る親戚に迎えられてすっかり気を抜いてしまった。仕事柄、人を疑ったり、その懐を伺う事は慣れているはずなのにその全てを羽田に置いてきたらしい私はもはや何の疑いも持っていなかったのだ。
「恵様、お帰りなさいませ。」
大きな玄関を開けて出迎えてくれたのは多野松子。彼女は30年来の使用人らしい。私の事を様付けで読んだりするものだから、また重ねて緊張してしまった。すぐに追いついた郁がまたも慣れたようにお互いを紹介してくれる。この人は先程運転してくれた多野武雄の姪で同じくこの安藤家で働いているのだと言う。どうやら多野家はこの家で働く使用人の輩出先のようで、他にも松子の母の雪を筆頭にその弟やその息子、親戚も時には働いているような様子だ。そしてこの彼女も私の事をよく知っているようだ。あんなに小さかったのに、こんなに大きくなられて・・・と涙ぐまれてどうしたものかと立ち尽くしているとタイミングよく鳴った郁のスマートウォッチに助けられた。松子が庵様は座敷でお待ちです、と全部言ってしまうまでにまた郁にグイグイと引っ張られてどんどんと広い屋敷の奥に連れて行かれる。途中広縁に出て、そこから見える庭に目をやるとそこは手入れが行き届いていてまるで一般人の家とは思えない。
「旅館みたい・・・」
そう無意識に呟く私に、まあここは本家の母屋だからと普通に返す郁の常識は私と少し違うのだろうなと感じた。本家だとか、母屋だとか、現代でまだ使う人がいたなんて思いもしないけれど、今もこの人たちはその世界を”普通”として生きているのだ。私も”普通”よりは一般的でない日常を生きている自負はあったのだが、もっともっと違った世界観で小さな風習や因習や慣わしが未だ息づく土地なんていくらでもあるのだと当たり前の真実を改めて思い知らされる。だからこそドラマや映画だって生まれるのに、目の当たりにするとすぐに反応出来ない自分に失笑する。勝手に自分で作り出した境界線の中を生きている事が外に出てみて初めて身に染みるものなのだ。立派な鯉のいる池を左手に見て、それに見惚れていると前を歩く郁の背中にぶつかった。どうやらこの部屋で叔父が待っているようだ。
「お父様、恵ちゃんを連れてきました。失礼します。」
「何と、紅葉にそっくりだな!これは驚いた。恵ちゃん、遠くからどうもありがとう。私は安藤庵。郁の父で紅葉の兄だ。紅葉の葬式に顔も出せずにすまなかった。」
「いや、とんでもない。私が全く父に話を聞いていなかったもので、ご連絡出来ずに申し訳ありませんでした。」
「恵ちゃん、まあ座って。私は神楽。君の父の弟だよ。いや、本当に兄さんにそっくりだ。今は警察官なんだって?すごいねえ。忙しいだろうに今回はこんな遠くまでありがとうね。」
「(あれ、私警察だって言ったっけ・・・?)いえ、覚えが浅いとはいえ祖母の葬式に出れず申し訳ありません。こちらこそお呼びいただいていい機会でした。後程お線香を上げさせていただいても?」
「勿論。お気遣いありがとうね。とりあえず昼食を摂りながら話そうか。佐藤先生もそろそろいらっしゃるだろう。あ、佐藤先生ってのはね、我が家の顧問弁護士だよ。」
大きめの円卓が畳の座敷に置かれていて、それが調度品である事は確かだった。家で食べる料理とは思えないような昼の懐石コースが松子の手によって次々と供され、雑談をしながらそれぞれ食事を楽しんだ。最後の水菓子を食べ終えて、お茶が取り替えられると同じタイミングでかっちりとスーツを着こなした男性が入ってきた。
「さて、郁はどこまでお話ししたのかな。とりあえず今回は今テーブルについているこの4人で母四葉の遺産分割を行う。改めてこちらは安藤家の顧問弁護士をしている佐藤先生だ。今後恵ちゃんも連絡を取る事があるだろうから後で先生の連絡先を確認しておいてね。では始めようか。」
「では私佐藤がお預かりしておりました遺言を読み上げさせていただきます。こちらは絶対事項となり、拒否される場合は全放棄を同意されるよう、生前に安藤四葉様より申しつかっております。但し、法律上遺留分に関しては請求可能です。故人の意には反しますが、権利ではありますのでお伝えしておきます。長男庵さん、三男神楽さん。そして遺言にて指名があります庵さんの長女郁さん。次男紅葉さんは逝去されております事から代襲相続人として恵さんがこの度の相続人全員です。一般的には按分ですが、割合や詳細に関しては細かく定められておりますので、大まかな配分を読み上げます。
まず本家家土地一式、指定以外の不動産資産の2分の1、金融資産の2分の1を長男庵さんに。
現在お住まいのマンション権利関係一式、指定以外の不動産資産の2分の1、庵さんの持分を引いた後の金融資産総額の2分の1、所有する美術品のうち指定されたもの5点を三男神楽さんに。
現在お住まいのマンション権利関係一式、世路の教え権利関係一式、所有する美術品のうち指定されたもの10点を庵さんの長女郁さんに。
東京都大田区の家土地一式、東京都新宿区のKKビル一棟、庵さんの持分を引いた後の金融資産総額の2分の1、所有する美術品のうち東京都大田区の邸宅内にあるもの15点を紅葉さんへ。つまりこちらが代襲相続人の恵さんにそれぞれ相続指定がされております。
不動産や金融資産についてはそれぞれ別紙をご参照ください。相続税に関しては一括して庵さんが納付され、それぞれが庵さんに後日お支払いいただく予定です。内容に関して庵さん、神楽さん、郁さんは生前から把握されているものではありますが、もしよろしければ先に恵さんには別途私から詳細をご説明いたします。皆様いかがでしょう。この状態で同意するかと聞くのも少々乱暴かとも思いますが。」
「皆さんがもしよければそうしていただけますか?私、何が何やらさっぱりで・・・申し訳ありません。」
「私は問題ありません。庵さんいかがですか?30分程度お時間いただいてもよろしいでしょうか?」
「勿論ですよ。隣の部屋をお使いください。私たちも30分程度自由時間とします。終わったら多野に言ってください。」
「わかりました。ありがとうございます。では、恵さんこちらへ。」
仕事柄誰かと遊ぶ事も難しい私は休みの日は動画配信を見て過ごす事が多い。最近は死んで転生したら異世界、なんて題材が多くてそんな事あったら面白いよなと思いながらよく見ていた。その主人公の気持ちがまさに今手に取るようにわかる。別室で目録を一通り説明されている私の驚愕度合いはまさにそれとさして変わらないだろう。いくら実家と疎遠とは言え、隣の県に大邸宅があれば父が知らない訳がない。それなのにそんな事本当に一言も聞いていない。それどころかその手入れは父が生前行っていたと言うではないか。生まれた時から私の存在が隠されていたのならまだわかる。例えば非嫡出子だったり、認知していない子だったり。だがそうではない。親戚は私を知っているし、屋敷で働く人たちもそうだ。
父は商社マンだった。私は中高は寮に入って、大学に入学した時には既に今のアパートで一人暮らしを始めていたから確かにそんなに父と一緒にいなかったのかもしれない。それでも父は毎日忙しくしていたはずだ。
いつそんな大邸宅を手入れする暇があったのか。
たった1人で?
それとも他に誰かがいた?
何で私には何も教えてくれなかったのか。
今の私には到底抱えきれないような財産のリストが今読み上げられていて、それを他の相続人が受け入れているのなら、私がその想いを無碍にするのもどうかと感じたし、最終的に言われるがままに受け入れた。だが、体の奥底で何かが湧いているような、泡が浮かんでは消えるような、言いしれぬ感覚が拭えず、胃もたれのような気持ち悪さを微かに感じる。私の生きてきた世界は、見てきた世界はほんの一部で、父は何を隠してきたのだろう。ただ相続人として呼ばれたのは私1人だから物心ついた頃にはいなかった母以外に妻はおらず、外に子どもがいた訳でもなさそうだ。その事には少しの安堵を覚えるも、それならば何故?と疑問が浮かんでは消え、また浮かぶ。
佐藤弁護士の説明を理解し、後日関東の不動産に関しては一緒に確認をしてもらう事になった。現状の遺言に関しては相続人全員で異存なし、そのままそれに従い財産分与を実行する事で協議は終了した。
おおよそ8LDK+αの本家には客間もあり、私は今日その客間に泊めてもらうようだった。専用のバストイレ、飲み物が入ったミニ冷蔵庫、すぐにつまめるようなお菓子セットも付いていて、もはやただの高級旅館である。部屋奥の障子を開けばそこに広がるのは立派な枯山水を擁した日本庭園で、なるほど先の相続が生じる訳だ、と妙に合点がいくのだった。必要なものがあれば内線でお手伝いさんに言ってくれればいいと言い残して行った郁にはこれが”普通”なのだ。昨日は休暇を取る分、書類仕事を前倒しで片付けたりしていて帰りが遅かった。それでも朝イチの便で飛んだから、正直寝不足だ。よく考えたら昨日からちゃんと食事を摂ったのはさっきの懐石コース位なもので、それに関しては美味しかったが緊張も相まってあまり食べた気がしない。棚に置かれたお菓子セットから栄養スナックを、チルドの無糖カフェラテを冷蔵庫から出して、1人になった部屋でもしゃもしゃと食べる。やっと胃に食べ物が入った感触がして、少しホッとする。部屋の時計は16時を指していて、夕食は郁がお気に入りの店に連れて行くと張り切っていた事を思い起こす。約束は18時だったからもう少し時間がある。考えを整理しようかと一旦畳敷きにゴロンと寝転がると、程なくしていつの間にか寝落ちていた。その時に見た夢はとても奇妙なもので、突然受けたストレスによるものだろうとその時は考えた。ただ、前に見た事があったような、なかったような。
ある夏の日、晴れた昼間の田舎道にバス停がある。そこにはパンプスを履いた女の人がいて笑っていた。次の瞬間、場面は切り替わって雨が降っている。晴れていたのに・・・そう思って視線を下げるとその女の人の体が真っ赤になっていて、足から地面の水溜りに赤い何かが滴っている。ハッとしたその時にすぐ隣で声がしたのだ。
「恵、綺麗な赤でしょう。」
その声を聞いた事があるようなないような、そう話しかけたのはおばさんで知らない人だった。
「恵さん、恵さん、大丈夫ですか?」
わあっと声を上げると先程の和室で見かけたお手伝いさんらしき人が心配そうに顔を覗き込んでいる。動揺する私を抱き起こすと優しく背中をさすって、水を渡してくれた。
「すみません。何か前にも見た事があるすごく変な夢を改めて見ちゃって。一気に色々起きたから、ストレス感じちゃったのかな。私ストレス耐性はある方なのに。」
「少し落ち着かれましたか?私は多野風子と申します。郁さんからお洋服をお預かりしましたのでお持ちしました。」
「本当に多野さんが何人もいらっしゃるんですね。水を飲んで少し落ち着きました。ありがとうございます。服?え、その服ですか?」
「はい。家を出られる30分前、17時半頃に改めてお支度に参りますので、それまでにこの中からお好きなものをお選びください。私、これでも美容師免許を持っておりますので、ヘアメイクはさせていただきます。もしお嫌じゃなければ。」
「えぇ?!嫌だなんてとんでもない!こんな服に合うヘアメイクなんて出来ないのでお願い出来ますか?それにしても安藤の家って一体・・・。」
「ふふ、恵さんは本当に違う世界を知っておられるのですね。紅葉さんはここの”普通”を毛嫌いされていたと聞いた事があります。それでも真っ直ぐに恵さんはご立派になられている。この家に新しい風を呼ぶ方かもしれませんね。では私はこれで。」
「あ、あの!父を知っているんですか?」
「はい。何度かお見かけしております。直接の接点はなかったのですが、雰囲気がお優しい方でした。」
「・・・そうですか。あ、もう一つ。おばあ様にお線香をあげたいのですが、今って伺えますか?」
「お部屋を使っている方がいなければ大丈夫かと思いますよ。ちょっと確認してみますね。」
そう言うと風子は廊下に出てどこかへ電話をかけて確認をしているようだった。すぐに部屋が使われていない事の確認が取れ、そのまま仏間まで案内してもらう。あまりに広く、意外にも特徴がない廊下で迷子になる事は必死。そうなってから保護される位なら先に案内の手間を取らせた方がまだマシと言うものである。この本家はもはや何かの施設だ。旅館とも言えるが、それにしては部屋の作りがやはり所々居住に適したものなのでそのどれでもない。わかりにくいがこちらの方が近道だからと申し訳なさそうに言われた後、階段を登って少し歩いてまた降りて、角を曲がって、まっすぐ行った頃に仏間に辿り着いた。何と言うか、よくある和室の仏壇と言うよりも祭壇に近いような作りだ。仏壇が大きすぎるだけなのかもしれない。ふと目を移したその右に飾られた肖像画を見て開いた口が塞がらず、そしてえも言われぬ恐怖を感じてその場にへたり込んでしまった。驚いた風子がまたも私の背中をさする事になり、その状況に申し訳なさこの上ないが、それでもあの夢のあの話しかけてきた人は確実に、間違いなくこの人だった。私が忘れているだけで、この人には会った事があって、その記憶がこの場所に戻る事で呼び戻されたのだろうか。
でも何故あんな場面で?
