研修を終える。タマに傷はつけられない。
タマを直し終えると、時間が余ったらしく、木部さんが工場を案内してくれることになった。
自動倉庫をシャッッター側から出る。トラックは未だに荷台を広げたままであった。ここが空の上なら、ほんとに飛んでいってしまいそうだ。というか、ここはどこだ。
「トラックの向こう側が、さっき行った第二洗浄場です。こっちに行きましょう」
木部さんは、自動倉庫を出ると右に歩き出した。
「方角で言うと、川本さんのいたタマ管理室は南にあります。そこから北に向かって、第一洗浄場を抜けて、自動倉庫を通って、第二洗浄場があります」
なれば、南から北に上がり、右に曲がった、ということは、えっと、今はどっちの方角だ。西か?
木部さんは、数メートル歩いたところで、第二洗浄場のほうに向きを変えた。
「あそこに見えるのが休憩所になります」
横断歩道が伸びており、第二洗浄場の手前にプレハブ小屋が二つあった。そばには、自動販売機が並んでいる。
「堂本さん、タバコすいます?」
「え、いえ、すわないです」
「じゃあ奥のほうですね。手前は喫煙です」
指差呼称を行い、横断歩道を渡る。
喫煙者用のプレハブには、二人の男がいた。真ん中に置いてある灰皿を囲んで、なにやら話をしている。
「工場は吸う人多いっすよ」
「あの、木部さんはすうんですか?」
「ええ、すいますよ」
「え!?」
「めっちゃ驚くやん」
と木部さんは、僕の反応を見て笑った。
周りに喫煙者がいなかったので、驚いた。いや、普段家族以外の人と関わっていなかったのに喫煙率なんてわかるわけないか、はは。
業務を終え、日報を川本さんに渡しにいく。
「おう、大丈夫そうか?」
パソコンになにやら打込みながら、川本さんは訊ねた。
「堂本君覚えるの早いんで、楽っすね」
と木部さんが言うと「行けるか、堂本。明日の昼から独り立ち」と川本さんが日報を受け取りながら訊ねた。
「え、ああ、え、明日ですか」
「おう。木部、明日午前は堂本に付き添え。昼から洗浄な」
「え、まじっすか」
「山川からさっき連絡がきた。洗浄に人いねえんだとよ」
「了解っす。あーあ、もうちょい楽したかったんだけどな」
「山川に怒られんぞ。おっけ、お疲れ」
と川本さんは画面に視線を戻した。
「お疲れっす」
「おつかれさまです」
と木部さんと僕は歩き出した。
「ああ、堂本くんちょっと」
と生産管理部の森田さんが小走りで現れた。
「森田さんや。なんか話あるみたいやね。じゃあ、堂本くん、お疲れ」
と木部さんが言った。
「あ、おつかれさまです」
と木部さんと別れ、森田さんのもとへ。
森田さんが言う。
「仕事はどうだったかな。行けそうかい?」
「はあ、まあ、なんとか」
「そうかそうか。制服も明日には支給できるから。でだね、当分こっちの生活になるから、とりあえずロッカーに案内しますね。それで、マンションのほうへ」
と歩きだす森田さんにおずおずとついていく。
更衣室に案内され、ロッカーの鍵をもらう。
「マンションに案内しますね」
と森田さんと外へ出る。
道路には車の往来がちらほらある。信号を渡る。川があった。橋を渡り、左手の川沿いに、マンションはあった。一階の角部屋に案内される。
「ここです。すみませんね、急遽だったもんで。とりあえず一週間分の食事はこちらで用意させて頂きます」
と森田さんから袋をもらう。中には弁当が入っていた。朝食分の菓子パンもあった。
「ありがとうございます」
と受け取る。
「明日は8時出勤です。ロッカーに制服を入れておきますので、タイムカードを打って制服に着替えて、川本さんのいたタマ管理のほうへ行ってください」
森田さんは、説明を終えるとマンションをあとにした。
部屋で一人、弁当を食べる。
卵焼き、ウインナー、焼き魚、白ご飯。いたって平凡な弁当だが、えらくおいしく感じた。
眠気がすぐに押し寄せた。布団に入る。目覚まし時計があった。時間をセットし、そのまま眠りについた。
地上と変わらず、気怠い朝だった。
菓子パンを片手に、外に出る。
朝の陽光が川に反射している。涼やかな風が心地よい。
工場に歩いていくと、その途中でちらほらと自転車に抜かれる。昨日見た顔があった。向かう先は一緒だろう。
バスが通った。男たちが満杯にのっている。工場の門を抜け、なだらかな坂を上り駐車場の手前で止まった。ぞろぞろと工員が、無言で出てくる。だれもみな一様に眠そうである。高齢の男が一人、がはがはとしゃべっていた。相づちを打つのは、またしても高齢の優しそうなメガネの男であった。朝から元気な人もいるらしい。
ロッカーは混雑していた。するりと抜け、自分のロッカーへ。中には制服があった。薄青い、みんなと同じ制服。着替えていると
「おはようございます」
と爽やかな声が。
「あ、おはよ、うございます」
初めて今日声を発した。なんとか出せた。
