日記②
10月18日
ちょっと散歩に出かけましょうか。
風は、生暖かいです。
曇っています。風が生暖かく、少しじめっとしています。長袖はもう熱いですね。
見慣れた景色です。生まれてからずうっと、この、丘の上にある、閑静な住宅地に住んでいます。
坂を上っていきます。いけどもいけども、同じような景色です。たまの空き地を挟んで、家、家、家。住宅地なので、静かです。
田畑が広がっている訳ではなく、高いビルや繁華街があるわけでもありません。ただ、なんの風情も統一感もない家の並びがあるだけです。町の端まで行くと、森に行き着きます。そこから先は、フェンスがあるので行けません。町の出口は、二つだけです。どちらも、急な坂道をおりていかなければなりません。なにか、町全体が要塞のようで、閉じ込められているような感覚を覚えたことがあります。ここから出たい。よく、そう思っていました。中学生、高校生になると、町の外へ行く機会が増えました。高校は町から離れた場所にありましたし、自転車やバスでの行動範囲が広くなったことも大きな理由です。外へ出る機会が増えたところで、何も変わりませんでした。退屈な地域です。もっと、さらに外へ行きたい、と思いました。大学生にもなると、今度は毎日都会に出ることになります。家から二時間かかりますが、通学でした。なぜでしょう、鼻から一人暮らしの選択はありませんでした。高いビルがいっぱいあります。満員電車に気圧されます。でも、別に大して面白いことがあるわけではありません。もっと、外へ行きたい。今度は、海外に行きました。初めて、家を出て、長期間生活します。念願の、外です。私は、自由に幅大河のです。家から遠い、遠い場所で、生活したのです。
でも、一ヶ月もすれば、海外の生活も慣れてしまいます。退屈、になります。今度は、それだけではありません。恋しいのです。町が、恋しいのです。なんででしょうね。あれだけ外に出たかったのに。帰りたくなりました。
それから、ずっとこの町にいます。お父さんとお母さんは、優しいです。
時折、家がなくなってしまえばいいのに、と思うことがあります。そうすれば、家を、町を出ざるおえないからです。どこまでも受け身ですね。自分で行動を起こしません。でも、乾くことなく、退屈なのです。ずうっと、人生を意味のないものだと考えて生きるのは、とてつもなく退屈です。
この話に、意味はありません。本当に、意味はないのです。
ということは、この文を読む意味もありません。明日になれば、下手すると五分もせずに忘れているでしょう。人生に、意味はありません。なにやったって、死んだら同じではないですか。生物学的にも意味はないでしょう。地球はいずれ滅ぶのだから、いや、滅ばないかもしれませんが、滅ばなかったとして、子孫が生きていて何の意味があるのでしょうか。働き蜂は、女王蜂につくします。それは、自分と近い遺伝子を残すのに、効率的であるかららしいです。大学の一般講義で賢そうな先生がそのようなことを言っていました。互恵的利他行動、という言葉も説明されていました。語呂が良いので覚えています。遺伝子の全く近くない相手、つまり他人に対して、親切な行動を取るのは、後々の見返りを求めての、打算的なものらしいのです。自分の中の遺伝子が、そう行動させている、というような説明であったと思います。間違っているかもしれません。でも、とにかく、遺伝子が行動決定に深く関わっており、遺伝子の入れ物として体がある、という説である、となんの説に対してかはわすれましたが、言っておりました。だからなんだと言いたいでしょうが、私もわかりません。ただ、今の遺伝子の説明に、意味はなかった、ということは、わかります。
脳を別物と見て、脳のせいにするのはやめましょう。
10月19日
コミュニケーションを通じて、相手の性格がわかります。こういう一面があるな、と。コミュニケーションは鏡、とはよく言ったもので、相手の性格のなかで、早いうちに気づくことができるのは、自分にもある要素であることが多いです。自分に似ている部分は、気づきやすいのですね。環境も時代もだいたい同じ場所で生きていますから、そりゃ似通った部分はどこかしらにあるはずなのです。ですが、それ以外にも、人間のアーキタイプのような、ある程度の時代的幅のなかであれば通ずる性格のようなものが、ある気がしてなりません。地球何十億の歴史と比べれば、文明を持ってたかがら数千年の人の歴史ですから。ですが、その擦り込まれる性格の組み合わせは無限にあると思うのです。なので、私はたまたま組み合わせが悪かったのかなと。テレビで活躍しているあの人にも、小説で賞を取っているあの人にも、甲子園で爽やかな笑顔のあの人にも、町を歩く女子高生にも、私の持つ要素と同じものが入っているはずなのです。もちろん、私とあなたも。だから、同じなのです。みんな。そういうことにしておきましょう。まあ、全然違うんですけどね。
10月20日
自分は特別だ、と怠惰のままに自分に嘘をつき続け、40年。つまりは努力への拒絶です。めんどくさいんです。
私は、平々凡々なんです。あらゆる努力を怠った、苦労から逃げた、平々凡々。最早平々凡々でもありません。屑です。
死ねばいいのに、と思う人はいるでしょう。しかし、そう簡単ではありません。なによりも、死ぬために伴う痛みに、恐怖しているのです。もちろん、伴う痛みに対してだけでなく、死ぬ、という結果に対しても、怖い、という認識をもっています。なぜ、死ぬ、という結果が、怖いのでしょう。
死ぬと、どうなるのでしょう。幽霊になるかもしれません。天国に行くかもしれません。はたまた地獄かも。もしかしたら、輪廻転生するかもしれません。ただ、消えるだけかもしれません。どちらにせよ、生前とは違い、死んだ存在、として、扱われることなるので、現世では会えないもの、となります。考えるのがめんどくさくなりました。どうせ、過去なり現在なりで、誰かがすでに考えついていることでしょう。私が考えることに意味はありませんし、私とういう平々凡々には、その先へ到達することなどできるはずがないでしょう。考えることに、意味はないのです。私には、その才能が、ないから。