「大丈夫ですか?」
「この方が私の祖母に当たる方ですか・・・?」
「はい。安藤四葉様です。恵さんのおばあ様ですよ。」
「さっき、さっき夢に出てきたんです。この方に話しかけられて・・・。でも顔なんて覚えてなかったのに。何で夢に?何であの夢に出てきたの・・・。」
「差し支えなければどんな夢かお伺いしても?」
「あの、何か見た事ない田舎のバス停で、夏の日に誰かがいて、次の瞬間雨が降ってその人が真っ赤で。その時この人に綺麗でしょって話しかけられて、怖くて・・・」
「大丈夫ですよ。今は怖くないですよ。ゆっくり深呼吸してください。お参りはまた明日でも。一度こちらを出ましょう。」
「せっかく連れてきてもらったのにすみません。」
「気になさらないでください。先程の事もありますし、今日はお疲れでしょう。お送りしますので部屋で一度休まれてください。郁さんにはお伝えしておきますので。」
「重ね重ね申し訳ないです。職業柄心身ともに強いのが唯一の取り柄だったのに、どうしたものか・・・。洋子さんがいてくれて助かりました。本当にありがとうございます。」
何やら今までにない衝撃で歩けてはいるものの、支えてもらってようやく部屋まで辿り着けた。今まで酷い時では3徹だってしていたのに、警察学校の訓練だって並大抵のものではなかったのに。それなのに、この地に足を踏み入れてからこんなにも体の自由が効かなくなっている。本当に変だ。戻った部屋にはお茶が用意されていて、ベッドも整えられていた。少しだけ横にならせてもらうと告げると、彼女は小さくお辞儀をして部屋を後にした。
ブルルルル・・・ブルルルル・・・ブルルルル・・・ブルルルル・・・
メールなら無視しようと放っておいたらバイブ音が鳴り止まない。着信なら仕方ないと荷物の近くにあったスマホに手を伸ばすと、画面に出ていた名前は上司の井上だった。休みの日に電話をしてくるなんて珍しいが、今回は突然取った有休だったからイレギュラーもなくはないかもしれない。
「もしもし。安藤です。井上さん、どうかしましたか?」
「あぁ、あの書類どこにあったかなって。先週の強盗未遂の報告書。」
「え?それ井上さんが持ってませんでした?ほら、机の右側のファイルの所。見てみてくださいよ。」
「え?・・・あ、あったわ。悪い悪い。それで、大丈夫か?」
「え?あぁまあ何とか・・・。今までに人生で起こらなかった事が押し寄せてそのストレスはかなりきてますけど、何とか。ここの人たちはみんな優しくしてくれてます。協議も滞りなく済みましたし。後は事務手続きとかありますけど、プロがついてるので大丈夫そうです。」
「そうか。声が何かいつもと違う気がしてな。あんまり無理すんなよ。」
「どうかしたんですか?あんまり優しい事言われると帰るの怖いんですけど。」
「お前なあ、人がせっかく心配してやってんのに。まあそんな憎まれ口叩けるなら大丈夫か。帰り明日だっけ?気をつけてな。お土産楽しみにしてるぞ。」
「心配ありがとうございます。明日の最終で帰ります。明後日は出ますのでその時にお土産お持ちします。では。はい。お疲れ様です。」
ふぅ。イレギュラーが相次いで、上司の声で少しホッとした自分に苦笑いする。ただ、つい先日から井上の様子が何だかおかしいような気がしていた。いつだろう。弟の佑さんと会った後からだろうか。いや、もしかしたらその前にも何かあったのかもしれない。あの人だって人だ。そりゃあバイオリズム的に不安定になる事だってありはするだろう、と自分が心配されていたのに人の心配をしている事に気がついて苦笑いする。ベッドには転がるものの、先程の夢の記憶が鮮明でどうにも目を閉じる事が出来ず、ゴロゴロとしているとコンコンとドアがノックされた。どうぞ、と返事をすると心配そうに顔を覗かせたのは郁だった。何だか昔にもこんな事があったような、そんな思いがふっとよぎる。でも思い出せない。
「風子から話を聞いて心配になって来ちゃった。入っても大丈夫?月並みなんだけど、落ち着くかなと思ってカモミールティーを淹れて来たんだけど嫌いじゃない?」
「どうぞ。眠れる訳でもなくて、実はどうしようかと思っていたんです。カモミールも好きです、お気遣いありがとうございます。」
「いいのいいの。疲れちゃったんでしょう。いっぺんに色んな事が決まっちゃったり、自分は知らないのに周りみんなが自分の事知ってるのにも驚いただろうし。」
「今はだいぶ落ち着きました。ありがとうございます。お茶も美味しいです。」
「そう?よかった。本当はお店に食べに行こうかと思ってたんだけど、無理はさせたくないから今晩はゆっくり家でいただきましょう。昼間の料理だって家で作ったものだし、実際そこらのレストランよりも美味しいものが食べられるのよね。だけどたまには外に行きたくなっちゃうの。贅沢なのはわかってるんだけど、それでもたまにはね。今日は久々の再会を祝して、お気に入りのとこに連れて行きたかったんだけど。また今度来てくれた時にでもどうかな?あ、また来てくれる?」
「せっかくのご縁ですし。ぜひまた来たいです。」
「よかった。もう少しゆっくり出来るといいんだけど、お仕事的に厳しいかしらね。私が上京した時にタイミングが合えば、そこでも会えると嬉しいな。実は月一でしょっちゅう行ってるのよ。」
「あ、そうなんですね。休み返上もしばしばなんですが、三交代なので一応休みは決まってるんです。もしお時間合えばぜひ。お仕事でいらっしゃってるんですか?」
「そう。まあ家業みたいなもんかしら。出張が多い仕事なのよね。だから私もここにいるのは年の3分の1程度かもしれない。お父さんや神楽叔父さんは基本ここにいるわね。あ、でも私の場合融通は利くかもしれないから、また是非遊びましょう。」
「なるほど・・・。あ、はい、勿論。私一人っ子なので嬉しいです。何かお姉さんが出来たみたいで。」
「昔は郁ちゃんって呼んでくれてたのよ。無理にとは言わないけど、よければまたそう呼んでちょうだいね。敬語もいらないわ。お姉ちゃんだと思ってくれると私も嬉しいから。」
そう言ってニコッと笑う郁は改めて綺麗で整った顔をしている。こんなに綺麗な姉が突然出来て、人生は何が起こるかわからないけれど、変わるのもいい事だと珍しく思ってしまった。今日は随分と色々な感情がそぞろ流れて行く。今まで生きてきた中で、こんなに起伏が激しい日はなかっただろう。
父が突然亡くなった時でさえ、ここまで揺れ動く事はなかった。それは喪主を務めて、全ての役所仕事をする必要があったから、きちんと悲しみに暮れる暇がないまま、日々が流れていったからかもしれない。いつの間にか父が写真でいる事にすっかり慣れてしまっていたのだ。本当はちゃんと立体的で肉体があって、触ると温かかったのに、いつの間にかその感覚がない事が当たり前になってしまっていた。ただ聞けば異常な事も、その当事者からしたらそれは”普通”であって、何一つ特異な事はないのだ。ただの一つも。その渦中にいるか、俯瞰して見ているか、ただそれだけの違いだ。
結局その日の夜は昼とは違うダイニングルームでフレンチのフルコースをいただいた。これが家で食べられる人のお気に入りの店にはそれこそ私の手持ちの服では無理だっただろうと、機会損失した事に少しだけ安堵したのは内緒だ。それにしても一通りのテーブルマナーは身につけておいてよかった。警察官になりたての頃はこの先どんなキャリアが待っているかわからないからと色々なスキル開発に熱心だったのだ。英会話も一通りこなしたし、それこそテーブルマナーも身につけた。素人の付け焼き刃にしても全く知らないのではお話にもならない事を考えると、本当にあの時ミーハーでよかったと心から過去の自分に感謝する。お陰で沢山並べられたカトラリーに臆する事なく、昼間よりは食事の味を楽しめたのだから。チーズをお供にワインを頂く頃には縁側の小洒落たティーテーブルに移動した。ちょうど満月で、その月明かりは明るく庭を照らし、池には丸くその姿を映す。まさに月を愛でながら、美味しいワインとチーズを口にしていると明日からの生活の落差に落ち着かなさそうだと思ってしまう。酔いも回って来た頃、郁がそっとあの話題に触れた。
「おばあ様を見たんですって?それはもしかしたら夢枕かもしれないわ。死んだ人が限られた人にだけメッセージを届けに来るって言うあれ。」
「でも私おばあ様を覚えていないのに・・・。」
「それは向こう次第だからねえ・・・。その他の人は死ぬ前に会えてたから、会えなかった恵ちゃんに会いに来たってのはあるかもよ。」
「そうなのかな・・・でもメッセージがちょっと・・・」
「どうかした?」
「あ、いえ・・・。あのこの辺に海が見える一本道にバス停ってありますか・・・?あ、いや、なくても全然気にしないでください。ちょっと気になって。」
「あー。・・・あるよ。本当にあのバス停を見たの?明日空港に送って行く時に連れて行ってあげる。私が継ぐつもりだったけど、やっぱり恵ちゃんだったのかなあ・・・まあそれはそれでアリなのかも。私本来はサポートの方が性に合ってるし。」
「どう言う事ですか・・・?」
「いや、今はまだいいの。またその時が来たらちゃんと話すよ。せっかく落ち着いた所だし。そうだ!明日はまた別の店なんだけど、美味しいカレーのお店があるから帰る前に連れてくね。あ、カレー好き?」
「はい、好きです。体調も配慮いただいて、ご飯も美味しかったし、色々とありがとうございました。明日も楽しみにしておきます。」
「私は午前中はやる事があるから、また松子さんか風子がお部屋に頃合いを見て行くと思うから。朝ごはんもなかなか美味しいわよ、手前味噌ではあるけど。」
「楽しみにしておきます。それではそろそろ。」
「そうね。こんな時間まで付き合ってくれてありがとう。部屋への戻り方はわかるかしら?その廊下をまっすぐ行って突き当たりを左に曲がって2つ目の部屋よ。」
「突き当たりを左で2つ目・・・わかりました。ではおやすみなさい。」
「おやすみ、恵ちゃん。いい夢を見てね。」
郁はそう言うと満月の光の元に改めて一人グラスを傾ける。ビロードのような濃い赤ワインは心持ちねっとりとしていて、香りも深い。ボトルから指に付いた雫はまるで体から染み出したようにも見える。置いてあった手拭きでそれを拭うとそれはじわっと染み込み、また松子さんに怒られちゃうなとうすら笑いを浮かべつつ呟いた。
「これはまるで・・・。恵ちゃん、再会出来てよかったわ。今度こそ運命を共にしましょうね。」
グイッとグラスに残ったワインを飲み干すと猫のように伸びをして郁も自室に戻る。あまりにも真っ白な光を供給し続ける今夜の満月は温かな光と言うよりもただ冷酷に全てを白日に晒すかのようにも見え、窓からその光を見るのは少し躊躇う程。ひんやりとした夜風がまた恵の奥底に重なった薄いベールを一枚剥ぎ取って行く。ここに来て知らなかった事を沢山知った。会わなかった人とまた会えた。持っていなかったものを手に入れた。忘れていた記憶が私の中にあるのかもしれないと言う気持ちが沸いた。それを必要としてもしなくても、ある意味無情に時は進み、それぞれの喜怒哀楽を引き連れて、それは時に目を奪う様な模様ともなり、心の奥底の取れないシミともなる。
*****
昨日は心身ともに異常をきたしていたから、夜も眠れないかもしれないと気に病んだものの、地酒にワインに重ね飲みした後にお風呂に入ったら、その後ベッドで眠りにつくのはいつも以上に早いもので幸い夢も見なかった。つまり一晩で大体消化し、ぐっすりと眠ったのだ。自分の図太さに少し呆れるも、それはそれで大事だろうと思ったりもする。アルコールのせいで眠りが浅かったと言う事もなく、本当にしっかりと寝た。
朝も早く目が覚めたから、少し屋敷の庭を散策してみると、改めて本家の豪邸っぷりに驚く。家にしても、庭にしてもこんなに広いのかと改めて感嘆を隠せない。池の錦鯉に餌をやっていた神楽と遠目に目が合い会釈する。恵ちゃんも餌やりしてみるかい?と言って差し出された竹籠の中身は普通に食卓に並ぶようなカット野菜で面食らう。
「驚いたかい?鯉って雑食なんだって。ペレット状の餌がメインではあるんだけどたまにこうして野菜も与えるんだよ。ほら、よく食べるでしょ?小さくちぎってあげてね。」
「はい。あ、本当だ・・・。一瞬鍋の具材かと思ってびっくりしちゃいました。」
「あら、恵ちゃんは鯉こくがお好きかい?」
「違います!!野菜の方です!」
「はは、冗談だよ。まあ好きな人は好きだからね。そう言えば、紅葉兄さんの最後を聞いてもいいかな。上京したらお参りにも行かせてもらいたいと思ってるんだ。良いお線香があるから帰りに是非持って帰ってね。」
「父はお恥ずかしい話なんですが、酔っ払って歩道橋の階段から落ちてそのままだったんです。だから直前まで普通に暮らせていたし、何か食べられなくなったり、生活に必要な事が出来なくなったりする事もなくてある意味幸せだったのかなって。友達のお祖父さんが施設と病院を行ったり来たりで随分苦労していたので、そう考えるとその日までは本当に普通に暮らしていたと思います。私はもう家を出ていたからたまに電話で話す程度でしたけど、最後に話した時もいつもの父でした。まあ仕事柄どうしてもせっかちになっちゃって、いつも電話をすぐに切ってたのは悔やまれます。もしかしたら父も喋りたい事があったのに私が聞いてなかったのかもなって。」
