10.君と、わたしと(2)
車を駐車場に停め、二人は手を繋いでアパートまでゆっくり歩く。そして美桜の部屋の前で立ち止まった。繋いだ美桜の手に力が入る。
「御影さん?」
美桜へ視線を向けると、彼女は訴えるような表情で「先生の部屋、行ってもいい?」と言った。
「でも、着替えとか――」
「先生の貸してよ」
美桜は両手でサチの手を握った。そして少し顔を俯かせる。
「うち、ママがまだいるかもしれないし」
サチは美桜の部屋のドアに視線を向ける。ドアの横にある小さな窓に明かりはない。駐車場にも車はなかった。きっと、真澄はもう帰っているだろう。そのことは美桜だってわかっているはずだ。
サチは美桜へ視線を戻す。彼女は不安そうな表情でサチのことを見ていた。
「うん。わかった」
答えたサチの言葉に、美桜は安堵したように微笑む。そしてサチの部屋の玄関に入って「あ……」と立ち止まった。
「どうしたの?」
「先生の部屋、汚しちゃいそうで。靴の中まで濡れてるから」
困ったように言う美桜にサチは笑って「待ってて」と声をかけると先に部屋に上がり、バスマットを玄関に敷いてタオルを渡す。美桜は礼を言ってバスマットの上に足を乗せた。
「服はとりあえずコレに着替えて。お風呂、すぐに入れるからね」
サチは言って寝間着にしているTシャツと短パンを美桜に渡すと、自分は濡れた服のまま着替えを持って浴室に向かった。
風呂の準備をして脱衣所で服を着替える。そして戻ってみると、美桜の姿は玄関にはなかった。濡れた服は畳まれてバスマットの上に置かれている。
視線を部屋の方へ向けると、窓の近くに美桜の姿があった。彼女はそこに置かれているサボテンの鉢を眺めているようだった。
「御影さん?」
声をかけると美桜は少しだけ振り返り、そしてサボテンに視線を戻す。
「枯れてないですね」
「枯らすわけないじゃない」
サチは言いながら彼女に近づく。
「大切にするって、言ったでしょ」
「うん」
美桜は頷き、そして鉢の横にそっと手を置く。
「あ、それ」
思わずサチは声を出していた。そこには美桜からもらった付箋が重なり合って貼られている。美桜はその付箋を指で撫でると、フフッと笑った。
「先生、これ」
「いや、それはその、えっと……」
慌てて言い訳を考えるが何も思いつかない。恥ずかしさにサチが俯いていると「同じことしてる」と美桜の笑いを含んだ声がした。
「え?」
顔を上げると彼女は付箋を見つめたまま続けた。
「わたしも先生からもらった付箋、こうやって貼ってるから――」
そう言って美桜はヘヘッと恥ずかしそうに笑うと「一緒だね」とサチを振り返った。サチは胸に手をあててギュッと握る。
苦しい。
でも、この苦しさは辛くない。悲しくもない。
自然と視界が歪んでサチは再び顔を俯かせる。
「先生? なんで泣くの?」
驚いたように美桜がサチに近づいて顔を覗き込んでくる。まっすぐで澄んだ、綺麗な瞳。
「先生?」
美桜は微笑む。サチだけに向けてくれるあの表情で。その笑みを見て、サチの胸がまた苦しくなる。
だけど――。
「どうしたの?」
――この苦しさは、きっと。
首を傾げた美桜の頬を髪から落ちた水滴が濡らしていく。サチは微笑みながらその雫をそっと指で拭った。
「嬉しくて」
――そして愛しくて、苦しい。
美桜は目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「うん。わたしも嬉しいな」
美桜は言ってサチの方へ身体を寄せると、肩に額をあてる。
「――すごく、嬉しい」
首元に感じる美桜の吐息は熱い。サチはその状態のまま動くことができなかった。心臓が煩く鳴っている。美桜に聞こえてしまうのではないかと思うほど大きな音で。
嬉しくて切なくて、そして愛しくて。頭の中がどうにかなってしまいそうだ。身体が言うことをきいてくれず、ただじっと彼女の温もりを受け止める。
どれくらいそうしていただろう。ふいに美桜がふぅと息を吐いた。そして「落ち着く。先生とこうしてると」と言う。
その吐息が、声が、そして言葉が、なんだかとてもくすぐったくてサチは少し身体を引いた。すると美桜は顔を上げて「なんで逃げるの?」とサチを見てきた。少し、不安そうに。
サチは困りながらも笑みを浮かべて「だって」と美桜から視線を逸らす。
「恥ずかしくて」
こんな至近距離で見つめられると恥ずかしくて目を合わせることもできない。顔が熱い。きっと真っ赤になってしまっている。
「先生、こっち見てよ」
すぐ耳元で美桜が言う。サチはぎゅっと目をつぶって「いや、ちょっと待って。今、気持ちを落ち着けてるから」と答えた。すると美桜は黙ってしまった。
怒ったのだろうか。
不安になってそっと目を開ける。するとすぐ目の前に美桜の瞳があった。彼女は嬉しそうに微笑む。
「今、どんな気持ちなんですか? 先生」
触れてしまいそうなほどの距離で美桜の唇が動く。サチは彼女の瞳から目を離すことができない。吸い込まれそうなほどにまっすぐなその瞳に映っているのは、サチだけだ。
「どんなって……」
そっと美桜の唇が近づいてくる。そのとき、風呂の湯量を知らせる音が鳴り始めた。美桜は身体を離して浴室の方へ視線を向ける。
「お風呂、先に入って」
サチが声をかけると美桜は「でも」とサチを見た。サチは彼女の髪に触れて「まだ雫が落ちてる。それに、あんなに冷え切ってたんだから、ちゃんと温まらないと」と微笑む。しかし、美桜は不安そうな表情をサチに向けて動こうとしない。
「大丈夫だよ。どこにも行かないから」
そう言葉をかけると、彼女は「……うん」と頷いた。そして「じゃ、お風呂借りますね」と浴室へと向かって行く。
その背中を見ながらサチは、心に温かな気持ちが満ちていくのを感じていた。




