10.君と、わたしと(9)
「――高知さん、大丈夫だった?」
聞くと、美桜は小さく首を左右に振った。そしてサチを見ると力なく笑って「殴られちゃった」と言った。
「えっ!」
「腫れが治まるの待ってたら、こんな遅くなっちゃって。ごめんね、先生」
「それはいいけど……。大丈夫?」
美桜は「どうかな」と足下に視線を落とした。
「自分の気持ちをね、正直に伝えたんだ。もうウソはつきたくないって。そしたら三奈、すごく泣いちゃって。よくわかんないんだけど、自分のこと責めるようなこと言い始めてさ」
サチは美桜の話を聞きながら、あの日の三奈の言葉を思い出していた。
ウソのない、まっすぐで正直な美桜が好きだと彼女は言っていた。そんな美桜がもうウソをつきたくないと言ったのだ。さぞショックだったことだろう。しかし、美桜にその気持ちは伝わっていない。
彼女は「よくわかんなくて」と続ける。
「とにかく宥めようと思って抱きしめたんだけど、突き飛ばされて殴られちゃった。汚いわたしに触らないでって、そんなこと泣きながら言って……」
美桜の横顔はとても悲しそうだった。彼女は深く息を吐いた。
「わたし、高校入ったばかりの頃ってちょっと周囲から浮いてたんです。愛想笑いとかできないし、ちょっとお喋りすると相手が不機嫌になったりするから友達作るのも苦手で……。そんなわたしを三奈は受け入れてくれた。わたしが何を言っても、どんな態度とっても、三奈は笑って美桜らしいって言ってくれる。三奈がいなかったら、わたしは学校を辞めてたかもしれない」
彼女は言葉を切ると、何か思い出しているのか少し目を細めた。
「――周囲からはさ、三奈はキツい性格だって思われてるけど、本当はすごく優しいってわたしは知ってる。三奈が友達で本当によかった。そう伝えたんです。三奈、わたしに嫌われたって勘違いしてるみたいだったから」
「うん。そうしたら?」
訊ねると、美桜はサチを見て悲しそうに笑った。
「部屋に閉じこもって、出てこなくなっちゃった」
そのとき、ナナキがゆっくりとUターンをして元来た道を戻り始めた。完全に散歩コースを把握しているのだろう。
サチはUターンした場所を振り返りながら「高知さんのおかげで、わたしは御影さんに会えたんだね」と呟く。美桜は不思議そうにその場所を振り返り、そして「ああ、ここ」と微笑んだ。
「お人好しの先生が泣きそうな顔しながら助けに来てくれた場所だ」
「ナナキちゃんの散歩、休憩してるだけだったよね」
サチと美桜は笑い合う。そして美桜は深く息を吐き出して「また、話してみます。ちゃんとわかってもらえるように」と言った。
「うん……。大丈夫だよ。高知さんは御影さんのこと大好きだから」
三奈の気持ちをサチが伝えるのは違っているような気がして、サチはそれだけを伝えた。美桜は力なく笑って頷く。サチも頷き、そしてなんとなく空を見上げる。
「――これから、どうなるかな。わたしたち」
呟いた先に広がる空は雲一つない。自分たちの未来もこうだったらいいのにとサチは思う。
「とりあえず一緒に住んじゃいますか」
「それは、まだちょっと」
真面目な口調で答えると美桜は不満そうに「もう似たようなもんなのに」と言った。
「もう少し、わたしがちゃんと自立できるまで待って?」
「えー。先生、ポンコツ脱却できるんですか?」
サチは答えず、ただ微笑みながら美桜の隣をゆっくり歩く。
これからどうするべきだろう。
美桜と一緒に生きていくには、何をするべきだろう。
仕事、親、世間の目。きっと他にも色々と乗り越えなくてはいけないことがたくさんある。
美桜を傷つけたくない。そのためには何ができるだろう。
考えながら夕日に向かって歩く。
のんびりゆっくり歩くナナキは、やがてアパートの敷地内に入って自分の家へと向かった。そしてフェンスの中に入ってドスンとマットの上に座り込むと、美桜が皿に入れてやったドックフードを勢いよくガツガツと食べ始める。
「元気だね、ナナキちゃん」