「そうか。確かに老後になる前にその人生を現役のまま終えられるのは昨今ある意味幸せな事なのかもしれないな。実は私にも娘がいてね。可奈と言うんだ。離婚して疎遠になっているから、会う事はないのだけれど。それでもやはりたまに気になってね。父と生活した恵ちゃんにちょっと理想を重ねてしまった。紅葉兄さんは幸せだったんだな。羨ましいよ。離婚してから私はこっちで庵兄さんを手伝っているから家族の元にはいるんだけれど、娘とはまた違うんだよね。贅沢かもしれないがね。」
「そうだったんですか。と言う事は可奈さんも私や郁さんと同じような年頃ですか?」
「今年24になったのかな。恵ちゃんよりは少し下だろうか。おっと、女性に歳をたづねるのは失礼だね、ごめんごめん。」
「私は職業柄少しでも貫禄が欲しいと思ってしまうので気にしないでください。今29なので、可奈さんの5歳上ですね。郁さんは私の5つ上だったから、ちょうど5歳ずつ離れてたのか。」
「郁ももうそんなになるのか。それは私も歳を取る訳だなあ。可奈は今横浜に住んでるみたいなんだ。何故知っているかは詳しく聞かないでくれ。法は犯していないよ、お金は使っているけれど。」
「私も今はオフなので。それに探偵ならまあ使われる方もいるでしょう・・・」
「ふふ、足枷にはなりたくなくてね。お金に困っているようなら援助でもと思うけど、そうでもなさそうだからとりあえずたまに元気な様子を知りたくて頼んでるんだ。もしかしたら恵ちゃんもどこかで会っているかもしれないね。」
「そうかもしれません。特に人に会う事は多いですし。でも人が多すぎる分、気が付かない事もあるかもしれないですね。もしかしたら今回のようにまたご縁があるかもしれないですし。」
「そうだね。人生は何があるかわからない。さて、朝食は摂ったのかな?まだなら食べておいで。松子さんの朝ごはんは美味しいよ。」
「まだです。ではいただいてきます。お話出来て良かったです。」
「ああ、また機会があればお酒でも一緒に飲もう。じゃあ私は仕事があるからこれで失礼するね。」
「はい、ではまた。」
目の辺りの皺が父そのもので、やはり兄弟なのだなと思った。するとつうっと涙が頬を伝って、父を思って泣けたのだと心が少し軽くなる。まだ私はこの涙が流せていなかった。泣く為にまさかこんな所にまで来る必要があったなんて思いもせず、それは今まで泣けなかった訳だと妙に腑に落ちる。もしかしたらさっき白菜をあげた鯉が父を知っていて、お礼に泣かせてくれたのかもしれないけれど。
その土地が纏う色や空気や匂いが知らないものを想起させる事も大いにあるだろう。その全てを理解する事は恐らく人の一生程度では足りないのだろうけれど、断片的にでもこうして体感して行くのだ。偶然に感じる全ての出来事は全て敷かれたレールの上で、ただそのレールを見る術を知らない私はまるで新しい出来事に遭遇したかのように日々を手探る。そうやって新たな日々を作り、一歩一歩歩いていく。
*****
美味しいと噂の朝食はやはりその通りで、こんなに立派なものを頂いてしまったらもはや外食で満足が出来なくなってしまうと本気で感じている。一泊二食1万円のお手軽旅はもう物足りなくなってしまうだろう。年齢的にどこかで一つ上のランクを試す事も考えてはいたが、まさか旅レベルのランクアップが親戚の家で実行されるとは思いもよらなかった。海が近い立地だから魚がとにかく美味しい。料理法ももちろんだが、元々のポテンシャルも存分に高いに違いない。だが鮮魚をお土産にするには少しハードルが高いから、空港で何か加工品でも見繕うとしよう。そもそも家でしっかり自炊するメンバーなどいるのか?不規則だから仕方ないとは言え、まずあまりなさそうだ。
ふっくらと焼かれた大きな鯵の干物をいただきながら自然と顔が綻ぶ。卵焼きも艶々でふっくら。出汁が効いている上、わかめが混ぜられていて、食感さえも美味しい。自分でこの味は出せないにしても、だし巻き卵にわかめを混ぜるアイデアなら真似出来そうだ。脳内グルメレポートをしながらも無心になって食べていると、松子がニコニコ笑いながらじっと見ていた事に気が付き、その瞬間味噌汁を飲み込み損ねて咽せる。落ち着いてお食べくださいね、アラサーにもなって言われる事ではないが、昨日に引き続き背中を優しくさすってもらうとじわっと心が温まる。父がいなくなってしまった今、どこかで人肌を欲していたのかもしれない。
卵焼きがどうしても美味しくて、そのレシピを聞くと松子が便箋にサラサラと書いて渡してくれた。実はこの卵焼きレシピは四葉のものが元、と聞いて驚いたのは言うまでもない。食後にお土産として渡された塩蔵わかめが絶対に美味しい事は食べる前から確信がある。このわかめの食べ方も詳しく質問していると、もし良ければまたお送りしますからいつでもお電話くださいとまで言ってもらえた。あまりこの感覚に馴染みがなかったから、やはりどんどんとこの土地に心が馴染んでいく。元々この土地の血が半分は流れているからなのか、都会と仕事に疲れてカピカピになった心がスポンジのように人情を吸ったからなのか。心も胃袋も満たされて部屋に戻ると日持ちする特産品が紙袋に詰めて置いてあった。その上には一筆箋に”恵さまへ。こちらの名産を集めておきました。どうぞお持ちください。多野”とある。日持ちするとは言え1人では食べ切れなさそうだし、井上へのお土産はこの中から見繕っても良いかもしれない。ふりかけなんかはデスクに置いておくのも良いかも。そんな事を考えながらスーツケースに荷物を詰め込んでそろそろ帰り支度を始める。皆が言ってくれるようにもう少し時間が取れれば一番なのだが、それは今の仕事を続ける以上どうにもならないだろう。体力勝負である事は確かだし、いつまでも出来る仕事ではない。いつか普通の生活になった頃にはまた旅行をするような日々も出てくるだろう。体が動く今はまだその時ではない。少し居心地が良かったから揺らいでしまいそうになったが、私は警察官。やっと配属してもらえた機捜だ。この2日の休暇を糧にまた職務に邁進するとしよう。大して時間もかからなかった荷物のパッキングもある程度終わった頃、部屋をノックする音がした。返事をしてドアを開けてみると仕事が終わったらしい郁がそこにいた。今日もまたバッチリと体のラインに沿ったスーツを着ていて、いつ見ても本当にスタイルがいい。
「郁さん。昨日のものもそうでしたが、スーツが本当に体に合っていますね。どうやって探してるんですか?」
「え?これは全部オーダーなの。今は結構安くで出来るわよ。恵ちゃんもそろそろ30だし、仕事でも着るなら尚更何着かオーダーで作ってみたら?これだって全部上京した時に頼んでるんだし、同じ店で頼めるわよ。今度のお休みに一緒に行きましょう。私は既製品でお直しして合わせてたら結局そんなに値段変わらないってなってね。オーダーで数着作ったら良かったの。それからはもうそれを着倒してる。その方が綺麗に見えて、着てる方も楽だし、ウィンウィンよ。恵ちゃん、体型ほとんど変わらないわよね・・・。試しに私のお古を一つあげるから着てみたら?うん、そうしましょ。じゃあ15分位したら玄関に集合ね。もう荷物も持ってきて。ドライブしてカレー食べたらそのまま空港まで送って行くわ。」
「あ、はい。わかりました。」
オッケーと言いながらパタパタと走って行く郁を見て、改めて呆気に取られる。いい意味で5つも上とは思えない。私は果たして5年後にあんなに若さを保っていられるのだろうか。スーツをオーダーしているから体型が綺麗に見えるのはもちろんあるだろう。ただ確実にそれだけではない。するとふと鼻腔に残り香った異質なものが引っかかった。
ん・・・?
何だろう、この匂い。あまりにも微かな残り香に記憶が辿れるようで辿れない。決め手に欠ける。でも知っている。
何だろう、何だっけ・・・。
確実に知っているのに判別に足りる要素が足りないのだろう。
ドアを開けっぱなしにして、部屋の中をうろうろしているとまた声をかけられた。松子はまた柔らかく笑うと玄関まで荷物を運んでくれると言う。そう話している中で昨日出来なかったお参りを思い出した。夢が怖かったからお参りはしないけど、遺産はもらいます、なんて都合が良すぎる。そう告げはしなかったが、松子は仏間へと私を連れて行ってくれた。
昨日は雰囲気に気押されてしまったが、今日はまだ平気だ。線香をあげ、手を合わせて挨拶をする。おりんを鳴らしてお辞儀をした後、改めて祖母の遺影を見て思う。
何故おばあ様はあの時私の夢に?そして何故あんな事を・・・?
流石にその瞬間に返事が返ってくる事はなかった。それもそうか、と冷静になって仏間を後にする。玄関に戻ると既に皆私の見送りの為に勢揃いしていた。数日前までは仕事しかなかったのに、今やこれだけの人が私を名前で呼んでくれる。その事実が嬉しくて少し涙ぐんでしまうと、郁がまたおいでよと言い、庵と神楽もそれに続く。普段はおじさんしかいないけどいつでも帰ってらっしゃい、そう言ってもらえる事がまた重ねて嬉しくて、握手した手が温かくて、やっぱり父を思い出してまた少し泣いてしまった。ここに来てから変な事ばかりだ。私が私の知っている私ではないようで時折ひどく動揺する。
大団円と言えるような別れの後、車に乗り込むと今日は郁が運転するようだった。どうやら私を送った後にプライベートで用があるらしく、そこまで武雄に運転を頼む訳にもいかないらしい。ただ単に運転を頼むと全て父に行動が筒抜けになるから、と言う裏事情もありそうではあったが。
家から車を走らせる事、5分。予想だにしなかったギョッとする光景が目に入る。
これは・・・
あの夢の場所・・・
何故こうも鮮明に私は夢に見たのか。まるでそのままなのだ。本当にそれが存在するのかどうしても確かめたくなって、路肩に停めてくれた車から引き寄せられるように降りる。
「あぁ、何て事・・・。何て、綺麗・・・。」
バス停の古び方は同じだった。とは言え、夢で見るよりもだいぶ老朽化は進んでいる。これだけ傷んでいれば早々に立て替えられてもおかしくないのに、何故だかそのままの姿でここにある。まるで私が戻ってくるのを待っていたかのように。そんなはずはないのに、どうしてもそう思えて仕方がないのだ。何を根拠に?そう言われるとどうにも答えに困る。それでも本能的にそう思うに近いようにどうしてもここに来たかった、そう心のどこかで思っているのだ。それが何なのか、何故なのか、何もちっともわからない。それでもどうしてもそう思えて仕方ない。
ここに来たかった・・・この場所に触りたかった。
この空間に、もう一度・・・
「恵ちゃん・・・?ねえ、恵ちゃんってば、大丈夫?」
ハッとして自分が今何を考えていたのかと背筋が寒くなる。
自分は何をしていたのか。
何を思っていたのか。
来た事も無い場所を夢に見て、そこに連れてきてもらったら無我夢中で我を忘れていた。
何を・・・私は何を・・・?
何をしようとしたの・・・?
また目が泳ぎそうになる私の肩を郁は抱き抱えると、ドアが開けっぱなしになっていた車の助手席にそっと私を座らせる。ゆっくりとドアを閉めた後に郁は運転席に戻ると、私の顔を心配そうに覗き込む。その頃にはもう自分の意識は元に戻っていて、さっきまで何を思っていたのかさえもよく思い出せない。何か言っていたような気もするけれど、何を言っていたかも覚えていない。何かごめんね、と謝ると郁が優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫。大丈夫だよ。私は、私達はいつも恵ちゃんに寄り添うから。味方だから。忘れないで。」
「ありがとう。」
「じゃ、気分変えますか!ね!これ飲んでみて。試作品なんだけど、地サイダー。ソーダ好きが高じて、とうとう作っちゃったの。今既に3種類売ってるんだけど、これは新作。どうかな?スパイスかなり効かせてみたの。」
「ん・・・!思ったよりパンチが・・・!でも美味しいです。甘すぎないし、炭酸がキツめなのも結構好きです!」
「そう?良かった。笑顔も戻った。じゃあ販売したらケースで送ってあげる。じゃあカレー屋に行きますかあ!」
「はい!楽しみです!」
その後おとづれたカレー屋は常連客のようで、店に入るなり郁ちゃんいらっしゃいと声をかけられていた。私を妹だと紹介するものだから店の人が驚き、それを笑い飛ばして訂正する郁の様子に私ももらい笑いしてしまう。この人は本当に人慣れしていて、その場を掌握出来る天性の持ち主だ。人それぞれとはわかっていてもその才があれば私の人生もまた違ったのかな?と考えてしまうのはおそらく私だけでは無いだろう。彼女と関わる人皆がそう思ってしまいそうな、そんな魅力を彼女は持っているのだ。
さすが口が肥えた郁が美味しいと言うだけあって本格的なスパイスカレーは病みつきになる味だった。普段レトルトかチェーン店のカレーしか食べていない私でもこの美味しさは物珍しく、興味を惹く。
「味噌・・・?」
「え!よくわかったね!そう、ここのはマスターが仕込んでる自家製味噌が隠し味に入れられてるの。ほら、そのサービスのスープも同じ味噌。カレーライスとは違う、かと言って本格的なインドカレーとも違う、ここのカレーって独特なのよね。その決め手がやっぱこの自家製味噌なのかも。これに気が付くなんて、恵ちゃんもなかなかやるじゃん!」
「舌ばかだと思ってたから純粋に嬉しいです。でも味噌かぁ。思いつかないなあ。ほんと美味しい。連れてきてくれてありがとうございます。」