爽やかな声の主は、白髪の混じった髪の毛をオールバックにした、気の良さそうなおじさんだった。隣のロッカーを開ける。ジャージだったり適当なシャツだったりを着ている他の社員のなかで、おじさんはしっかりとジャケットを着ていた。
特にそれ以上話すことはなく、僕はロッカーをあとにした。
工場の端にある小さなプレハブ小屋。そこがタマ管理部門であった。
「うーっす」
と眠そうな川本さんがそこにいた。
「はようございます」
と会釈する。
川本さん以外にも、7人の社員がいた。汚い円を作っている。川本さんは一番奥でだるそうに一人で立っていた。知ってる人もいないので、川本さんのそばへ。
木部さんが走ってやってきた。
「あぶねえ、間に合った」
とにっこり笑っている。
「木部え、お前ギリギリだぞ」
「すみません、川本さん」
そのとき、工場に音楽が流れ出した。
夏休みに良く聞いた、あの曲。
「ラジオ体操第一♩」
と元気なラジオ音が流れてくる。
久しぶりでも体は覚えているもので。
みんなだるそうながらも、体操をしている。体操を終えると、角張ったメガネをかけた、身長の高い男が話し始める。メガネの奥の目が、ぎょろりと爬虫類のように大きい。
「19号機、出荷数10、洗浄滞りなく。21号機、台帳4の3本目にタマ傷あり、修理送りになってます。今日の昼過ぎに印刷ずらします」
「げっ」
と木部さんが小声で言った。どうしたんだろう。何かあったのかな。爬虫類のような男の連絡事項は続く。
「、、、です。インク缶の出し間違い続いてます。インク倉庫の整理も進んでいません」
と爬虫類のような目が、ぎょろりと睨む。その視線のさきに、メガネの、小太りのおじさんがいた。へこへこと頭を下げている。
「では、タマ管理から、どうぞ」
と爬虫類顔の男は連絡事項を終える。今度は川本さんが口を開く。
「タマ管理、特にありません」
とだるそうに言った。
爬虫類の男が、再び口を開く。
「インク管理、どうぞ」
今度は、メガネの小太りのおじさんが、へこへこしながら口を開く。
「は、はい。インク缶だし間違いすみません。今後確認徹底します。はい、すみません」
「インク缶の倉庫の整理しろよ早く。だからミスるんだろうが」
と爬虫類顔の男の隣に立っている若い男が、口悪く言った。
「やめとけ」
と爬虫類が止めるが、本気で止めているという感じでもない。
「は、はい、すみません」
と小太りのおじさんが頭を下げた。
朝の連絡事項を終え、川本さんと木部さんとタマ管理のプレハブ小屋へ向かう。
川本さんのデスクが端にあった。部屋の半分を、パレットに乗ったタマが締めていた。
他の工場に発送する分らしい。
「また怒られてましたね」
と木部さんがにこにこと言った。
「インク管理の田辺な。あいつは使えねえぞ。山川もそろそろ切れるだろあれ」
と川本さんがデスクに座り
「はいよ、今日の予定表」
と紙を木部さんに渡した。
「いこう、堂本君」
と木部さんと自動倉庫へ向かう。
歩きながらに訊ねる。
「田辺さんって」
「あのメガネの太ったおっさん。インク缶の管理任されてるんだけど、全然ダメ。山川さん今日やばかったな」
「山川さんは、あの目がぎょろぎょろした?」
「そうそう。洗浄部門のリーダー。タマ管理も洗浄部門に組み込まれてる。インク管理も小さい部署で、一緒に組み込まれてるんだけど、そこ管理してる田辺さんがほんとだめだめ」
「へえ、大変っすね。木部さん、一回げって言ってましたけど」
「ああ、そうそう。山川さんが朝礼で21号機で使うタマにタマ傷が出たって言ってたじゃん。21号機ってのは印刷機械のことで、俺たちが出してるタマが21号機で印刷されてる。ってことは、昨日俺が自動倉庫から出したタマに、洗浄してるときに傷が見つかって修理行きになったってこと。すると印刷ができなくなるから、順番もそれのせいでずれた。じゃあどこでそのタマが傷いったかっていうと」
と木部さんはにっこり笑う。
「あ、昨日なら、ぼ、僕かもしれない」
「台帳4は俺一人で出したから、堂本くんのせいじゃないよ。俺の可能性が高い。でも、倉庫から出すとき以外でも傷がつく場面はあるから、一概に俺らのせいってわけでもないんだけど、まあ疑われるよね。あ、そうだ、もしパレット乗せるときとかにタマをぶつけたなって思ったら、すぐ川本さんに連絡ね。傷確認して、もし傷あったら修理ださないとまずいことになるから」
「は、はい」
簡単な仕事だと思ってたけど、ミスしたらまずいな。
「あと、山川さん怒ったらめちゃ怖いから」
「え、まじっすか」
「おれ一回めちゃ怒られたけど、目がぎょろっと睨んできて、山川さん口も回るからほんと怖かった」
あの目で間近に来られたら、泣く自信がある。
その日の午前は、木部さんと作業の確認をしながら予定表をこなしていく。
昼休憩を終える。
「俺、今から洗浄の方行かないと。午前の感じ見てたら大丈夫だと思うけど、わからないことあったら、また聞きにきて!」
と爽やかな笑顔で木部さんは第一洗浄の建物へ入っていった。
さて、緊張の独り立ちである。