アイツに惚れたのは、そうですね。半狂乱の義父を投げ飛ばし、瀕死の自分を救ってくれた時でした。
それは、一秒にも満たない僅かな時間だった。
俺の体が母なる地球の重力から解き放たれるその一瞬。俺の視界は、色あせた芝生――茜色の空――あいつの顔とめまぐるしくその景色を変えた。
遅れて聞こえた衝撃音と、背中の痛み、そしてニヤリと口角を上げたあの顔が、俺に敗北という名の事実を教えてくれる。
「さてと、本番はこれからだけど? 」
降参する? なんて、尻尾みたいな黒いお下げを跳ね上げて俺の腹に飛び乗り、あいつは拳を固めて尋ねてくる。
あぁ、なるほど。
マウントをとられた俺、骨を鳴らすあいつの拳。フルボッコタイムに突入か。
……通算戦績:三十三戦三十三敗。
「あぁ、チクショウ!! 」
すっかりと日の暮れたいつもの帰り道。地面へと酷く打ち付けられ痛む背中と尻を交互に撫でながら、俺はあの真っ赤な夕日に悪態をつく。
今日も負けた。また負けた。小・中学と一日とて稽古を休むことはなかったのに、俺の人生は武道とさえも言えるのに、高校に入って二年。実に三十三敗である。
まさかまさかの不名誉に、手に二人分の荷物を持ったまま、まるで幼児のように地団太を踏んだ。
思えば、あの日あの時あの場所で、コイツに出会ったのが運のつきだったのだろう。
そう、確かあれは高校の入学式だった。同じクラスに達人がいるという噂が俺の耳に届いたのだ。
曰く、日本で指折りの名門道場の娘。
曰く、鬼殺しの娘。
高校上がりたての血気盛んな時期である。一目見ようと意気揚々、あいつに近づいたわけだ。だが、そこにはすでに先客がいた。何人かのアホ面が凶器を手に彼女を取り囲んでいたわけだ。
流石に分が悪いだろうと間に入ってはみたが、その数分後には全員地面と熱いキスを交わしていた。なぜか助けに入った俺までもが。
その時からあいつと俺の腐れ縁は続いている。そのつど投げられ、蹴られ、殴られて、それでもこりない俺はマゾなのだろうか。
「ん? どうしたの」
そう言ってあいつはこっちを振り向いた。腰まで届く黒髪と制服のスカートが揺れる。
「アイス溶けるぞ、暴力娘」
しかもそのアイスは俺のおごりである。非常に不本意だが、コイツ曰く世の中は弱肉強食らしい。弱いあなたは強いアタシに尽くしなさ「えいやっ」
なんて、まだ地の文が終わってさえいないのに、すばやく俺の手首をつかむと、世界は見事に一回転。俺を投げ飛ばしやがった。言っておくが地面はもちろんアスファルトである。
「殺す気か! 」
この乱暴者め。とっさに受身が成功したから良かったものの、一歩間違えれば死んでいる。だが、これくらいアンタなら余裕でしょ。なんて、文句を垂れる俺の口へと食べかけのアイスを突っ込み、言い放った。
「悔しかったらアタシを負かせてみせなさい」
あぁ小憎たらしい。なんだってこんなにも強いんだ。
憎々しくアイスを噛み砕き、残った棒は『ハズレ』であることを確認、投げ捨てる。
「なぁおい」
こうなったら、恥も外聞も知ったことか。負けっぱなしは性に合わん。前々から計画していた、とある手段を実行に移すことにした。
「今度の土曜。お前の家におじゃまする」
無論、日本で指折りの名門道場に弟子入りする為に。こんなとんでも娘の実家である。当然、武を志すものにとって、知らないものはいないほどだ。そんなところに師事してみろ、男子三日会わざれば刮目して見よ。きっと今の自分では想像できないほどに腕が上がりそうだ。
「え? 何しに来るの? 」
アイツは、形の良い瞳をパチクリさせる。
何しになんて、まったくもって愚問だな。そんなもん、用件はひとつしかないだろう。
「お前の親父さんに挨拶するためだ」
それに、コイツの父親は尊敬すべき凄腕格闘家である。前々から一度、稽古をつけてもらいたいと思っていた。
「パパに? 挨拶? えっと、それって」
「できれば住み込む許可を貰いたい」
朝から晩までみっちりと、稽古三昧を希望する。幸運にも、あと数日で高校も夏の長期休暇に突入するし、この夏は『 超☆強化合宿 』と洒落込もう。
「住み込むって、ちょっとまって……え? 一つ屋根の下ってこと? え? それって、ど、どど、同棲ってこと!? 」
同姓? いや別に内弟子だからって同じ名字になりはしないだろう。
「でも、まだそんな。知り合って二年だし、そもそもそんな関係じゃないし」
「別に、年数は関係ないだろう」
わざわざ口に出して言わないが、強くなりたい。この気持ちがあれば問題ないはずだ。
「いや、まぁ、そうかもしれないけど……でも、せめて、雰囲気とかあるじゃん? アタシもさ、少しは期待してたわけだしさ、こう、言葉に出すのって重要というか、女子として、そういうの男子からして貰うのって憧れるっていうか」
「お前さっきから何言ってんだ? 」
モジモジと手遊びなんかして、おろおろと道に迷った子猫のようだ。それになんだその顔色は。熱でもあるのか真っ赤である。
「それに、ぱ、パパ、弱いヤツは認めないって言ってたもん! 」
ふむ、弱いヤツはお呼びでないというわけか。言わんとせんところは理解できる。だがな、
「頑張るさ」
こちとら小さな頃から武道一筋だ。当然、気合いや根性論は大好物。シゴキやスパルタなんてどんと来いだ。強さを追い求めることには貪欲だぞ。
「頑張るって言われても」
「やっぱり無理か? 突然だしな」
「いや、む、無理ってわけじゃないけど、その、アタシとしては、順番が違うというか」
パパよりもまずアタシに。なんて、終いには道の真ん中で立ち止まりやがった。
「まぁいいや。とにかく聞いといてくれ。行ってもいいですか? ってな」
「あ、う、うん。……わかった」
スマホを操作し、どこかに電話をかけるアイツの顔は、遠く沈む夕日の色に染まっている。
さてと、この夏休みの計画、もとい目標はアイツを超えること。これで決まりだ。それにはまず弟子入りを――
「あのね、パパが『一秒で七回殺すって』伝えといてって」
「……へ? 」
「素手で背骨を引きずり出してやるって……がんばって! 」
いよいよの時はアタシも協力するから。なんて、恥ずかしそうにアイツは俺の腕に抱きついてきたが……あれ? もしかすると俺はいろいろ早まったのかもしれない。
得も言われぬ不安が、ふと、自分の心に影を落とす。
唐突な悪寒に、ブルリと震えた身体をさすっていると、どこか遠くの方から獣の雄叫びが聞こえた。
今書いてる長編の息抜きで書きました。
短編はサクッと書けて、それでいてリフレッシュ出来るので良いですね。