「私こそ。楽しい時間をありがとう。これから手続きとかでまた佐藤先生から連絡行くと思うけど何かあったら気にせず連絡してね。それに、引越しの件も前向きに考えてみて。」
引越し。
そう。遺産分割で私に託された大田区の家の事だ。すぐにとは言わないが賃貸に住んでいるのなら将来的にでもその家に引っ越してはどうかと言われていたのだ。父の住んでいた家は亡くなった後に処分した。都内のベッドタウンという事もあったし、独り身で住むには少し利便性に難があったのだ。家族でもいれば違ったろうが、今の仕事ではその全てが選択肢から外れる。だが、大田区なら話は別だ。しかも思ったよりも便利のいい場所で今は管理の為にたまに人が行く程度で誰も住んでいない。私が住む事になったとしても管理の為の人員はそのまま確保出来るらしいし、そうなれば屋敷の管理に気を揉む必要もない。但し費用は私持ちになる以上、やはり別に賃貸を借りているのもまた勿体無い話なのだ。帰り次第、次の休みにでもその家を見に行ってみるつもりだった。もし職場まで通えそうなら本当に引っ越そうと思っている。新宿のビルに関しても賃貸で入っている人たちに対するオーナー変更通知は資産管理会社が代行して行ってくれてはいるが、それにしてもやはり一度はどんなものか見ておきたいものだ。少し話を聞く限りではSOHOでも使えるおしゃれなデザイナーズマンションのようである。地図アプリの限定的な視点で見ても、シンプルに綺麗でこれが自分のものになるとは夢にも思えなかった。管理にある程度費用がかかるものの、賃貸収入がそれを大きく上回るからその費用で屋敷の入り用も十分に賄えるらしい。父が何も話さなかったのはただ私に贅沢を覚えさせない為だったのか。そうだとしても間違いはない程に動くお金が大きく、これが初めから手の内にあるならば厳しい警察学校に果たして耐えられていたか・・・それは正直難しいかもしれない。父は私が警察官になる事をとても喜んでくれた。普段ケチだった父が料亭で鰻を食べたのだからどれ程の事だったか、今思い出してもちょっと笑ってしまう程だ。明らかにあの時は合格した私よりも父の方が浮き足立っていたのだから。
いつもに増して父の事を思い出すのはやはり、面影をあちこちに感じたからだろう。これはともすると父を弔う旅だったのかもしれないな、と違った側面を感じながらも別れを惜しみつつ空港で郁と別れた。
とても一泊だったとは思えない程の濃い体験に羽田からの帰りも若干放心状態だった。明日からまた仕事なのにしゃんとしないと・・・。駅から歩いて帰る道のりがいつもと違うように感じたのはやはり気のせいではなかったと思う。変われないものもあれば、変われるものもある。それは変えたくなくても変わってしまったり、それは避けられなかったりもする。それでも何でも私たちはその道を歩く事しか出来ないし、そしてその先の人生も生きたければそれに抗う事は許されないのだ。まるで違う人間に生まれ変わったような気がするのはある意味正解だし、完全に不正解とは言えない。私の人生には登場人物が増えて、帰ってもいい場所と私の家と財産が出来たのだ。これでそれを得る前の私のままと言う訳にはいかないだろう。それは大金を得て浮き足立っているのとは少し違った。確かに財産分与ではっきり言って働く必要のない財産を得た。正確にはまだ受け取ってはいないが、これから改めて協議に誰かが異を唱えたり、隠し子が出てきたりしない限りは昨日説明があった通りになる。大概のやりとりはメールや電話で済むだろうが、必要とあらば佐藤弁護士や資産管理会社の方から連絡が来て現地へ同行してくれる手筈になっている。明らかにやる事も面倒も増えたのにそれでも気分が高揚しているのはやはりあの人たちのお陰だろう。父は何故頑なに私を会わせなかったのか、そこが改めて疑問にはなるが、それでもまた再会出来た。嬉しい事だ。彼氏を作っても仕事優先でダメになるのはわかっている。ペットを飼うにしても寂しい思いをさせるだろう。そうなるともう人間関係を広げようがない上、機捜にいる限り人を疑ってナンボだ。そんな中で私だけを見てくれる存在が本当にありがたい。
私はこの時依存にも近いような想いを持ち始めている事に気が付きはしなかった。自分の事となるとこんなにもガードが緩く、何も疑う事がないのだとその最後を迎えるまで知りやしなかったのだ。ただその抜けがあったからこそ、その瞬間まで生きていけたのかもしれない。
どんな結果だったにしろ、それでも私の人生だったと言えたあの時を迎えるまでは。
*****
・・・恵、恵。ダメだ。今ならまだ間に合うから・・・
ダメだ。恵。お願いだ。お父さんとの約束を忘れないで。
恵、お願いだから・・・
ハッとして目が覚めた。父が夢に出てきた事なんて今まで一度もなかったのに、あの帰省以来何度となく同じ夢を見る。それでも約束だったり、何がダメなのか、何に間に合うのかがわからない。一体何の約束の事を言っているのか、どうして今更そんな事を言いに出てきているのか。話をするならもっと他のことを話して欲しいのに、その事しか言わない。一人暮らしで忙しいからってご飯を抜いたりするんじゃないぞ、ちゃんと食べろ、体が資本なんだからな、とは言われていたが、それは今になって心配される事でもない。確かに気に入ると同じものを食べ続けてしまう悪癖はある。そして確かに支払いが自分のお財布からとなると父が知る以上にそのスパンは長くなるが、それにしてもそれだってもう何年続いている癖かわかりはしない。何故今更。でも確かに最近蕎麦ばかり食べているかもしれない。少し生活習慣を改めた方がいいのは確かだ。それにしても毎晩毎晩寝汗をかいては深夜に着替えて寝直すとなると、いつか遅刻してしまいそうでヒヤヒヤする。父は一体何を伝えにきているのだろう。もしかするとそれがわかるまでこれが続くのであれば、今後確実に生活に支障をきたす。明日は当番明けに墓参りに行ってこよう。駅前のマンション型にしたから、一般的な墓地よりも行きやすい。ここの所、上がり際に呼び出しになる事が重なっていたのに、この日は特に大きな問題もなく仕事を終われた。よっぽど父が呼んでいるのかもな、と失笑しながら足早に納骨堂へ向かう。
平日の昼間だからなのか、館内は閑散としていて、と言うよりも私以外他には誰もいないようだった。すんなりと父を呼び出す事が出来て、改めてその骨に問う。
父さん今になってどうしたの、何を伝えたいの、と。蕎麦ばっかり食べるのはやめるからもう心配しないで、とも重ねて伝えてはみたが、やはりそんな事をわざわざ夢枕で言うだろうか・・・と考える。
どう考えても私と父は会話が足りなかった。それをもうどうにも埋められない今、知りたい事を私は聞く事も出来ず、向こうとて伝えたい事を娘に伝えられない。それが叶わなくても、私はその生がある限り生き続けるしかないし、父は死んだままでいるしかない。伝え損ねたからと生き返る様な事は出来ないのだからどうしようもないだろう。何だか似たような事があったなと考えて思い出した。先日父の実家に帰省した時、祖母の仏壇の前でも同じ事をやったのだった。同じように夢に出てきた翌日にどうして?と問いかけて、その仏壇からは何の返答も得られなかった。まあ毎度返事を返してくれるようではそれはそれで困るのだけれど。
父の変な夢は墓参り以降見なくなった。と言うのも、当番の日になるとずっと対応が必要な事が多く毎度疲れ果てて帰り、充電が終わると次の当番日が来ると言う体力的に大変な日々を送っていたからかもしれない。へとへとで帰り着くから、最低限のやる事をやってベッドで泥のように眠っている。そんな風だから夢を見る体力が残っていないだけなのかもしれない。安藤の家からの連絡もないとそれまでの全てを忘れて、まるでその前の日常に戻ったかのようにさえ思っていた。数週間経った頃、上司の井上に結局どうなったんだと言われてはたと気が付く。連絡がないのではなく、私の休みがわかったらまた連絡します、と言ったから向こうは待っている。ただそれだけだった。電話にも出られるかわからないので、何かあればメールでいただけると助かります、とまで言ってある。だがしかし、私はほとんどそのメールをチェックする習慣がない。メールアドレスがないと色々な登録が困るから持っているだけで、日常的に使っていないのは物理的な家のポストと同じだ。そうか。使い人が同じなのだからそれが実際にあるポストだろうが、インターネット上にあるポストだろうが変わりはないのだ。メッセージアプリを利用するタイプでもないので、それに通知が来ていても気が付かない。どこぞのカフェやレストランで一杯プレゼントとかの登録特典があるから、それ目当てでしか使っていないのだ。アプリ右上に付いた数字はいつの間にやらすごい数になっている。確か郁にそれで連絡すると言われたような気がしないでもない。いや、確かにそう言っていた。そう思って恐る恐る開いてみるとやはり郁からメッセージが届いていた。しまった、と思いながら届いているものを確認していくと、早々に弁護士に連絡しろと来ているのが最後。しかもそれでさえ2週間も前の話だ。流石にまずいと思い、まずは弁護士事務所に連絡を入れる。こちらは雇われなのでとりあえず一旦連絡を入れればその後はどうにかなる。実際、不動産の登記が済んだから早いうちに見に行ってはどうですか、と言う話だった。一旦その住所を改めてメールで送ってもらう約束をして話は終わった。また後日佐藤先生が上京した時にでも一度会って各種確認をすれば良さそうである。後は郁だ。怒っているかもしれない。そう思うと今更ながらどう切り出したらいいのか躊躇ってしまって、返信に悩んだまま家の前まで帰ってきてしまった。すると玄関前に誰かいるようで人影が見える。隣の人・・・ではなさそうだ。仕事なら考えなしにツカツカと行けるのに、やはりプライベートとなるとどうにもそうはいかない。そっと近づいてみると女性のようで、それどころか何だか見覚えがあるようなないような。
「郁・・・さん?」
「あ!やっと帰ってきた!メッセージも全く既読付かないし、心配で来ちゃったよ!」
そう言うと郁はアパートの廊下で私をぎゅっと抱きしめる。こう言う所が何と言うかくすぐったい。実際にくすぐられているのではなくて、全身で愛情表現される事に慣れていないから、本当は嬉しいのに何だか気恥ずかしさが拭えないのだ。父は愛情深く育ててくれたが、そんなにぎゅうぎゅうと抱きしめるようなタイプではなかった。男親の片親だから、と言うのもあったのかもと思ったが、郁も母はいないようだったし、もしかしたら叔父の庵は案外ぎゅうぎゅう抱きしめる愛情表現全開タイプなのかもしれない。もしくは祖母がそうだったのかもしれない。それはそうと郁はわざわざ私の安否確認の為だけに飛行機に乗って・・・?
「ねえ、家に入れてくれないの?結構待ってたんだけど。」
「あ、ごめんなさい。広くも綺麗でもなくて申し訳ないんだけど、どうぞ。」
家まで荒れていると疲れが取れないから、あまり散らかさないようにはしている。とは言え朝ごはんの食器はシンクに置いたままだし、洗濯物は干しっぱなしだ。1DKと言えば聞こえはいいが、少し広めの部屋とダイニングテーブルが置けなくもない程度のキッチンがある、ごく一般的なアパートの部屋。前回会っているのがあの豪邸だっただけに気が引けてしまう。これお土産、そう言って手渡された紙袋はずっしりと重く、何事かと思って中を見ると瓶に入ったサイダーだ。思わず笑みが溢れる。
やっぱり慣れない。
兄弟姉妹がいるってこんな感じなのかな。
感傷に浸っていると、頬にピトッと冷たいものが当てられる。正確には冷たかったもので若干緩くなってはいたものの、ここは普通にハイボールの缶だった。但し、少し高い価格帯のもの。それにしても小1時間はドアの前で待ってくれていたようだ。それだけに止まらず、おつまみになるようなデパ地下惣菜も一緒に持ってきてくれていた。
「そんなに心配しないで。私も明日朝から仕事だからこれ飲んだらホテルに帰るわ。恵ちゃんも無事だったし。」
「普段誰かと連絡取るって事がないから、メールにもメッセージにも気がつかなくてすみません。仕事が立て込んでて・・・ってこれは王道の言い訳ですね・・・。今度から確認するようにします・・・。今日はわざわざありがとうございました。」
「じゃあ郁ちゃんって呼んで。昔みたいに。何か郁さんってすっごい素っ気ない。寂しい!」
「えぇ?わ、わかりました。じゃあ郁ちゃん。」
「よし、じゃあ敬語もやめて。家族で敬語なんて使わないでしょ。」
「わかり、わかった。郁ちゃん、今日は本当にありがとう。」
「よしよし、それでいいのよ。」
それから他愛のない事を話して、宴もたけなわではあったものの23時に差し掛かった頃に郁は帰り支度をし始めた。雑談により聞き出された来月の日勤日は一緒に物件を回る事で話がついてしまい、流石にもう逃げられない事を悟る。じゃあ来月3月25日の10時に新宿駅西口ね、そう言い残して郁は颯爽とアプリで呼んだタクシーに乗り帰って行った。嵐のような時は終わりを告げ、シンとした部屋に寂しさを感じる。よく考えたら誰かを家に入れた事はなかった。父が生きていた頃に数回来た事はあったが、その程度。あまり生活スペースに他人を入れるのが好きじゃないから、友達さえ呼ぶ事はなかった。今やそのたった数人の友達すら疎遠になっているから、実に数年ぶりとも言える自分以外の存在だったのだ。寂しさをふと感じてもそれは確かにそうかもしれない。
ぃっつた・・・!
