方眼紙からずれた場所
日記はここで終っていた。何か大きな感情があるわけじゃない。叔父さんらしいな、と思っただけである。叔父さんはいつも飄々としていて、何を考えているかわからないようなところがあった。だからこそ、叔父さんらしいな、と思った。現実問題、これはいつもの放浪癖が発生したと思っていいのだろうか。ふと、そばの机に目がいった。真新しいノートがあった。開いてみる。
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世界の外へ
地球のある点を示すのに、緯度や経度を使う。場所を位置情報として考えたとき、私の体を方眼紙の線が貫いているのだろう。この地球上に、数字として表せない場所などない。おおざっぱに言えば、私は今、東経135度北緯35度の交わる線の上にいる。その数字から逃れることはできない。アメリカにいても、ロシアにいても、アフリカにいても、それは同じである。人が定めた単位のなか。そして、私はその単位のなかにしかいられない。と思っていました。
いや、もしかしたら、私が行ったその不思議な「場所」は、地球上のどこかなのかもしれません。はたまた、私の幻覚なのかもしれません。
しかし、私は思うのです。というより、思いたいのです。多分、いや、確かに、私は方眼紙の外へ行った、と。いや、方眼紙の線からずれた、と言った方が適切かもしれません。とにかく、私は、旅をしたのです。多くの人が私を狂人だと考えるでしょう。しかし、いつしか私と同じ「場所」へ行った人が現れて、その人が私の、今から書き残す旅の記録を読んでくれたならば、そのとき私が狂人ではなかったことが証明されるでしょう。私が旅の記録を書き残すことには、もう一つ理由があります。現代科学は絶対ではない、想像もつかないことが現実にあり得る、ということをみなさんに伝えたいのです。例え狂人と思われようとも、何人の方が私の記録を読んでくださるかわかりませんが、そのなかの一人でも、その人知を超えた「不思議」について、考えてくれたならば、それだけで私は嬉しいのです。
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ノートの文章はここで終っていた。日付的には日記の終わりから二日後に書かれた文章であるが、日記とは別のノートに書かれているところを見ると、新しい小説でも考えていたのだろうか。飽きっぽいので、出だしだけ考えて放置したのかもしれない。しかしまあ、母親になんて報告すればいいのか。
叔父さんのマンションを出た。
日が落ちるにはまだ早かった。母親もまだ仕事中だろう、とスマホをポケットにしまった。図書館に寄ってから帰ろう。叔父さんは図書館が好きだった。昔、叔父さんの部屋に図書館から借りてきた本が重ねられておいてあった。叔父さんに、読んだの、と訊ねると、
「本を選ぶのに時間をかける。そのときもう知的欲求が満たされているんだ。読むとなると億劫だね」
そのときまだまだ子どもだった僕には、億劫とか知的欲求とか難しいことばを使っている叔父さんがとても賢く見えたが、思い返せば、全くそんなことはなかった。叔父さんには似非インテリの才能があるのかもしれない。
叔父さんも、ふらっと図書館にでも行っているのだろう。そこで会えれば幸いだ。
結局、図書館に、叔父さんはいなかった。せっかく寄ったのだし、と本を借りた。そのとき、不意に便意が気になった。どうしてもしたいというほどでもなかったが、帰り道中に催してしまうとまずいと思ったので、図書館のトイレで済ませることにした。かばんをトイレの個室の扉についたフックにかけた。かばんには、読みもしないだろうさっき借りた本が10冊ほど入っていた。本の選別は入念に行うが、実は僕も借りた本をあまり読み切ったことがない。これじゃあ叔父さんと一緒である。この10冊は、必ず読もう。
僕は便座に腰掛け、スマホをいじりながら、きばる。
スマホの充電は、すぐに切れた。
僕は、排泄に集中した。肛門を開く。が、なかなかでない。なにか、膜のようなものが固いものにまとわりついて、肛門の出口を塞いでいるようだった。じとりと汗をかいていた。苛立が沸く。早く出し切って、さっさと家に帰ろう。ふん、っと再び力む。これまでにない開き具合であった。入り口が切れてしまうんじゃないか。そんな懸念が頭によぎった。そのときである。固いものが腹部から下におりてくる感覚がした。ここで肛門を閉じてしまうと、また元の木阿弥である。さらに力む。これでもか、と。肛門が、固いものに圧され、ぐわりと開いていく。僕は、頭を垂れ、充電の切れたスマホを強く握り、バレリーナのごとく足のつま先を地面にたて、力み続ける。力むと、血液が頭に集まっていく感覚がした。それは、何とも言えない気持ちよさがあった。
出る。
汚物が。
そのとき、みしりと頭上で音がした。
なんだ。
そこで、記憶がぷつりと切れた。




