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10.君と、わたしと(8)

 ――せい。大丈夫?


 少女の声が聞こえる。透き通った、綺麗な声。愛しい声。


「ん……」


 心地良い眠りから覚めたくなくて、サチは眉を寄せる。


「先生ってば」


 再び聞こえた声に、サチは名残惜しさを感じながら重い瞼を上げた。ぼんやりとした視界には、腰を屈めて心配そうにこちらを覗き込む少女の姿。


「あ、起きた」


 彼女は困惑したように「なんでこんなとこで寝てるんですか?」と首を傾げた。サチはそんな彼女に手を伸ばすと頬に触れる。柔らかくて、温かい。


「本物?」


 呟くと、彼女は「当たり前じゃん」と笑った。夢の中と、同じ笑顔で。

 サチはしばらくぼんやりと彼女の笑顔に見惚れていたが、次第に意識がはっきりとしてきて「あれ、寝てた?」と瞬きをして目を擦った。


「ぐっすり寝てましたね」

「あ、御影さんだ」

「まだ寝ぼけてるんですか?」

「うん。まだ夢見てる感じがする」


 すると彼女は困ったように笑って、頬に触れていたサチの手に自分の手を重ねた。


「ほら、現実ですよ」

「うん」


 手にあたる体温や感触は確かに夢ではない。それでもサチが動かずにじっと彼女を見つめていると、美桜は「先生」と首を傾げた。


「いつまでこのまま?」

「んー、ずっと?」


 サチが答えると美桜は「ダメ。おしまい」とサチの手を頬から放した。

残念に思いながら、サチはスマホで時間を確認する。さっきよりも陽が陰っていると思ったら、すでに十八時前になっていた。


「先生、いつからここに?」


 美桜がサチの隣に置いているペットボトルに視線を向けながら言った。まだ開けていないペットボトルには大量の水滴が付いている。きっともうぬるくなっているだろう。


「二時間くらい前かな」


 ペットボトルを見ながら答えると「え……」と驚いたような声を上げた。


「二時間も寝てたの? ここで?」

「……そうみたい」

「もー、何やってんの、先生」


 美桜はため息を吐いて「熱中症になりますよ?」と怒ったような口調で言った。


「大丈夫だよ。影だったし、風もあって涼しかったし。それに水分だって用意してたし」

「飲んでないじゃん」

「そうだけど」


 サチは苦笑する。美桜は呆れたように「嫌ですからね。帰ったら先生が倒れてた、なんて」と言いながら立ち上がった。ごめん、とサチは謝ってから「でも」と美桜に笑みを向ける。


「ここにいれば、御影さんが帰ったらすぐに会えると思ったから」


 美桜は息を吐くようにして笑う。そして「寝てたくせに」とボソリと言ってサチに手を差し伸べた。サチは返す言葉もなく、笑って誤魔化しながら「そうだけど」と彼女の手を撮って立ち上がる。


「起きて一番最初に御影さんに会えた」


 サチは言って、彼女の手を胸元で握ると美桜に笑みを向ける。


「おかえり、御影さん」


 すると美桜は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑ってくれた。嬉しそうに、少し恥ずかしそうに。


「ただいま、先生」


 そのとき、フゥンと声がしてサチと美桜は同時にナナキへ視線を向ける。いつの間にか起きていたナナキは、身体を少し起こしてパタパタと尻尾を振っていた。サチは美桜と顔を見合わせると声を出して笑う。


「行こうか、ナナキちゃんの散歩」

「うん。でもその前に先生は水分補給すること」

「はーい」


 サチは素直にぬるくなってしまったスポーツドリンクを飲む。そして、ナナキにハーネスをとりつける美桜の姿を見ながら、小屋の上に置かれてあったバッグを持った。


「……なんでトイレグッズのバッグを持って嬉しそうなの?」


 ハーネスを取り付け終えた美桜がサチを見て首を傾げた。サチは「だって」と微笑む。


「嬉しいから。御影さんとまたこうしてナナキちゃんの散歩に行けるの」

「――そっか」


 美桜は笑顔で頷くと、ナナキの頭を撫でてから「行くよ、ナナキ。せーの!」と声をかけてその身体を持ち上げた。

 ナナキの歩くスピードは以前と変わらず、とてものんびりしていた。それに合わせて歩くサチと美桜も、自然とのんびり並んで歩く。昼間とは違うセミたちの声が夕暮れを知らせていた。


「……話してきたんですか?」


 しばらく無言で歩いていた美桜が、ナナキの様子を見るように視線を落としながら言った。


「うん」


 サチは頷き、足下を見つめる。歩く先のアスファルトにはサチの影が伸びていた。それを追いかけるように歩きながら「わたしね」と続ける。


「瑞穂のこと、好きなんだ」

「え……」


 美桜がショックを受けたような表情でサチを見てきた。サチは苦笑して「でも、その好きは瑞穂がわたしに抱いてくれてる好きとは違うもので」と息を吐いた。その瞬間、美桜の表情は和らいだ。

 彼女は再びナナキへ視線を向ける。ナナキは嬉しそうに息を切らせながらも、のんびりと歩き続けている。


「だから、また友達になりたいって言ったの。前みたいに友達として、そばにいて欲しいって」

「……それで松池先生は、友達になってくれるって言ったんでしょ?」


 美桜が言う。サチは彼女の横顔を見て首を傾げた。


「なんでわかるの?」


 すると彼女は「わかりますよ」と息を吐くようにして笑った。そしてサチへ視線を向ける。


「だって、わたしだったらそうするもん。先生のそばにいられるのなら友達でもいい。先生がわたしのこと好きじゃなくても先生の笑顔が見られるのなら、それだけで幸せ」


 サチは恥ずかしくなって視線を逸らし、前方を見る。車が一台走ってくるのが見えて、サチは数歩下がって美桜の後ろについた。


「先生は違うの?」


 車がゆっくり通り過ぎていった。サチは「わたしは……」と考えながら再び美桜の隣を歩く。


「きっと逃げると思う」

「逃げる?」

「うん。だってそんなの、辛くてしんどくて、そして寂しいと思うから。だから瑞穂がまた友達になってくれるって言ったとき、びっくりして、嬉しくて、そして――」

「そして?」

「とても愛しく思えちゃって」


 美桜がぴたりと立ち止まった。ナナキも立ち止まり、不思議そうに美桜を見上げる。彼女は少し頬を膨らませてサチを見ていた。


「わたしだって、松池先生の立場だったら同じことするよ?」


 サチは思わず笑ってしまう。すると美桜はさらに不満そうに「なんで笑うんですか」と言った。


「うん、ごめん。御影さんが可愛いから、つい」

「……もう」


 美桜は息を吐くと、再び歩き出す。サチは笑みを浮かべたまま「でも、だからさ」と続ける。


「瑞穂には誰よりも幸せになってほしいなって、そう思ったの」

「……そうですね」


 美桜は頷き、そして立ち止まる。今度はナナキの方が足を止めたようだ。


「あ、トイレ?」

「うん、そうみたい。先生」

「了解」


 サチは素早く新聞紙を取り出して地面に敷く。


「やっぱり先生だと安心する。三奈、騒いでばっかりで全然手伝ってくれなかったもん。犬がね、苦手なんだって」


 ナナキを見つめながら美桜は言った。サチはナナキのトイレが終わるのを待ってから手早く新聞紙を片付ける。ナナキはすっきりした様子で再び歩き出した。

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