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10.君と、わたしと(3)

 サチが風呂から上がると、美桜はテーブルの前に座ってぼんやりとスマホを見ていた。


「……御影さん?」


 声をかけると彼女はハッとしたように顔を上げて「先生、早風呂だね」と力なく笑った。サチは髪をタオルで拭きながら彼女の隣に腰を下ろす。


「スマホ、電源入れたんだね」


 すると美桜は不思議そうに首を傾げた。サチは笑って「御影さん探すとき、電話かけたのに全然繋がらなくて焦っちゃった」と笑う。


「え……。あ、そういえばどうしてあそこにいるって」

「カエルの声」

「え?」

「電話でね、聞こえてたの。カエルの声。だからきっとアパートの近くにいると思って」


 サチは言ってから「まあ、でも」と苦笑する。


「見当違いのところを散々探し回った後だったんだけどね」


 美桜は微笑むと「すごいね、先生」と言った。


「名推理じゃん」


 そして彼女はスマホに視線を落とす。


「……あのときね、何もかもなくなっちゃえば楽になるんじゃないかって、そんなこと思っちゃって。気づいたら電源切ってたの。意味ないのにね。スマホの電源落としたところで何かがなくなるわけじゃない。連絡手段が消えるだけで、アパートに帰れば隣の部屋には先生がいるし、学校に行けば三奈がいる。松池先生だっている。何も変わらない。苦しい気持ちは、ずっと続くのに」


 サチは美桜の横顔を見つめながら「だから、ずっとあの場所に?」と聞く。美桜はスマホを見つめたまま「そうかも」と呟く。


「――わたしが三奈と付き合えば、先生のこと守ってあげられる。先生はきっと、そのうち誰か別の人を好きになって幸せになれるって、そう思ってたのに……。でも、先生が松池先生と並んで歩いてるの見るとなんかすごく腹が立って、付き合ってるって聞いたときはすごく嫌だった。勝手だよね。そうなればいいと思ってたはずなのに、実際そうなると嫌だなんて。わたしが嫌いだって言ってた人間に、気づいたらわたし自身がなってたの。最低だ」

「御影さん……」


 美桜はため息を吐いて続ける。


「それでも先生が幸せならいいって思ったけど、先生は松池先生といても辛そうな笑顔で、そんな先生を見てる松池先生も辛そうで……。三奈だって、わたしといるときはムリにはしゃいでるけど、時々すごく悲しそうな顔でわたしのこと見てる。みんな、わたしが間違った選択をしたせいで傷ついてるんだって、そう思ったらさ、もう、わたしなんかいない方がいいんじゃないかって……」


 サチはスマホを握る美桜の手にそっと自分の手を重ねた。美桜の瞳がサチに向けられる。サチは「そんなことないよ」と微笑んだ。


「わたしは御影さんがいないとダメだからね」


 美桜が目を丸くする。


「御影さんのおかげで、わたしは初めて人を好きなることができたんだから」

「でも先生、彼氏いたじゃん」

「いたけど、こんな感情は知らなかった。御影さんがいなきゃ、きっとずっと知らないままだった。御影さんがいたから知ることができたの」


 美桜は一瞬の間を置いて吹き出すように笑った。


「先生、もしかしてわたしが初恋?」

「かもしれない」

「遅いよ。それは」

「御影さんの初恋は?」

「わたしは……」


 美桜は言葉を切ると、少し考えてからはにかむように笑った。


「先生かな」


 彼女はスマホをテーブルに置き、サチの首に腕を回して抱きついてきた。


「でもわたしはまだ十七だからね。初恋もセーフの年齢」

「そうだね」


 サチは彼女の温かな身体を抱きしめながら「でもね。わたしは二十七だよ?」と押し殺した声で言う。


「御影さんより十歳も上だし、それなのに恋愛感情もよくわからなかったポンコツだし、仕事だって続かなくて、それに、女だし――」

「先生?」

「御影さんはまだ高校生で、これから色々たくさん将来の選択肢もあって、きっと色んな人に出会って、いろんな経験をして――」

「先生」


 美桜が少し身体を離してサチの顔を正面から見た。彼女は優しく微笑んで「全部、先生と一緒がいい」と言った。


「え……?」

「将来どんな道を選んでも、新しい人間関係ができたりとか、まだ経験したことのないことに出会ったときも、全部そこには先生がいて欲しい。わたしの人生に、ずっと先生がいてほしい」

「御影さん、でも――」

「年齢とか性別とか、そういうのはどうだっていいよ。わたしは先生がいい。世間がどうこう言ってきたら、わたしが先生を守るよ。今度は絶対に間違えない。離れない。ずっとずっと先生のそばにいるから。だから――」