声をかけながら様子を眺めていると「先生」と美桜の声がした。振り返ると、彼女はサチがうたた寝していた場所に腰を下ろし、真面目な表情で隣をポンポンと叩いた。サチは素直に彼女の隣に腰を下ろす。
「どうしたの?」
サチが訊ねると、美桜は「さっき、先生言ったでしょ」と前方に広がる緑の絨毯を見つめながら言った。
「これからわたしたち、どうなるのかなって」
「うん」
「わたしは、これからずっとずっと先生と一緒に生きていくんだって思ってた。先生は違うの?」
美桜の不安そうな瞳がサチを捉える。サチは彼女に微笑みかけると「一緒だよ」と顔を近づけて額をくっつけた。美桜の額は少しひんやりとしていた。
「来年も、再来年も……。ううん。何十年先だって御影さんと一緒にいたい」
「――だけど?」
美桜は言って額を離した。
「え?」
「さっき考えてたんでしょ? 先生が黙っちゃうときは、だいたい何か余計なこと考えてるとき」
「お見通しだね、御影さんは」
サチはため息を吐く。美桜は笑って「何考えてたの?」と首を傾げた。
「あの、ね」
「うん」
「……本当に、いいの?」
何が、とは彼女は聞かなかった。美桜は微笑んで「いいよ」と頷く。
「わたしは先生と一緒に生きていきたい」
サチはその純粋でまっすぐな気持ちを受け止めながら「でも」と目を伏せる。
「辛いこと、いっぱいあるよ? 苦しいことだって……。きっと普通の人生を送るよりも何倍もたくさん」
「普通の人生って、何?」
「え……」
サチが言葉を失っていると、美桜はニコリと柔らかく笑みを浮かべて「わたしには、これが普通の人生だよ」とサチの身体を抱きしめた。
「生きてれば誰にだって辛いことも苦しいこともあるでしょ。どれが普通かなんて、そんなのわかんないじゃん」
「御影さん……」
美桜は身体を離すとサチを見つめながら「それに」と続ける。
「先生と一緒なら平気」
柔らかで穏やかで、安心できる声だった。
「うん。そっか……。そうだね」
――何があっても、二人なら平気。
美桜はニコッと笑みを深めると、安心したようにアパートの壁に背をつけて田園地帯へ視線を向けた。サチも美桜が見ている方へ視線を向ける。
左手に美桜の手が触れた。
その指に、サチは自分の指を絡めて手を繋ぐ。
カランと音が響いた。どうやらナナキがご飯を食べ終えたようだ。それでも二人は動かない。ただ並んで手を繋ぎ、広がる緑の絨毯を眺め続ける。
「……まずは、ちゃんと仕事探そうかな」
しばらくして、サチは考えながら言った。
「辞めちゃうの? 先生」
「まあ、もともと一年契約だし。次があるかわからないからね。それに御影さんのご両親に挨拶するときとか、不安定な職だと格好つかないし……」
美桜は声を出して笑った。
「ママ、先生のこと気に入ってるから大丈夫だよ」
「いや、それは担任だからでしょ? それにお父さんのことは知らないし」
「平気だと思うけど。うちの親、理解はあるから」
「んー。あと、教師をしてるといつまでも御影さんがわたしのこと先生って呼び続けそうだから」
横目で見ると美桜はフフッと笑みを浮かべていた。
「先生だって、わたしのこと御影さんって呼んでるじゃん」
「御影さんが先生って呼ぶからだもん」
サチが言うと、美桜は寄りかかるようにサチに身体を寄せてきた。そしてコツンと頭をくっつける。
「好きだよ、サチ」
「知ってる」
「……期待してた言葉じゃない」
サチは笑って「わたしも好きだよ、美桜」と彼女に囁く。美桜はくすぐったそうに笑った。
そして二人は無言のまま、沈み始めた太陽に照らされた田園地帯を眺めていた。
互いの手は、しっかりと握ったまま。
――ずっと一緒にいよう。
サチはギュッと彼女の手を握りながら思う。美桜も強く手を握り返してくる。そして二人で視線を合わせて微笑み合う。
――これから何があっても、ずっと一緒にいよう。
緑と水の気配を含んだ優しい風が、二人を包み込むように吹いては去っていく。
サチと美桜はどちらからともなく近づき、そっとキスをした。
――美桜と、わたしと。ずっと一緒に。
完