片付けをしていて、ふと触った紙で手を切ってしまった。切りどころが悪く血が滲んで、それはぷっくりと表面張力で指の上に存在してしまっている。あぁもう!そう思いながら引っ掴んだティッシュを当てて一度血を吸わせた後に傷の具合を確認する。1センチ近く、意外と切れてしまっている。このヒリヒリした痛みは紙のような鋭利なもので切った時特有で気持ちが悪い。その時ふわっと記憶が蘇る。
血・・・この匂いだ・・・。
あの時、仕事終わりに郁ちゃんからした匂い。あまりに仄かな匂いだったからあの時は判別出来なかった。でも今は明らかだ。自分から出た血を、その匂いを嗅いで確認した。間違いない。
血・・・。誰かに何か言われたような・・・。
*****
翌当番日。いつものように井上と担当地域を密行していて唐突に思い出した。
「瑠璃ちゃんだ!」
「な、何だよ!びっくりするじゃねえか。え?瑠璃って?俺の天使のるりるり?」
「いや、はあ、まあ。そうです、天使の瑠璃ちゃんです。そうだ、やっと思い出した。スッキリした。」
「何だよ、教えろよ。」
そう言われ、あの日の食事の後に瑠璃に血に気をつけろと言われたと伝える。すると井上は急に神妙な顔をして黙り込んでしまった。確かに彼女にあの時そう言われたのだが、まあ天使のように可愛い存在が口にするには多少世界観を壊すと言うか、意味合いが違ってきてしまうと言うか、複雑な心境にしてしまったのは確かかもしれない。悪い事をしちゃったかな、と突っ込まずにいると、しばらく口をつぐんでいた井上が口を開く。
「その・・・家族とはうまくやれてるのか?」
「はい?え、良くしてもらってます。父さんが死んでからちゃんと泣けてなかった事に気がつけて、心が少し軽くなりました。5つ上の従姉妹が妹みたいに可愛がってくれて。一人っ子だったからすごく新鮮で嬉しいんです。」
「そ・・・っか。ちょっと気になっててな。トラブルになってないならいいんだ。何かあったら言えよ。相談に乗るから。」
「何か最近変ですよ。どうかしたんですか?私は大丈夫ですよ。」
「まあ元気は元気そうか。思い過ごしである事を祈ってるよ。」
「祈るだなんて柄にもない。はいはい、何かあったら相談しますから。」
そんな事を話していると無線が入り、現場の住所が告げられる。今の時間の交通量と現場の住所を照らし合わせ、最適なルートを瞬時で理解し、現場に急行する。まるでそれまでの会話はなかった事のようにすっかりと頭から抜け落ちた。結局血が何なのかわからないまま、一つは疑問が解決したから、それはそれでその時は満足してしまった。
時に理由もわからずに体が、心がゾワっと何かを拒否した時、それは理屈なしに逃げた方が良い状況だったりもする。それでもそのサインに気が付かずにそれを奇しくも乗り越えてしまった場合、その時はもう既に逃げられない沼にはまってしまっているのだ。でも沼にはまってしまった事自体、その次のフェーズに行かない限り気が付く事はないだろう。人は気が付かない事で自らの心を守ろうとする事だってあるのだ。もし然るべき時に気が付くべき事実を目の当たりにしてしまったら、自分が瓦解してしまうから。
*****
3月25日。昨日は非番だったのに、応援要請で結局帰れたのが夕方。耐えきれず早々に寝たのにも関わらず、朝早く起きる事もなく夢を見ていた。
・・・恵・・・恵・・・恵。
ふっと目が覚めたのは目覚ましが鳴る数分前。誰の声だったのか、ただ名前を呼ばれていただけなのに、何と言うかこう、纏わりつくような気持ちのいいものではない感覚が起きてしばらくは体に残った。最近は夢が意味深なものばかりだったから、ただの夢にまで何か意味があるのでは?とか、誰か知り合いが呼びかけているのでは?とか思ってしまっている節はあるのかもしれない。何故か、そう考え始めてしまうと、もうどこにだって何にだって大なり小なり疑問になりそうな種は転がっている。職務上は必要な機能ではあるが、日常生活ではある程度排除しないと健やかな生活を送る事が叶わない。やはり最近人生の形が少し変わってしまったからそのストレスを消化出来ていないのだ。嬉しいものであっても、新しい人間関係はやはり疲れるのだろう。それは好意があってもだ。特に今までプライベートは1人で好きに過ごしていたから尚更だろう。やはり私には一般的な彼氏を作って、結婚して、子どもを産んで、と言う人生は無理だったかもしれない。一人でやっていくのにさえ苦労しているのだから。ただこれだけを聞かれれば、やってもいないのに無理だなんて、とも言われるだろうが、こればっかりは向き不向きがある。次の人生ではまた違う選択があるかもしれない。とは言え全く同じ選択をする可能性がないとも言えないのが苦笑いものでもある。
ピリリリリ・・・
郁からの着信だ。約束の時間はまだだいぶ後だが、もしかしたら予定が変更になって時間がないからと電話をしてきたのかもしれない。急いで出てみると、少し荷物があるから今から送る住所に迎えに来てくれないかと言う。どのみち待ち合わせだったし問題はない。用意をしたら出るけれどそうすると時間が少し早くなると伝えても、むしろその方が都合が良いと言うし、食べかけのトーストを急いで口に詰め込みながら支度を急ぐ。先日の帰省以来、服がないと面倒になると気がつき、すぐに通販でフルコーデを3セット買っていた。これさえ用意しておけば、時間を取られる事も気後れする事もない。今日は歩くかもしれないから、綺麗めのパンツコーデに歩きやすいパンプスで家を出る。
迎えに来てくれと指定されたその住所は家から電車で30分程度の住宅街だった。そこからは地図アプリを頼りに進む。10分程歩いて辿り着いた先はごく一般的な一軒家。昔住んでいた家によく似ている。住宅街を歩くと似たような家が多いのは周辺を開発した時期に同じように建てたからだろう。ハウスメーカーは確かに幾つかあっても、結局は似たような選択肢になるのかもしれない。玄関の隣のカーポートには送迎車でよく使われる様な高級車が停まっている。ここはもしかすると郁の関東の拠点なのかもしれない。彼女自身も事業をしているようだったし、祖母の遺産以前に自身の財産がそれなりにあり、関東の一戸建て位たやすいのかもしれない。
玄関のチャイムを鳴らして待つも誰かが出てくる気配はない。恐る恐る玄関のノブに手をかけると鍵がかかっていない。ドアを開けた瞬間にドアが室内の空気を開放し、それが何なのか理解するのに数秒のラグがあった。
血・・・血の匂い・・・!
これはまずい。今日は仕事ではない。機捜の臨場ではないのだ。それなのに何故私は今明らかに緊迫したこの現場に1人でいるのか。
「い、井上さんに連絡しなきゃ。いや、緊急通報?いや、それよりも、郁ちゃん。郁ちゃん?いるの?」
玄関先に血痕がある訳ではない。それでもこのむせ返るような血の匂いはよっぽどだ。絶対にそんな事はないだろうが、猪の屠殺でもしていた・・・なんてあり得ない可能性を考えながら、恐る恐る
玄関で靴を脱ぎ廊下の先に歩を進める。
カタン・・・
「郁ちゃん?!」
もし現場であった場合、あちこちを無闇に触る事は厳禁なのに、そんな事を考える余裕はなく、壁にベタベタと手を付けて、バタバタと扉の向こうに走る。
その部屋は明らかに普通ではなく、それは絶対にわかっていた事であったかのように、全てが準備されていたかのように見えた。住宅街のよくある一軒家なのに、その一階のリビングには天井までビニールが貼られている。まるで何が飛び散っても、本体を汚さないようにしているようだ。窓もビニールで覆っているからもちろん開く訳がない。換気扇位ならまあ使えそうだが、そうではない。ここはそう言う空間ではない事位、すぐにわかっているのに、そうではない可能性を探すのに必死になっている。
「郁ちゃん!」
リビングの床の正確にはビニール養生された上で郁が座り込んでいる。血溜まりの上に。
どうしようどうしようどうしようどうしよう
洗わなきゃ・・・
「郁ちゃん、立って。洗おう、すぐに洗わないと。取れなくなる前に洗わないと。お風呂場・・・えっと、こっちか。」
一言も喋らない郁の肩を抱えて半ばひきづるように風呂場に連れて行き、バスタブの縁に座らせる。シャワーを適温にして足から洗う。まだ固まってはいなかったその血液はシャワーの温水で薄まり、床に広がり、そして排水溝に流れていく。生活感がない割に泡のボディソープはあったからそれで丁寧に洗う。むせ返るような血液の匂いは元をどうにかしない限り、どうにもならない。
元・・・?
血は、この血は誰の・・・?
郁の体を見る限り、自傷での血ではないようだ。それにもしあれだけの血が出ているのなら、バスタブの縁に腰掛けてはいられない。本人の血ではないとしても、郁の服は全体的に血濡れていて、これはもう捨てるか燃やすかしないとダメだ。ゴミは収集される過程で万が一にでも見つかるとまずい。
まずい?
私は・・・何を・・・
あまりの情報量に頭がパンクしそうになって、視界が定まらなくなりそうな時、ふと郁が呟いたからハッとなって正気に戻る。
「恵ちゃん。どうしよう。私。どうしよう。」
知っている郁はいつもはつらつとしていて、凛としていて、ピンヒールを華麗に履きこなすカッコいい女性だ。今血まみれで私に足を洗われている女性が同じとは誰も思えないだろう。よく見ると顔にも返り血を浴びているようだ。
「郁ちゃん、服脱がすね。体も顔も髪も洗わないと。私がやる?それとも自分で出来る?」
こくりと郁はうなづくと自分で血とシャワーに濡れた服をゆっくりと脱ぎ始めた。白くきめの細かい柔らかそうなその肌に斑点のように散る血痕が鮮やかで美しい。
美しい・・・?
何だか絶対に開けてはいけない箱を開けてしまった、そんな泥のような、毒のような、そんな物がじわじわと体の奥底から染み出してくるのがわかる。
「血って・・・綺麗、ね・・・。」
ハッとして口を塞ぐと、急いで風呂場を出る。バクバクと心臓が音を立て、身体中の血液が沸騰しているようだ。熱でもあるのかと言う位に身体中が熱い。細部の毛細血管はその血流に耐えきれず、内出血を起こす。鏡に映った自分の目は赤く濡れている。眼球の毛細血管が切れて、目が赤い。
目が、血で、赤い。
何を、何を私は今考えた?
冷静に。冷静にならないと。あ、そうだ。床。郁ちゃんをひきづってきたから、汚れたままのはず。すぐに拭かないと取れなくなっちゃう。
そう思い直して足元を見ると、そこは既に掃除されている。血どころか、埃の一つ冴えない。掃除されたのか、もしくは幻覚だったのか。もしかすると気が付かなかっただけでここまでもビニール養生されていたのだろうか。今が冷静とはとても言えなくても、先程郁を連れていた時に比べれば幾分かマシなはずだ。だから現状は把握出来ているつもりではある。耳を澄ますと、風呂場では普通に音がしているから、郁は普通に自分の世話を出来ている。それを確認すると、恐る恐るリビングへと向かう。そこもやはり先程とは状況が違っていた。そしてそこには多野がいた。正確には本家で会った多野の親族だろう。雰囲気から確実に多野家の人間である事はわかるが、違う人間である事も同様に確かだ。
「・・・多野さん・・・ですか?」
「はい。多野卓です。恵さん、初めまして。私はこちらの物件の管理などを行なっている者です。」
「は、初めまして。」
「どうかされましたか?」
あまりにも普通に、まるで何もなかったかのように笑顔を向ける多野の異質さにゾッとしているはずなのに、何故か同様にもしくはそれ以上に安堵した自分がいて、今は彼しか頼れないとさえ思ってしまった。
「もしかしてこれの事を心配されていますか?」
部屋に置かれた大きいスーツケースを指差す。こんなに大きいなんてまるで人が1人入りそう・・・と思ったのは正しく、次の瞬間はそれを目の当たりにする。
体育座りの女性が白いワンピースを着て・・・
「申し訳ありません。時間が限られていましたので、こちらで処置を行なってしまいました。血は全て抜き取っているのでご趣向に合いませんかね。」
「一体何の話を・・・?」
「あなたは世路の教え主宰の安藤恵様です。主宰は四葉様よりあなた様へ引き継がれました。教えは血で繋がり、夢で渡される。我々はあなたが現れるのを心待ちにしていたのです。」
何を言っているのかよくわからないながらも、全ての単語がわからない訳でもないから、それもまた混乱を呼ぶ。四葉・・・つまり祖母の主宰の地位を私が引き継いだとこの人は言っているのか。血の繋がりは確かにあり、そして時期的にちょうど亡くなった後から夢で何度も祖母を見ている。それは確かだけれど、それが一体何だと言うのか。どう反応したらいいか全くわからなくて動揺していると、シャワーを終えた郁が髪からポタポタと水滴を落としながら、浴室から戻ってきた。
「恵ちゃん。来てくれてありがとう。嬉しかった。」
そこで私は視界がブレて気を失った。あまりにも唐突にその足元が崩れて、常識が崩れて、何が本当なのか、何が嘘なのか、私は何なのか、それがその全てがわからなくなって、その場にそのまま存在していられなかった。
私の”普通”は壊れた。
*****
目を覚ますとそこは病院で、郁が私の手を握ったままコクリコクリと船を漕いでいる。目だけでも状況を把握しようと辺りを見渡すと、随分広く、ソファと机もある。どうやら特別室だろう。ただの個室、と言うレベルではなさそうだ。起きあがろうとすると体に痛みが走り思わず声を出してしまった。その声で郁が目を覚まし、すかさずナースコールを押す。
「大丈夫?すごくうなされていたけれど。倒れた時に頭を打ってしまってね。そこで意識を失ったまま、2日も目を覚さなかったんだから。心配したわ。本当に目が覚めてよかった。」
よかった・・・?
全部を一度に今思い出せないにしても、確実に普通でない事が起こっていた。枕元に置いてあったスマホをチラリと見やると今日は3月27日。もうあの日から2日も経っていて、今私はどこにいるのかもわからない。どこかの病院である事は確かだが、普段仕事以外で来る事はない場所だし、そうでなくても特別室に用があるような人生は送っていなかった。
「恵さん、調子はいかがですか?」
「え・・・?多野・・・さん?」
「はい。私はここ多野総合病院の院長をしております。」
「あ・・・、横浜のあの病院・・・。多野さんってお医者さん・・・だからあの時・・・」
「卓さん、恵ちゃんは大丈夫?」
「少し見せてもらいますね。・・・今の所大丈夫そうですが、少し検査をしたいので今週いっぱいは入院いただきます。頭を打った衝撃でと言うのはもちろんですが、それ以前に過労と睡眠不足も相当のものだったようです。どうせ今は退院を許可出来ないので観念して、ゆっくり体を休めてください。」
「よかった。大事なくて、よかった。」
そう言う郁は改めて私の手を握り、涙さえ流している。その涙がぬるく、温かく、手に滴り、やはり私はこの人を既にかけがえのない家族と認識しているのだな、と思った。私の無事を祈り、手を握り、目を覚ませば泣いて喜んでくれる人を私は無くしたくない。
職場には郁が連絡を入れてくれているようで、医師の見解も込みで1週間の休暇をもぎ取っていた。退院が見えなかったから、予定が見通せた時点でまた相談し、その時次第で休暇の延長も認められるとの事らしい。私が目を覚ましたから一旦ホテルに戻ると郁が部屋を後にすると、また部屋がガランとした。あの時と一緒だ。いつの間に私はこんなに寂しがりやになってしまったのだろう。ひどいストレスにさらされたからだろうか。しかし職務の特性上、日常的に人並み以上のストレスを受け流す自信はある。それなのに、こんなにも心身共に調子が崩れた事はない。心配してくれる人が出来た事が心の隙になったのだろうか。いや、そうでもないだろう。兎にも角にも私は変わってしまった。
本来なら、すぐに通報すべき案件だった。それなのに、一番に思ったのは郁から血を洗い流す事だった。知らない誰かの安否ではなく、ともすると容疑者だったかもしれない郁を1番に守ろうとした。どう守れるかを瞬時に考えて、迷う事なく実行した。洗ったって場所によってはルミノール反応が出るだろう。それでもやはり、郁の体にその血を纏わせたままではいたくなかった。必死で血を希釈し、お湯にして、無かった事にしようとした。警察官としての立場以前に何らかの罪に問われる可能性のある行為だ。
私が自首すれば郁にも捜査の手は伸びる。当たり前だ。ただ私はあまりにも何が起こっていたのかを知らない。体に付いていた大量の血を洗い流しただけでは一体どの罪に問えよう。あの場所で何があったのか、あの場所は何なのか、誰のものなのか、ゴミはどうしたのか。あのスーツケースの中にいた女性は誰だったのか、無事だったのか。ともすると、あの女性は人形であった可能性すらある。あの時は興奮して、動転して、挙句倒れて頭を打って入院している。その直前の記憶が正しいとは自分にも自信が持てない。仮定として、あの女性が殺されていたとしても、その罪を一身に被るにしてもあまりにも情報が少ない。多野の事だってそうだ。あの場のあの状況は記憶の限り異常ではあっただろうが、とは言え何をしたのか、そして何をしなかったのか私は何一つ知らない。そして彼のこの病院は地域の誰もが知る救急医療を担う中核病院だ。彼の事だって詳らかになってしまうだろう。そうしたらどうだ。何の関係もない患者や雇われている医師や看護師やスタッフもみんな路頭に迷ってしまうかもしれない。ただその陰に死んでしまったかもしれない誰かがいて、その血が郁を濡らしていたのならば話は別だが、どうすれば辻褄が合うのか考えが追いつかない。
明らかに頭は冴えているのに、薬のせいなのか、点滴のせいなのか、瞼は重く、そしてまた私は深い眠りに落ちた。
・・・あ、またこの場所。今度は誰かと手を繋いでいる・・・?