「御影さ――」


 美桜の顔が近づき、サチの言葉は柔らかな感触によって遮られた。そっと唇を離した美桜はまっすぐにサチのことを見つめて「先生の全部、わたしにちょうだい?」とサチに体重を預けてきた。バランスを崩して、サチは仰向けに倒れる。


「御影さん、待って」

「やだ」


 美桜は子供のような口調で言うとサチにキスをする。


 最初は軽く。そして少しずつ深く。


 感じる彼女の吐息は熱くて、サチの頬に触れる指は少し冷たい。美桜はキスをしながら、サチのTシャツの中に手を入れて優しく肌に触れてくる。


「――っ御影さん」


 僅かな唇の隙間からサチは彼女の名を呼ぶ。すると美桜は唇を離し、サチを組み敷くようにして見下ろしてきた。目の前に迫った美桜の瞳は、不安そうに潤んでいる。


「今までわたしじゃない誰かが先生の身体に触れてたのが許せない」


 美桜の唇が頬に触れる。だから、と彼女はサチの額に自分の額をくっつけながら続ける。


「今、この瞬間から先生の全部をわたしのものにしたい。そう思ってるのはわたしだけなの?」


 悲しそうな表情。まっすぐな気持ち。


「御影さん……」


 まっすぐサチに感情を伝えてくる彼女は新鮮で、そして少し不安になる。それはきっとサチが美桜よりも長く生きているから。

 彼女よりも色々なことを経験し、純粋さを失っているから。だから美桜のこの純粋さが少し不安になる。何かのきっかけでサチに向けられたこの感情がスッと消えてしまうのではないか、と。

 もしそうなったら――。


「余計なこと考えないでよ。わたしは、今の先生の気持ちが知りたいのに」


 まるでサチの気持ちを見透かしたような美桜の言葉。


 ――それでもいい。


 サチは笑って美桜の頬を両手で挟むと、そっと引き寄せてキスをする。


「大好き、美桜」


 耳元で囁くと、美桜の顔が一気に紅潮したのがわかった。そして硬直してしまった。のしかかっている美桜の背中に手をやりながら「御影さん?」と呼んでみる。


「やだ」


 耳元で美桜が言った。


「もう一回、呼んで? 名前で」


 サチは思わず微笑む。そして「美桜」と彼女の名を呼んだ。


「大好きだよ、美桜」


 すると美桜はくすぐったそうに笑って「わたしも大好き。サチ」と囁く。そして二人で見つめ合ってキスをする。


 長く、深いキスを。


 柔らかな彼女の唇は心地良く、触れ合った唇の隙間から漏れる吐息は熱くて、その吐息すらも逃したくなくて隙間を再び唇で塞ぐ。肌に触れる美桜の手は優しくて、けれども少し不安そうで、それすらも愛しい。

 肌に触れるたびに漏れる彼女の吐息をもっと感じたくて、サチは美桜にキスを降らす。唇に、頬に、手に、そして全身に。


 彼女の全てを自分のものにしたい。ずっと欲しかった彼女の全てを。


 美桜も同じ事を思ってくれている。そう考えると嬉しくて、のぼせてしまったように頭はクラクラして、ただ彼女を放したくなくて抱きしめる。

 ときどき目を合わせては、はにかむように笑って唇を合わせる。そして存在を確かめ合うように身体に触れ、温もりを感じて互いの香りに包まれた。


 ――大好き。


 目が合うたびに美桜の声が聞こえる気がして、サチの心は一気に幸せが満ちて溢れてしまいそうだった。





「――先生」


 真っ暗な部屋。布団の中で美桜を片手で抱きしめたままウトウトとしていると、囁くような声がした。


「ん……?」

「明日ね、三奈と話してくる」


 美桜の手が、彼女を抱きしめていたサチの腕に触れる。サチは彼女の手を握って「うん」と頷いた。


「ちゃんと、話してくるから」

「わたしも松池先生と話してくる」

「うん」


 ギュッと手が握り返される。


「それで明日の夕方はさ、一緒にナナキの散歩行こうね」

「うん、二人でね」


 サチの言葉に美桜は頷き、そして顔をサチの胸に寄せてきた。美桜の部屋で一緒に眠ったときのように。


「おやすみ、先生」

「うん。おやすみ、御影さん」


 身体を寄せ合い、手を繋いだままサチは考える。


 これからのことに不安がないと言えばウソになる。もし何かあっても、美桜のことだけは守らなければと思う。

 しかし、どうやって? 自分に守ることができるだろうか。


「――先生」


 寝言だろう。美桜は小さく唸って身体をサチにピッタリくっつけてきた。サチは空いている手で美桜の髪をそっと撫でてやる。


 ――余計なこと考えないでよ。


 美桜の言葉が蘇る。


「うん、そうだね」


 サチは小さく呟いて目を閉じた。触れ合った肌から伝わる美桜の体温に、ウトウトしていた意識は心地よく幸せな眠りの中へと吸い込まれていった。


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