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2.変化、始まる新生活(4)

「……そうですね。友達もいますし、無断欠席することもないです。学校生活に問題はなさそうですが、気になることがおありですか?」

「ああ、いえ。問題ないのならいいんです」

「あ、でも遅刻がちょっと多いですね。あと成績も、ちゃんと勉強すればもっと上位を狙えると思うんですけど」


 少し冗談めかして言ったつもりだったが、真澄は何も反応を示さなかった。真面目な表情で湯飲みを見つめているだけだ。一気に気まずい空気になってしまった。


「えっと、あの……」

「――あの子は今まで反抗期らしい反抗期もなくて、我が儘も言わない、本当に手のかからない子なんです」


 ポツリと、彼女は言った。サチは無言で頷く。


「ただ、聞き分けが良すぎてあまりわたしや夫に甘えてこないというか。何を言っても、わたしたちの意見を尊重してくれるんです。怒ることもなくて、それが逆に心配というか」


 サチは再び頷いた。それはきっと親にとっては心配だろう。サチだってそうだ。生徒がサチの言葉に対して何も反応を示さなかった時などは心配になってしまう。この子の心は果たして健康だろうか、と。


「あの、彼女がここで一人暮らしをしているのには理由が?」

「一応、ナナキの世話をするためということになっています」

「ナナキちゃんの」

「ええ。ここに住んでいたうちの母が今年の二月に病気で亡くなったんですが、ナナキの世話とこの物件をどうするのかということで夫とケンカになってしまいまして。とくにナナキはあの通り、手がかかってしまいますから。そうしたら建物の現場管理とナナキの世話は自分がやるとあの子から言い出して、それで」

「一人暮らしを……?」


 真澄は頷いた。


「もちろん、わたしも頻繁にこちらに顔を出すようにしてますし、会うたびにあの子は笑みを浮かべて迎えてくれます。でも実際のところ、こういう環境をどう思っているのかわからなくて。やはり寂しかったのでしょうか」


 ああ、なるほど。とサチは思った。彼女は娘の気持ちを察することができなかったのではないかと悩んでいるのか。本当は一人で寂しいのに言い出せず、寂しかったからサチをこのアパートに呼び込んだのではないか、と。

 美桜の言うとおり彼女は良い母親だ。子供の気持ちを、まず第一に考えようとしているのだから。


「わたしは臨時教員ですし、今までの職業だって教職じゃなかったのであまり偉そうなことは言えないですけど」


 真澄はそれでもサチの言葉に耳を傾けてくれているようだ。サチは続ける。


「子供の気持ちがわからないというのは当たり前のことだと思います。気持ちがわからなくて不安だっていうのも、当然のことかと」


 真澄は僅かに目を大きくした。


「だって、自分の子供といっても一人の人間ですから。自分とは別の、言ってみれば他人なんです。それも彼女はもう十七歳。自分で自分の感情をコントロールし、自分が何をすべきか考えることができる……。いえ、考えなければならない年頃なんじゃないかと、わたしは思います。だから、お母さんが娘さんの気持ちを考えながらも自分の気持ちを押しつけないという今の環境は、きっとあの子にとっては大人へと成長できる、良い環境じゃないかと思うんです。だから――」


 サチは少し言葉に迷ってから「つかず離れず、不安になりながら心配になりながらも見守り続けてあげてほしいと思います」と続けた。


「つかず離れず、不安にも心配にもなりながら、ですか」

「まあ、それが一番難しいとは思いますが」

「そうですね」


 真澄は微笑む。その笑みが、少し美桜に似ていた。彼女はふうと息を吐くと「なんだか納得しました」と言った。


「え?」

「いえね、先ほども申しましたけど、あの子はまったく我が儘を言わない手のかからない子なんです。なのに昨夜、いきなり電話があったと思ったら、担任の先生が困ってるから部屋を貸してあげたいって」


 フフッと真澄は笑う。


「え、昨日の夜に?」


 しかし彼女は今日、母親に聞いてみると言っていたはずだ。もし、サチが申し出を断ったらどうするつもりだったのだろう。思わずサチは苦笑する。真澄は微笑みながら続けた。


「あの子がお願い事をしてくること自体が珍しいのに、家賃は安くしてあげたい、明日から部屋を貸してあげたいって言ってきかなくて。今日の朝には、もっと家賃安くできないかって一生懸命で」

「――すみません」


 サチは身を小さくして誤った。


「いいえ、謝ることじゃないですよ。だって、あの子が親を困らせてでもそうしてあげたいって思えるような人だってことですから、先生は」

「そんな、わたしは」

「先生は生徒のことをちゃんと考えてくれる、良い先生です」


 真澄はまっすぐにサチを見つめながら言った。サチはどう答えたらいいのかわからず、ただ俯いてしまう。さっきの言葉で彼女がサチのことを良い先生だと感じたのだとしたらそれは違う。だってあれは願望なのだから。サチが、親にそうしてほしかったという願望。