日差しが強く降り注ぐ夏の日。麦わら帽だろうか。つばの大きい帽子を被った私は深紅の大きな石が付いた指輪をしている女性と手を繋いで歩いている。私自身が小さく、また被っている帽子のせいで、見上げても一体誰と手を繋いでいるのか、その顔までは確認する事が出来ない。空いている左手には何か握っている。何かは見えない。木のような感触である事はわかる。砂場のスコップか、はたまたその辺の木の枝でも握っているのだろうか。すると目の先にはあのバス停が見えてきた。ぷらぷらと足を揺らす女の人が座っているようだ。年頃はどの位だろう。前に見た時とはまた違うシーンのようで、その女の人はこちらに向かって話しかけてきた。
「四葉様。お待ちしておりました。」
よつば・・・。祖母の名前。あ、手を繋いでいるのは祖母だったのか。思い返せば確かにあの指輪は肖像画にも描かれていた。昔からはめていたものなのだろう。少なくとも私が小さい頃から。挨拶をしていたこの人が何故この後血を流す事になるのか検討がつかない。あの場面からして自殺ではないだろう。ふと座っているその女性を見上げるとちょうど首の辺りまでが見える。そう。首の辺りが見えて、そして目を奪われる。
あぁ・・・あの首。あの白い肌を・・・
*****
目を開けると見えたのはここ数日入院している病室の天井で、視界に入ったのは点滴を確認する看護師と私の様子を確認する多野だった。
「目を覚まされましたか?少しバイタルが乱れていたので看護師が心配しましてね。」
荒くなった呼吸を収めようと胸をさするも、早々治るものでもない。多野にどうぞ、と差し出された水を口に含み、ゆっくり飲み下すと、やっとほんの少し呼吸が落ち着いた。何故この人はこんなに落ち着いているのだろう。そして私は何故こんなにも動揺しているのだろう。
「あまり眠れていないようなので、薬を出しておきますね。一回体を本調子に戻さない事には何も出来ません。検査も告発も・・・。」
最後に何か聞き逃せない事を言っていたような気がするのに、私は強制的にまた夢の中に戻される。せっかく起きたのに、気づけばまたあの世界の中だ。一体これはどうなっているのか。本来私の頭の中で記憶されている事からしか夢は生み出せないはずだ。それが正しいのならば、見ているそれは全部全部私の記憶で、その全ては私が経験した事なのかもしれない。
「恵。恵はおばあちゃんの自慢の孫だよ。おばあちゃんの意思を継いであの日のように助けを求める人達の手助けをしておくれ。紅葉は反対して、恵を私達から遠ざけたけれど、あなたは私達を理解出来る。だから私達もあなたを支えるの。だから私達と一緒に・・・」
「おばあちゃん・・・」
今度は特に暴れたりする事もなく、パチリと目が覚めた。確かに起き掛けに言葉を発しはしたが、うなされて、と言う訳ではなかった。今までで一番落ち着いた様子の祖母が優しく語りかけていた。私はやはり遠い昔、小さい頃に祖母に会っている。その時の記憶が思い出されたのかと思ったが、それだけではないような気がする。
紅葉は反対して私達から遠ざけた・・・
そのくだりは小さい時の私が聞いていたとは思えない。本家に行った時に聞いた記憶もない。これは確かだ。となると、これぞまさに夢枕と言うものなのか。
・・・血で繋がり、夢で渡される。
初めて祖母を夢に見たのは、今思い返せばあの事件の頃。ある夏の日に祖母と私は生きていた彼女と、首を切り裂かれてその下を真っ赤に染めた彼女を見た。それは美しく、見惚れた。
次に祖母の墓前で私は気分が悪くなった。何かこう胸につかえるような、何とも言えない感触でその場に居続ける事が出来なかった。
あのバス停に行った時。私は誘われるようにその場所を欲した。ひどくこの場所に戻りたかったと願っていたような不思議な気分になった。夢で見ていたあのバス停そのものだった。
休暇から戻ると続けざまに父の夢を見た。父は約束を守れと必死だった。今ならまだ間に合う、そう懇願していた。それでもまだそれが何の事を言っていたのかわからない。墓参りに行ったら、その夢は見なくなり、やはり偏食を指摘していたのか?とも思うが、重ね重ね考えてもそれは能力の無駄遣いだ。だから多分他に意味がある。もしそこに意味があるのなら。でも私はその訴えている意味には恐らくまだちゃんと辿り着けていない。
そして用意周到とも言える血まみれの現場。そこで語られたよくわからない話。世路の教え、とは最初にもらった手紙に入っていた郁の名刺に書いてあった名称だ。何かの宗教団体なのか、一体何なのか未だ良くわかっていない。あの瞬間に多野が言ったその時以外にその名は耳にしない。前に郁がその時が来たら話すと言っていた事があった。それはこの話だったのだろうか。ただその後に入院しているし、最近の私の様子から考えてもどれが現実でどれが夢なのかの判別が難しい。突然途切れた記憶は特に信用がならない。私は何をどうしてどうなったのか。どれもこれも情報が断片的で何かを導き出したり、判断するのには決定打に欠ける。
そこで入院中に見た夢。祖母とあの日あの場所にいて、生前の彼女と話をしていた。お待ちしていました、と話す彼女は妙に細かったようにも思う。それはただ痩せすぎていたのか、また違う可能性があるのか。待っていた、のに何故その後死んでいたのか。死神や幽霊との会話ならまだしも、祖母が死んだのは最近の事。となると20年以上も前は普通に存命で、当たり前に生者だった。つまり彼女は死ぬ前に祖母を待っていたのだ。
最後の夢では今までの印象と打って変わって、普通に語りかけられていた。それでもやはり内容は思い返せば普通ではなかったのかもしれない。意思を継いで欲しい、とは一体どの意思なのか。あの日のように助けを求める人の手助けをして欲しい?あの日は手助けだったのか?彼女は助けを求めていて、祖母はそれを助けたのだろうか。ただその結果は”死”だ。彼女は死にたかったのだろうか。あの時の私の目線から考えても私の身長は当時100センチ位。そうなると恐らく幼稚園か小学生低学年か。恐らく前者位だろう。実際小学校の時の記憶はあるが、そこに最近知り合った親戚たちの影はない。つまりそれよりも前に縁が切れていた。もしくは父の故意により彼らから遠ざけられていた。
私は5歳か6歳だろう。
相手はその展開を理解し、同意していた。
困っていた彼女をあの日私は助けた。
そして彼女は死んでいた。
刑法では14歳以下は罰せられない。幼児であれば責任能力など端から問えるはずもない。だがその遺族が管理責任を民事で問われる可能性は大いにある。加えて、もし聴取でもされるようなら前歴が残るはずだが、自分の前歴など調べる事はない。もとよりそんな事を考えもしなかった。記憶になく、聞かされる事もなく、そして考えも思いもよらないのだから、調べるはずがない。ではもしかすると周りは知っていたのだろうか。少なくとも祖母は知っていた。ともすると祖母が手にかけている可能性すらある。もし、もしもだ。私が何かしらしているとしても、やはり彼女を殺すまでの力はないだろうし、5歳6歳の女の子1人の力では確実に難しい。手加減が出来ない可能性を考えるともしかすると、確実や絶対なんて言えやしないのかもしれないが、そうはあって欲しくないとどうしても思ってしまう。
一体あの日あのベンチで何があったのか。私は何かしたのか、しなかったのか。実際その後から全く安藤の皆と関わっていないのならば、良くない事実がそこにあった可能性は大いにある。何か関係がある。でも直接これを家の者に聞いていいものなのだろうか。それは何とも難しい。既に彼らは私の中で大切なものになってしまった。そうなってしまったものを手放すのは無理だ。そして妙なバイアスが働いて、そんなはずはないと思ってしまっている自分もいる。当たり前だ。大切な人を守りたいと、自分の過去が血濡れている訳がないと普通は思いたい。
そうだ。井上の弟の佑は確か探偵もしていると言っていた。彼に誰か他の探偵を紹介してもらうのがいいかもしれない。本来ならば少しは信用のある佑に頼めるのなら頼みたい。だが、兄の保にはバレたくない上、少なからず素性が知れている。何の先入観もない所で一度私自身についても、安藤の家についても調べてみたかった。もちろん安藤紅葉、父についても。
手放したくない。だから知りたい。でも何かのバイアスがかかった上での情報では意味がない。そのバイアス上だけで生きる事が出来るのならばそれでいい。でもそう出来ない可能性の方がはるかに高い。思いもよらぬ場所から、知らぬ真実が染み出す事もあり得る。
ただ私は出来ているのだろうか。その全てを受け入れる覚悟が。
それらが自分の思うものより遥かに大きくても、恐ろしい程に深くても、それが罪に問われる許されないものであったとしても。
*****
今私を取り巻く環境を調べるにはとにかく一つでも多くの情報が必要だ。そして何より元気でいないと何も始まらない。そう考えるようになってからは、食事も睡眠も十分に取れるようになり、各種検査における数値も日に日に改善していった。数日しっかり養生させられた事が功を奏し、やっと2日後の4月1日に退院が決まると、それを見越したかのように井上が見舞いにやってきた。そこにはまさかの佑と瑠璃もいて、あまりのタイミングの良さに面食らう。井上は何かを察したかのように、もしくは最初からそうするつもりであったかのように、瑠璃にジュースを買ってやるからと言って席を外していった。既に病室では話しづらいからと病院の庭に出てきていたのだが、本当に全てがうまく運んでいる。まるで全て仕組まれているかのように。それでもここを逃しては次の機会をいつ得られるかわからないと思った私は意を決して話を切り出そうとすると先にその口火を切ったのは佑の方だった。
「恵さん。もしかして調査依頼?よければ知り合いを紹介するけど。」
「そうだった。探偵以前に占い師でしたね。私の思いなんてそもそも筒抜けだったのかな。はい。誰か紹介していただけないでしょうか。ちょっと調べてもらいたい事があって。地方まで飛べるようなフットワークの軽い人がいいんですが、心当たりありますか?」
「おっと、それは結構高くついちゃうかもだけど、その辺は大丈夫?いいなあ、本当は僕が請け負いたい位だよ。まあそれは冗談として、思い当たる人がいる。僕も信頼してる人でラムネ好きな変わり者。」
「ラムネ・・・?あのその方ってすぐに動けますか?」
「ちょっと待ってね。今聞いてみる。いつ退院するんだっけ?明後日?その次の日とかでも大丈夫?」
「はい。大丈夫です。何なら退院日でも。料金に関しては法外でないなら言い値で構いません。私のこれからに関わる事なので多少の金額は覚悟しています。腕重視でお願いしたいです。」
本当は佑は何もかもわかっているのかも知れない。何かが過去にあって、そしてそれが揺蕩い今に繋がって、また改めて紡がれていってどんな未来になるのか。私が何をして、これから何をするのか。犯した罪も、犯すかもしれない罪も、もしくは犯さなかった罪も、踏みとどまったかも知れない過去も。チラと見たその目に哀が混ざっている事には気が付いていた。彼は何かを知っている。それでも私が的確にその答えを要求しない限り、口に出す事はないだろう。それは勿論お金の問題もあるが、それだけではない。出会う全ての人に懸念を伝えてもその全ての責任は取れない。そして被れない。当たり前だ。でもわかってしまう稀有なタイプの人間はいるだろう。生きづらそうだ。彼にそんな表情をさせてしまっている私が言うのもおかしな話だが、何も知らずに気が付かずに暮らせる事がどれだけ幸せな事なのか。それはそれらが手から溢れ落ちて拾えない程離れてしまってからでないと気が付けないのだ。かくいう私もまだまだその途上だろう。まだ絶望はしていない。という事はまだまだ何も知らないのだ。その深淵を。
心配して損した、何も事件なんてなかった!
