辛いということ
文章の練習も兼ねた駄文です。
辛いということについて考えてみる。
幸い仏教徒であれば誰でも、2500年ほど前に同じことで悩んだ人を知っている。
いわゆるお釈迦様である。
当時、お釈迦様は苦しみの原因を生老病死の四つに求めた。
それに加えて(?)、好きな人に会えないこと、嫌いな人と会わなければいけないこと、欲しいものが手に入らないこと、その他いっそ感じること、考えること、何かすること、全てが苦しいと考えた。いわゆる四苦八苦である。
(余談だが、さすが数学大国インド発祥。仏教が何かを分類する時には必ず『その他』に該当するものが入っている。2500年前から統計の基礎が解っていたのだろう。)
その苦しみから抜け出す方法は何か?
それが仏教のスタートだった。
お釈迦様の結論はシンプルだった。
一言で言うなら、バランス、もしくは持続可能性だ。
怠惰すぎてもいけない。頑張りすぎてもいけない。
その典型例が、苦行の否定だ。
仏教の興る前、当時隆盛していたバラモン教の教えは、来世幸せになる為に、現世苦しもう(苦行しよう)というものだった。
だが、その考えをもう一歩進めると、来来世幸せになる為には来世も苦しまないといけない。
来来来世幸せになる為には来来世も苦しまないといけない。
さすが数学大国インド発祥。
以上から数学的帰納法により、幸せは永遠に来ず、永遠に苦しまなければいけないことが証明された。
だから釈迦は苦行を否定した。
来世の為に今世を犠牲にするのではなく、今世今この瞬間からもう幸せになろうよ、ということである。
その為に大切なことは、煩悩を捨て去ることだ。
ここからは私の想像だが、これはおそらく禁欲ということではない。
達磨法師は『悟りとは何か』と問われて『庭の柏の木』と答えたというが、釈迦も八正道の説明に木を用いていたように聞く。
枝が大きすぎれば木は倒れるが、枝が小さすぎれば充分な水を得られず枯れてしまう、バランスが大切だ、という説明である。(釈迦自身が用いた喩えかは確認していない。誤りであれば申し訳ないが、論に影響はないと思う。)
さもありなん。
欲望は強すぎれば周りを巻き込んで破滅するが、弱すぎれば生きれない。例えば食欲がゼロならば飢えて死ぬだろう。
ではなぜ欲望が強すぎてはいけないか?
それは、欲望の弱い方には限界があるが、強い方には限界がないからだ。
お金を節約しようと思っても、月一万円で生活するのは無理だろう。
だが無駄遣いしろと言われたら、一億円でも一兆円でも使おうと思えば使えるのだ。
欲望の強い人1人を満足させる為には、何百万人も何億人も犠牲になりかねないのである。
逆に言えば、皆が程々で満足すれば、誰も犠牲にならずに皆が幸せになれるのである。
いわゆる自己啓発本というのが人気である。
自己実現とか、濃い毎日を過ごす為に考え方や気の持ちようを変えようという類の本だ。
努力が報われるのは素晴らしいと思う。
だが、努力が強いられるのは最悪だ。
努力することは美徳だが、努力しないことは悪徳ではない。
他人の努力を邪魔することが悪徳なのだ。
自己啓発本がまた話題になり始めたのは最近だが、似たようなものは何十年も前からあった。
20年前には既に、自分探しの旅だの、やりたいことが見つからないだのの悩みを持つ人たちが大勢いた。
男らしさとか女らしさとか言うのは差別になっている。
心の弱った人に『頑張れ』と言ってはいけないというのも広まってきている。
けど、一般論として無理に頑張らなくて良いとは、まだ広まっていないように思う。
やっぱり受験勉強はみんな頑張るし、サボった人は一生ドロップアウトしたままだ。
就職活動では自己分析させられて、その企業で何がしたいかを聞かれる。
やりたい事なんて無くても捻り出さなくてはならない。
何故みんなそんなに頑張らないといけないのか。
それで幸せなのだろうか。
体を壊すほど努力して年収一千万貰えば幸せだろうか?
今更聞くまでもなく、統計調査では、日本は幸福度が低いという結果はもう出てしまっている。
別の偉い人の言葉である。
『怠惰な有能は司令官に向いている。勤勉な有能は参謀に向いている。怠惰な無能でも雑用くらいはできる。だが、勤勉な無能は射殺するしかない。』
言い換えると、世の中には指導者やブレーンというごく一部の有能な人と、大多数の無能な人に分けられ、大多数の無能な人は更に雑用ができる怠け者と、邪魔にしかならない勤勉な人に分けられる、ということだ。
もちろん私も無能の1人である。
怠惰か勤勉かと問われると、どちらとも言い難い。
ともあれ、では何故勤勉な無能は害悪なのだろうか?
それは一言で言うと、寛容さがないからだ。
言い換えると、自分が無駄な努力をするだけでなく、他人にも無駄な努力を強要するからである。
一般に、自分に厳しい人は他人にも厳しく、自分に甘い人は他人にも甘い。
自分に厳しく他人に甘いなどという聖人や、自分に甘く他人に厳しいなどという屑はおそらく想定されていない。
上で、努力をすることは美徳だが、努力しないことは悪徳ではないと書いた。他人の努力を邪魔することが悪徳だと。
他人に自分の価値観を押し付け、勝手に努力を強いるのは、その分本人の努力を邪魔しているのと同じである。
その無駄な努力を押し付けられなければ、本人がしたいことをできたはずだからだ。
逆に言えば、怠惰な無能でも、他人に努力を強要するのであれば害悪になるし、勤勉でも他人に努力を強要しなければ害悪にならない。
つまり、努力は程々にして、煩悩を捨て、他人に寛容になれば良いということになる。
ただし、これをするのが1人では意味がない。
集団の大多数がそれをしなければ意味がない。
1人が搾取するだけで大多数の幸せは簡単に破綻してしまうのだ。
寛容を美徳とする倫理観の醸成が大切であると思う。
未だに休憩中にコンビニに寄る警官にクレームを入れる人がいる。
クレーマーというのは勤勉な無能の典型である。
『勤勉な無能は射殺するしかない』と言ったのは山本五十六だが、今はその言葉を大声では言えない。
日本人は生産性が極端に低いと言われる。
クレーマーを無視できない国民性だからだ。
元々は、その生産性の低さを長時間労働で補っていた。
生産性の低いまま長時間労働をするのも、勤務時間を短くして給与を下げるのも不幸だ。
努力をやめてみること。努力をやめた分、他人にも寛容になること。
この二つから始めてみれば良いと思う。
もちろんこんな駄文を読む人など殆どいないとは思うけれども、寛容な人が1人でも増えてくれたなら嬉しいと思う。