「ただいまー」


 玄関から聞こえた声にサチと真澄は同時に振り返った。


「ナナキ、どうだった?」

「うん。やっぱりトイレだったよ」


 美桜は言いながら洗面所で手を洗って戻ってくると「契約終わった?」とサチと真澄を交互に見た。


「ええ。今日も先生に泊まってもらうつもりなら、ちゃんと部屋の掃除しなさいよ」

「え、綺麗じゃん?」

「ビールは捨てなさいって言ったわよね?」

「もうないよ。先生が呑んだのでなくなった」

「じゃあ、いいけど」


 真澄は頷くとクリアファイルをバッグに入れて立ち上がった。サチもその場に立ち上がったが、すぐに真澄が「あ、大丈夫です。そのままで」と言う。


「ママ帰るけど、先生から住民票もらったらすぐに連絡してね?」

「はいはい」

「あと、何か必要なものがあったら言いなさい?」

「わたしは今のところ――」

「先生の部屋で不備があったらってこと」

「ああ、なるほど。了解」

「それじゃ、先生」


 真澄は玄関で靴を履いてから振り返った。そしてサチに向かって深く頭を下げる。


「娘のこと、よろしくお願いします」

「あ、えと、あの、こちらこそ、よろしくお願いします」


 慌ててサチも深く頭を下げる。


「なにこれ」


 美桜の呆れ声が聞こえたので頭を上げると、彼女は怪訝そうに眉を寄せていた。


「わたしがいない間、なに話してたの?」

「いいから、あんたは先生に迷惑かけないように気をつけてね」

「……わかった」


 美桜の返事に真澄は頷くと、もう一度サチに向かって一礼して帰って行った。


「――何を話してたの?」


 玄関のドアが閉まるのを待ってから美桜が静かに聞く。


「別に、普通の雑談だよ」

「本当に?」

「良いお母さんだね」

「やっぱり何か話したでしょ? じゃなきゃ、あんな結婚を許した親みたいな言葉言わないでしょ。普通」

「結婚を許したって……」


 サチは苦笑しながら三人分の湯飲みをシンクに運んでいく。美桜は深くため息を吐くと「コーヒー、淹れましょうか」とケトルのスイッチを入れた。


「引っ越し祝いにコーヒーで乾杯といきましょう」

「完全な引っ越しは明日だと思うけど」

「いいから。あ、このマグカップ先生にあげるよ。わたしと色違い」


 言って戸棚から取り出したのは、モノクロの市松模様のマグカップ。美桜のカップは赤と白の市松模様だった。彼女は棚の食器を眺めながら「先生にあげるやつ、選別しなきゃなぁ」と呟く。そして「あとで一緒に選ぼうね、先生」と屈託のない笑みを向けてきた。その笑顔になんとなくホッとしながら、サチは頷いた。


「あの、コーヒー淹れてもらってる間に着替えてもいいかな? 部屋着に」

「どうぞどうぞ。ポンコツ先生に戻ってください」

「だから、ポンコツじゃないってば」


 苦笑しながらサチはキャリーバッグから部屋着を取り出して着替えることにした。


 コーヒーを飲んで休憩した後、サチは美桜が譲ってくれるという食器類を選んでいた。一人暮らしにしては食器が多い。そう言うと、彼女は「おばあちゃんが溜め込んでたからね」とため息交じりに言った。


「近所の人にもらったり、アパートの人が引っ越していくときにもらったりでどんどん増えたみたいで、もう棚がギリギリだったんだ。地震きたら大惨事だよ」

「そうなんだ。でも、可愛い食器が多いよね」

「まあね。これでも気に入らないものは捨ててたらしいから」

「へえ」


 美桜からはたくさん持って行けと言われたが、サチは自分の分と予備でもう一人分の食器だけもらうことにした。


「あと必要なのは……。あ、鍋とフライパンも使ってないのあるから持って行ってください」

「いいの?」

「いいの、いいの」


 食器を洗うサチの横で美桜はキッチン下の扉を開けてフライパンと鍋をガシャガシャと取り出した。


「これも、使うときはちゃんと洗ったほうがいいですよ」

「うん」


 素直に頷いてサチはフライパンに手を伸ばす。その様子を見ながら美桜は「てか、先生さ、炊飯ジャーとか電子レンジも必要じゃない?」と言った。その言葉に思わずサチは手を止める。


「家電……」


 たしかにその通りだ。炊飯ジャーと電子レンジは必需品だろう。あと、できればトースターも欲しい。掃除機も。それから……。


「あ、洗濯機もない」

「それはうちの使えばいいですよ。外置きだからさ。うちと先生の部屋の間に置いてるやつ。洗剤も使ってもらっていいし」

「それはありがたいけど……。じゃ、洗剤とかは今後わたしが買うからね」

「まあ、それはどっちでもいいけど。さすがに電子レンジとかは外に置けないしなぁ。いちいち、何か温めるために部屋移動するのもめんどくさいでしょ?」

「そうだね……」


 普通、そういうものはどのくらいの値段なのだろう。そんなに高くないものなら買えると思うが……。


「ホームセンターとか安そうですよね。よくわかんないけど、自社ブランドみたいな感じで」

「たしかに」


 サチは真面目な顔で頷くと美桜に「この近くにあるの? お店」と聞いた。美桜は少し考えてから頷く。


「近いって言っても、車で二十分くらいだけど」


 サチはスマホで時刻を確認する。時間は十六時前だ。


「今から行きます?」


 美桜の言葉にサチは頷いた。


「今日買って帰れば、明日は置くだけですむし」

「じゃ、行きましょっか。ナナキの夕方の散歩にはまだ時間もあるし」

「あ、何時から? ナナキちゃんの散歩」

「六時くらいです」

「わかった。それまでには戻ろう」

「先生、優柔そうだからなぁ。戻れるかなぁ」

「戻るってば」


 美桜は笑うと、上着を羽織って玄関へ向かった。

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