そんな未来が待っていると考えて今は動く。全てがぐちゃぐちゃにドロドロにへばりついて絡み合ってどうにもならないものしか待ち受けていないなんて考えていては今の一歩が踏み出せない。
知る覚悟は出来ていない。真実を受け入れる覚悟もない。それでも私は知りたい。私を愛した人の人生を。私を取り巻く人の世界を。そして私が生きてきた私の知らない人生を。
*****
恵は退院したその足で佑にもらったチラシのような名刺のようなその紙切れを頼りに、くだんの探偵がいる事務所に向かっていた。降り立った駅は新橋。ランチタイムを少し過ぎた昼間の駅前は少し遅れた昼食を求める人達でまだ多少混み合っている。SL広場を抜け、飲み屋が連なる路地に入ると、すぐにそのまた横路地に入っていく。小さな飲み屋がぽつりぽつりとある中、名刺の住所に辿り着いた。古い喫茶店のような店構えで、大当たりかとんだハズレかどちらかのようなその雰囲気に足踏みしていると、後ろからカランと音がして、そして声をかけられた。
「あ、もしかしてゆうっちの紹介の安藤恵さん?」
驚いて振り向くとそこにいたのは身長140センチ位の女の子だった。これは明らかに子どもだろう。でもその変わり者探偵の娘なのかもしれない。すると思ったよりもその人は年配なのかな?と思いながらそれを聞こうとすると、お腹をパンチされた。
「この子どもが紹介の人なのかなって思ったでしょ。」
あはは、と繕ってもそのビー玉のような目は全てを見据えていて、見越していて、見逃さない事は本能的に理解した。
柿木薫子23歳。中性的なその顔立ちと体型は話していたとしても、その性別がどちらなのかわからない位。あなたが求めているのは私が男女のどちらかである事なの?違うでしょ、と真顔で言われてまたたじたじとしてしまう。彼女は実に頭が切れて、その意見や質問に忌憚は一切ない。お金は取り急ぎ100万以内ならすぐに用意可能でとにかく速さとフットワークを優先したいと告げるとオッケー、と軽い返事をすぐに返された。その雰囲気の軽さとは裏腹な分厚い契約書をドンっと机に出すと内容を読んで署名しろとペンを渡される。一枚一枚確認していくと、軽いのはただの第一印象に過ぎず、ここに至るまでに色々あったのだなとその細かい内容から察した。最後にラムネが好きですってそんな内容を混ぜているから二度見して思わず笑ってしまった。差し入れするならラムネにしろと言う事なのだろう。冗談のようなそんな項目は置いておいてもこの契約書の禁止事項にない事ならやってくれると言う事だ。まさにうってつけの人材。佑は絶対に口には出さない何かを感じていて、その上での人選だったのだろうと確信めいたものを感じてもはや感謝の念しか浮かばない。
じっとその契約書を見ている間にカタンと机に置かれたコーヒーは丁寧に淹れられたもので、その隣に大きめにカットされたアップルパイも置かれた。店の残りだけど良ければどうぞ、とぶっきらぼうに置くもそれは何日も病院食を食べていた私からしたらどれだけ魅力的で美味しかった事か。それが彼女自身のジャッジに少なからず影響したのは言うまでもないだろう。
「では薫子さん。調査を正式に依頼します。前金100万。全員の調べが付けば成功報酬として追加で100万。もし全てのピースが揃わなかったとしても50万はお支払いします。もちろん交通費などの経費は別に計上して下さい。」
「はいはい。毎度あり。じゃあ安藤恵さん、調査依頼受託致しました。急ぎのようですし、最後に報告書で一括ではなく、情報がある程度出てきたらそれをスピード重視でお伝えします。では早速これから現地に飛びます。」
渡した現金を喫茶店の奥に持って行ったかと思うと、帰りにはキャリーケースとリュックを持って戻ってきた。フットワークの軽さは期待したが、本当にすぐに取り掛かってくれるようで、頼んでおいて何だが、そのスピード感に驚く。え、早い・・・と思わず出た言葉にすぐ結果欲しいんでしょ?と言われれば、うなづくより他ない。
この道を突いて果たして鬼が出るか蛇が出るか。どうしても胸騒ぎしかなかった安藤家の、そして私の隠されてきた何かを知る事が出来るかもしれない、その高揚感と同じ位の不安があるもののもうここまで来ればどんと構えるしかない。そもそも私がその鬼や蛇かもしれないのだから。
チラリと時計を見ると15時。今から空港に向かえば、恐らく夕方の便には乗れるだろう。薫子は交通費を払うと言っているからか、店を出て別れた後、躊躇なくタクシーを駆っていた。まあいいのだけれど。むしろ、その気を一切使わないスタンスに好感さえ持っていた。薫子なら言いたい事を言って、聞きたい事を聞けるのかもしれない。それが最適解とは言えない時だってあるかもしれないが、それでもそれがうまく出来ない私はただ羨ましいと思ってしまう。自分で行動するのは思っている何十倍も体力も気力も必要なのだと今回の件で悟った。今までは本当に父に守られていたのだろう。それが生前にわかっていれば、ちゃんともっと感謝出来たのに。今はもうその写真に呼びかける事しか出来ない不甲斐なさに今更胸が締め付けられる。
「父さん。私はどんなパンドラの箱を開けようとしているのかな。多分今も頭を抱えているのかもね。それでも私は私を知りたい。今、大切だと思えた人たちを大切にしたい。心配でたまらないと思うけど、どうか見守っていてね。」
新橋で見上げた空はビルに阻まれて狭いのだけれど、それでも見える淡い優しい色合いの青空が、父の優しかった笑顔を彷彿とさせた。勝手な勘違いなのだろうけど、それでも勝手に嬉しいと思った。それでいい。それでいいのだ。誰かの気持ちなんて、その人でさえ知りやしないかもしれない。自分で考えてみた時に、忘れている事も考えている事も自分より他人が知っていたりする事が沢山ある。自分が知っている自分が全てとは限らない。それでも今把握出来ている自分の始末は自分で付けられる人間でありたい。それが私が示せるただ一つの”正義”だから。
*****
24時30分。いつまでも鳴り止まない着信音が鳴り止む事を祈っていたが、こちらの負けだ。開きそうにない瞼をそのままにかろうじてスマホの画面をタップする。ベッドに寝転んだまま電話に出ると、それは現地に入った薫子からだった。規格外・・・だとは思っていたが、探偵ってみんなこうなのだろうか、と思いながらも話を聞く。こんな時間にしっかり働けるなら警察官になればいいのにとも思うが、あの自由さではちょっと難しいか。電話に出た瞬間はそんな事を考える余裕もあったものの、そのふわついた思いは一瞬で冷静さに変わった。
“約50年近く前の昭和47年5月7日。安藤家では火災があったそうです。その火事で家主だった安藤藤助が焼け死んでいます。一緒に住んでいた妻の四葉、息子3人と住み込みの家政婦だった多野雪は生き残っています。藤助は酒乱でよく酒を飲んで暴れていたらしいです。妻の四葉にも手をあげていて、時折その顔にアザを残す事もあったとか。それでもシラフの時は誰よりも優しく、子煩悩だったそうです。酒乱癖がある事にいち早く気が付いた秘書兼ドライバーの多野武雄は主人に外では一切酒を飲ませなかった。結局その皺寄せが家の中に回ってしまったのではないか・・・”
現時点で入った情報はここまでです、と言われてハッと我に返る。早急な仕事に感謝している途中で、ではと言ってブツっと電話が切れた。自由だ、いや実に。それでも現地に入って数時間。降り立ったのは既に夕方を過ぎた頃だったろう。それで何十年も前の火事にまで辿り着いたのなら、すごい成果だ。探偵とはここまでなのかと少しギョッとする。今まで話に出てくる事がなかった祖父藤助まで登場した事も意外だった。最後に仏壇で見た祖母の遺影は貫禄に満ちていて、とてもじゃないが夫に暴力を振るわれていた人のようには見えなかった。人は見た目ではないと言うが、その点での人を見る目はそれなりにあると自負はある。職業柄、この勘位は働かないと、体力お化けと言うだけではやっていけない。恐らく彼亡き後の環境や、取り巻く人で彼女は変わっていったのだろう。もしくは抑圧されていたものがその出来事をきっかけに開花したと言う可能性だって無きにしも非ずだ。
その後はそのまままた寝落ちてしまって、気が付いたら今度は目覚ましのアラームが狭いワンルームに鳴り響いていた。飲んだ訳でもないのに二日酔いのような重い頭をどうにかしたくて、いつもより濃いコーヒーを入れる。私を叩き起こしたアラームは早めにかけたものだったから、まだ十分に時間はある。コーヒーを飲みながら、パンを焼き、インスタントスープ用にお湯を沸かす。同じリズムでやかんが音を立て、外の車の音と馴染んで、耳から徐々に起きてくる。台所に立っていると、少しずつ重かった頭もクリアになってきた。起きるタイミングが悪くて頭が重かったのかもしれない。目がパチっと開いて起きる時は目覚めがいいが、アラームが十分に鳴っている状態で起きるとどうにも調子整うまでに時間がかかってしまう。その事を思い出すのはいつも目が覚めた頃だから、毎度寝起きが悪い時はその原因究明が朝一の仕事になってしまうのだ。
ピィィィィィ・・・と鳴り響くケトルの口蓋を開け、今日もいつものようにスープを作る。ちゃんと朝ごはんを食べる、と言うのは一人暮らしをする条件の一つ。覚えている父との約束の一つだ。父は男手一つで3食ちゃんと食べさせてくれていた。弁当だってちゃんとしていた。毎日幕の内弁当のようなしっかりとしたお弁当を作るから、本当はコンビニで買ってきて詰め直してるんじゃないかと、朝こっそり見張った事もあったが、そんな事はなく、しっかりと一から作っていた。亡くなった瞬間にはわからなかった事ばかりだ。目には入っていたのに当たり前だ、と決めつけて見えていなかったのかもしれない。こうして大体忘れた頃に一つずつ思い出して、その思い出にケリを付けていくのかもしれない。そして毎回感謝し、時に後悔する。その深かった、惜しみなく与えられていた愛情に。そんな感傷に浸りながら、用意した朝食を何となく付けている朝の情報番組を見ながら食べる。食べるのは早いから、用意した時間の半分以下でさっさと食べ終わり、身支度を整え、7時過ぎには家を出る。仕事柄、勤務中は連絡出来ない旨は伝えてあるから次の連絡は明日、か。今日は休み明けだから、これから24時間勤務だ。
グッタリとした声でお疲れ様です、と告げると恵は分駐所を後にした。食事をしようかと言うタイミングばかり狙ったかのように呼び出しが相次ぎ、結局勤務中ほとんどろくに食事を摂れていなかった。体力勝負で頭も働かせないとならないのに、本当に皮肉だ。どうしても家まで持ちそうになく、駅の蕎麦屋で大盛りの鴨南蛮をかきこむ。今はゆっくり食べたって構わないのに、もう体に染み付いてしまった早食い癖は今更どうにもならない。供されて2分もかからずに食べ終わり、店を出ようかと言う所で、薫子から連絡が入った。彼女が一体どう言う観点から調査を進めているのか全く検討が付かないが、どうした事か。本命を釣り上げてきた。
“・・・24年前のある夏の事件について。平成8年7月18日。当時5歳の少女が死体損壊事件に関与したとされ、家裁送りになった。一時世間は騒然としたものの、報道はすぐ後に起こった大物芸能人の不倫騒動に移り変わり、75日も全く経たぬうちに話題にもされなくなった。何よりその被害者家族がそれ以上を望まなかった。被害者の女性は当時22歳。幼少の頃より心臓が悪く、血管も人より細かった。それに伴って体の機能が制限される事も多く、体力を付ける事もままならなかったそうだ。とうとう吐血し始め、それにも慣れてしまったそんな頃、彼女はもうその体と共に生きる未来を明るいものと思えなくなってしまった。家族はどんな姿であっても生きていて欲しいと最後まで縋ったが、本人はそんな姿で生き抜く事を望まなかったのだ。そこで母親が一縷の望みとしたのが、当時会員になっていた”世路の教え”だったらしい。大事な一人娘の命の行く末に悩んで、心を病みかけたその両親は次第にその主宰に心酔していき、娘もまたそこを拠り所とするようになった。それでも体の苦しみが癒える事はない。
“生きている時の痛みや苦しみをどうにかする事は私にも世路の教えにも出来ません。でもそれから御身を解放する事は出来る。その手助けなら致しましょう。”
夫の家庭内暴力と焼死を乗り越えた主宰安藤四葉の言葉は重く、心の深い部分に静かに流れ込み、何よりもその傷に沁みた。家族の思いの全てがその当人に届く事はなく、それに誰もが傷つき、そしてどこか安堵する。その酸いも甘いも知り尽くした彼女の笑みは全てを見透かしているようでそこに心を預けて仕舞えば楽になれると思えてしまうのだった。
嘱託殺人が成立した場合の法定刑は最高で7年。
死体損壊の場合は3年。
そのどちらをも犯した場合は、それにとどまらない。
女性の親は心酔はしていたものの、冷静さの全てを無くしていた訳ではなかった。それらの罪を自分たちがかぶるのなら構わないが、他に影響があるかもしれない。それでも助けてくれるのか、と彼らは最後の選択の前に四葉にそう問うたそうだ。四葉はにこりと笑うと問題ないと告げた。そして全ての段取りをつけ、粛々と滞りなく準備をした。
当日はよく晴れた夏の日。7月も半ばに差し掛かり、そろそろ夏休みが始まろうかと子どもの気がそぞろになる頃。薬を飲まなければもう発作が来た時に対処出来なくなる程にその病気と体力の衰えは体を蝕んでいた。だからこそ、薬を自分の判断で飲まない選択をした。そして彼女は最後の場所を指定した。それは古びたバス停で、その椅子に座って、バスが来るのを見るのが好きだった彼女にとって、唯一すぐに行ける好きな場所だったのだ。体が弱く、旅行にも行けなかった彼女にとっては近所の何でもない場所が特別な場所だった。
お気に入りの白いワンピースを着て、パンプスを履いて、まるで吹っ切れたような顔をして、両親はその見た事のない満ち足りた娘の顔に疑念や後悔や惜別や愛惜の全てがほろほろと溶け去った。全てに換えてもと思える程可愛い娘の命がこの後潰える事がわかっているのに、判断は間違っていなかったと一瞬でもそう思えたのだ。
“お父さん、お母さん。今までありがとう。この選択をさせてくれてありがとう。誰よりも愛してくれて、この世を生きさせてくれてありがとう。どうか私の分まで長生きしてください。そしてもし許されるなら、私のような人を救ってください。誰よりも大好きです。50年位先にまた向こうで会いましょう。”
そう言い残し、まばゆい夏の光の元に歩き去っていった。それが彼女の生きた最後だったと言う。
その後、警察から両親に連絡があり、遺体の確認と引き取り、容疑者の心当たりについて聴取があった。そこで自筆で死を選ぶと書かれた遺書と減っていない薬を示し、それ以上を望まないと告げた。亡くなった彼女の顔は軽く笑っているかのように、安堵に満ちていた。方法は違っていたかもしれない。それでもどんなに間違っていたとしても、彼女が本懐を遂げられたなら、この後にどんな地獄へ堕ちようと両親は覚悟が出来ていた。
遺体が発見されてから数日経って、刑事が両親の元に改めてやってきた。わざわざ来た割に話しにくそうにしているから気にするなと言うと、どうやら遺体に傷を付けたのは幼児だとその刑事は告げた。全ての倫理観を無視して言えば、無垢な天使にその生きた証を証明してもらえた。そう彼らは思ったのだからやはり両親は疲れていたのかもしれない、でもそれでも良かった。血濡れた白いワンピースはその娘にちゃんと血が通っていた、長生きとは言えなかったけれどちゃんと生きた証にも見えた。何もかも間違っていて、どこにも救いようがなかったとしても、世界からどんな責められ方をしようとも、安らかなその死に顔が彼らの全てだった。
その後、度々やってきた刑事はその幼児が家裁送りになり、その後家に帰されたとか何とか経緯を話せる限り2人に話した。14歳以下の子どもは法で裁けない。両親がそもそもそれ以上を望まなかったから、その件はもうそこで有耶無耶になった。この時に居合わせた幼児でそれが出来たのは恐らく四葉の孫娘だろう、と見当が付いていたからすっかりほとぼりが覚めた頃に両親は改めて屋敷に出向いたものの、その子どもは既にどこかへ引っ越してしまった後だった・・・”
まるで何かの物語を聞かされているかのようなそんな私の過去に関わる事実に薫子は正味1日で辿り着いた。私が忘れ去っていた、父が必死に押し込めてきた過去の事件に。
放心状態の生返事で電話を切ると、そのままその場にへたり込む。何かしてしまっているのではないか、そうは感じていた。それでもそんな可能性があると誰が思おうか。そして私はその血が美しいと感じてしまうのだ。前に血だらけになった郁を見つけた時に感じた高揚感の原点は恐らくここにある。バス停にあんなに心が掻き乱されたのも、祖母の写真を見てひどく取り乱したのも、父が夢に出てきてあんなに必死だったのも、全て全てこの真実に繋がっていたのだ。色々な記憶がスナップ写真になって頭の中にバラバラと降って溢れて積もっていく。降り積もるようなその記憶に頭を占拠されたまま、ふらふらと来た電車に乗り込み、家路に着く。
今はもう、現実の映像と過去の記憶が入り乱れて、その感情がどこに向いているのか、それがどうあるべきだったのか、それをどうしたかったのか、何もわからなくなっている。私は一体どうしてきたのか、これからどうするのか。私は何を望むのか。
私は、これからどうしたい・・・?
*****
当番明けだったのにうまく眠れず、疲れ切ってやっと寝落ちたのは次の出勤の数時間前だった。寝坊せずにちゃんと起きて、いつも通りに分駐に辿り着いたのは奇跡だ。それでもやはり私は日常にはいなかったから、せめてもの喝で好きなコーヒースタンドで買ったコーヒーはエスプレッソのダブル。それに普通のコーヒーも追加し、純粋にカフェインで頭をいっぱいにしたかった。私のそのおかしなコーヒーの飲み方には気が付いている井上がすかさず茶化しにやってくる。何だ、悩みか?と。屈託なく笑うその顔は年上なのに、随分と子どものように無邪気だ。少し我に返り、大丈夫ですと告げると、納得はしていないようではあったが、何かあれば言えよとだけ言い残し、他のメンバーの元へ挨拶をしに行ってしまった。溜まっていた書類仕事を機械的に片付けながら考える。私は警察官であり、悪と対峙する立場だと。そして法を遵守し、それに沿って権力を行使する。今の時点で既に何かしらを隠している。例えば恐らく証拠隠滅等罪には問えるだろう。但し、犯人も被害者もわからない。通報も被害届も出ていない。いや、待て。薫子からの報告が脳裏に蘇る。
“・・・女性は白いワンピースを着て・・・その死は本人も家族も承諾済みだった・・・”
あの時。スーツケースに入っていた遺体と思しき女性が着ていたのも確か、白いワンピースだった。
そう言えば。まさか。そうだ・・・。
佐々木あかりの着衣は・・・白いワンピース・・・!
よもや関連があるなんて考えないから頭の中で全く繋がっていなかった。あんなにも気にかけていた事件なのに、それなのに。
容疑者は多野努・・・。
多野ってまさか・・・。まさかまさか、そんな。世界がそんなに狭いものか。これは流石に取り越し苦労だろう。あまりにも話が飛躍している。そうだ、そうに違いない。そう思うのに、そうだと言い聞かせるのに、頭の中で全てのピースがパチパチと音を立ててはまっていく。それは今の話だけではなくて、過去のピースも全てだ。唐突に数え切れない程のシーンがカラーで本人の意思とは無関係に再生される。
「おい!恵!おい!安藤!大丈夫か?どうしたんだ。」
気がつくと座っていたはずの椅子から落ちていて、体育座りをして頭を抱えていた。確かにこんな姿の部下を見れば不安にもなるだろう。すみません、そう言って立ち上がるも、整合性の高い不都合な真実がより鮮明に、明確に、隅々まで、くっきりとその姿を表した時、またふらりとふらついてしまった。おいおいおい、と言ってそのまますぐ側のソファに連れて行かれ、お茶を手渡される。一口飲むとだいぶ動悸は治った。
「井上さん。私、家族と言うか親戚の事でケリをつけなきゃいけない事がありそうです。仕事はいつも通りこなしますが、もし万が一にでもご迷惑になるような事があれば、その点は申し訳ないです。先に謝っておきます。」
「何だそりゃ。まあわかったよ。家族ってのは色々あるからな。ちゃんとケリがつけられるといいな。俺に出来る事なんてないだろうけど、何かあれば言ってくれ。そして無理はしないと約束しろ。密行入れそうか?待機に変えてもらうか?」
「いえ、問題ありません。ありがとうございます。」
この瞬間、私の中で何かが吹っ切れて、もう何があっても大丈夫な気がしていた。薫子は依然調査を続けてはいるが、どうやらもうこちらには帰ってきているらしい。あの事件の詳細は亡くなった女性の両親に聞いたそうだ。どうやってその懐に入り込んだのか、全く不明だが、その明瞭な情報が私の記憶を補完した。既に充分な調査結果を手に入れてはいるものの、恐らくまだまだあるのだろう。私が知らない真実が、それはもうゴロゴロと。普通このような状況は杞憂に終わるのだが、既に揃っている状況証拠からしてそうも楽観していられない。父は私にこの世界を気取られないよう、何か絶対に無理をしていたはずだ。ともすると、勤務していた会社も何もかも全部嘘かもしれない。名前はそのままのようだから、背乗りにまでは手を染めていなかった、のだと思う。それでもやはり必要に迫られればやっていたのかもしれない。祖母は夫を亡くした後、その家業を引き継ぎ大きくした。それどころか、手を広げ、それらを息子たちにも継がせより大きくした。今では郁もその歯車の一つだ。この中に”世路の教え”があり、恐らくその意思を引き継いで、世間から隔絶された世界で今も正しくない形で命が奪われている可能性がある。恐らく今は郁がその一端を担っている。庵も神楽も多野家も、そして父もそれを知らない訳がない。1人では到底そんな事完遂出来ない。現にもはや佐々木あかりの殺害現場とも推測出来る家には郁と多野卓がいた。
こんなにも色々な情報が溢れ返った中で知りたくない真実に逃げ場を失っても、仕事は仕事でこなせるものだった。特に集中を欠く事もなく、無事24時間勤務を終了する。軽い事件が2件入ったものの、検問による人定でどちらもその日の勤務終わりには逮捕まで完了していたから、特に残業もない。
勤務を終え、薫子に連絡を入れる。父に関してはやはり悪い意味で予想通りだったらしい。私が知っていた勤務先に勤務実績はあったものの、正社員ではなく時折顔を出す程度で、数年で完全に辞めてしまっている。その後は私が相続した大田区の家の管理と”世路の教え”の活動をメインにしていたようだ。ビルの家賃収入で私の生活は賄われていたのだろう。新宿のビルのテナント収入は私の年収半分相当額が毎月入っているようだった。これは過去の賃貸情報から薫子が推算していた。そして”世路の教え”と多野総合病院の繋がりも見つけてきた。関東では主にその病院で彼らの定義する困っている人を見つけてはマッチングしていたらしいのだ。
どんなに医療が進化したとしても、幸か不幸か、だからこそ発見される不治の病もある。移植をすればどうにかなるものであったとしても、それこそそうそう出来るものではない。またそれを望まない事だって勿論ある。そこに漬け込んだ、と言えば話がわかりやすいのかもしれない。本来ならホスピスに転院か自宅に戻る様なもう手を尽くせない患者が退院後そのまま消息を経っているようなのだ。それでも家族は何も事を起こさない。この流れにはもう驚かなくなっている。もう疑惑ではない。これは何重にも包み隠された安藤家の真実だ。法を超越して、双方の同意で成り立つ不都合な真実が恐らくあの屋敷には隠されている。
薫子には最初に会った喫茶店で追加の100万を支払った。もし私に何かあれば、佑に連絡してほしいと言い残すもそれは出来る約束ではない事位お互い承知している。これが最後の邂逅なのだと、どこかで惜しく思いながら、重い喫茶店のドアを押し、外に出る。喫茶店を出たその足で、より駅に近いカフェに入るとそこで待っていたのは、弁護士の佐藤未知。安藤家お抱え弁護士の2代目である。
「・・・ではこれでお願いします。贈与税はどうしてもかかってしまうかと思うので、その点は相談に乗っていただけますか?」
守秘義務に念を押した上で、私はわざわざ新橋のカフェにまで彼を呼びつけていた。勤務上どうにもならない所もあったし、佐藤もちょうどこちらまで来る用があったから、無理を言って時間を作ってもらったのだ。事前に内容はメールで詰めてあったから、話は早い。今日は作成してもらっていた遺言の中身を確認する事が目的だった。私は結婚をしていないし、両親も既に他界してしまっている。母の死に関しては今回佐藤先生の調査で判明した。ただ顔も知らない母に今更感情移入も出来なかった。兄弟姉妹もいないから持て余す程の財産を相続してしまったのにその先がないのだ。大した友達もいない。今思い浮かぶとすれば、上司の井上位なもの。井上には佑も未来ある瑠璃もいる。一旦贈与税はかかるものの、3人まとめて養える位の額はあったりもする。財産の全てを包括遺贈とし、その後はどうしてくれても構わないとの内容に、父と同じお墓にお骨を入れてほしい、との条件をつけた。私の知っていた父は大部分がフェイクで、私にはその枷を一緒に背負わせてくれなかった。それでも何よりも大事にしてくれて、誰よりも愛してくれた事を私は知っている。その愛は偽りなく、私にむけてくれたあの笑顔はずっとこれから先も私だけの真実だ。地獄の釜の前でまた少しでも話が出来るなら、それもまた一興だと思ったりもする。
「恵さん。気持ちがわかるとは言いません。ですが、早まる事はどうか踏みとどまられてください。」
「先生。ではお願いしますね。報酬はこちらで先にまとめてお支払いします。あと一つ。この近くで探偵をしている柿木薫子にご当地ラムネを何ケースか送っておいてもらえますか。今回とても世話になったんです。その分の手間賃もこちらに入れておきましたので。それではどうかお元気で。」
人が何かを覚悟した時、それは表情に出るのだろうか。皆が皆その少しの変化に気が付く事はないだろう。それでもやはり気が付かなくてもいい事に気が付いてしまうタイプもいる。未知は父からそのまま受け継いだこの”普通”がずれた一族の動向をずっと見てきたのだ。私の事も勿論把握している。お互いに全く関係のない”普通”の家に生まれていれば、今こんな会話をする事もこれから起こるかもしれない明らかに歓迎されない出来事に心を病む事もなかったのかもしれない。でもそれもまた誰かの偏った”普通”。結局、最後が近づけば、その偏りにさえも美しさを感じるのかもしれない。真っ直ぐでないその斜に反射する光が眩しくて、それを手に入れたいと思ってしまうのだ。絶対に今生では手にする事がないとわかっているからこそ、それを切望する。今になってなのか、今だからなのか、人生を少しわかったような気になった。
今日も空は青く、淡く、太陽のその光はどの角度でも目に飛び込んでくる。目を細め、それを直視する事から逃れる事が生きる上で大事だったりするのだろう。
帰り着いた部屋にはもうほとんど荷物がなく、ほぼ全ての整理が終わっている。あと1週間でこの部屋とはさよならだが、契約自体はその少し先の日付を指定して不動産屋に解約通知をした。
それからの数日は周りに怪しまれる事のないよう、少しずつ私物を片付けていった。1週間と言えば長いような気もするけれど、勤務体系から考えるとその実、2日の当番をこなす程度しか残っていないのだ。覚悟は決めたけれど、それでもこれで良いのかと疑問は当たり前に持った。それでもやはり何度考え直しても答えは同じだったのだ。冷静になるには期間が短過ぎたのかもしれないが、だからこそ出来た覚悟なのかもしれない。妙に思い切りがいい性格がこんな時に発揮されるとは思ってもみなかったが、これもまた人生なのだろう。
29年。あと数ヶ月で30だったか。色々あったな、そう思いながら、この部屋での最後の食事を終えた。上京している郁と卓に明日屋敷に来てもらうよう連絡し、約束を取り付ける。
「父さん。ケリをつけてくるので、どうか見守っていてください。多分約束は破っちゃうけど、次に会えた時に思いっきり怒ってね。」
遺影はもう処分してしまったから、窓から見える空に向かって呟く。ぐるっと部屋を見回して、もう処分に困るようなものは残っていない事を確認すると、最後のゴミ袋を手に握り、部屋の真ん中の机にありきたりに手紙を残してみる。父に向けてではなく、多分明日にでもうちに来てくれるであろう井上保に向けてだ。井上のトラウマになってしまうのは悪いなとは思っても、それでも今思いつく最後に会いたい人は彼だなと思った。恋愛感情ではない。一緒に色々な事件を乗り越え、どうしても体にはガタがきやすい24時間勤務を一緒に文句を言いながらそれでも楽しくこなせた。相棒、だろうか。最後の勤務まで気遣ってくれた。最後だとは言っていなかったからと言うのは大きかったかもしれないが、何であれ彼と組めた事が嬉しかった。バカに軽い呼びかけも、それでいて仲間思いな所も。もう一度佑と瑠璃と中華を食べたかったかもしれない。そう思っても、それを振り切るだけの覚悟が既に私の中にはあって、まだ戻れたかもしれないその道を完全に絶つ選択を自らの意思でする。
未熟者だからこそ、世界をちゃんと知らない若造だからこそ、わかる事もある。付けられるケリもある。ただの思い上がりだろう。そんな事は重々承知だ。自分1人に出来る事なんて限られている。それでも私は私の正義さえも貫かず、過去に後ろ指を指されるような人生は送りたくなかった。そして裁かれなかった罪から逃げたくなかった。体の中に纏わりつく、この黒い記憶と逃れられない感情を今日解放して、永遠に封印する。だからこそ絶対に失敗は許されない。