10.君と、わたしと(1)
マンションを出ると、雨はまだ強く降っていた。傘を差してコインパーキングへ向かいながらサチは美桜へ電話をかける。しかし、電源が入っていないというアナウンスが流れるだけだ。
「……どうして」
呟きながらスマホをバッグに放り込んで車へと急ぐ。
美桜のところへ早く行きたい。しかし、彼女がどこにいるのかわからない。
駐車料金を支払い、運転席に乗り込みながらサチは懸命に彼女が行きそうな場所を考えた。三奈の家に行ったのだから彼女の家の近くかもしれない。しかし、三奈の家がどこなのかわからない。
――早く、御影さんのところへ。
気持ちばかりが焦る。サチはとにかく思いつくまま、手当たり次第に車を走らせた。
この時間だ。学校は閉まっていて入れない。学校付近の道にもいなかった。サチが怪我をしたときに美桜が待っていてくれたバス停にも彼女はいない。彼女と二人で手を繋いで歩いた道にも、どこにも。
サチはハザードを点けて路肩に車を停めると、もう一度美桜のスマホにかけてみる。しかし、やはり電源は入っていなかった。
「どこにいるの」
思わず洩らしながらスマホをバッグに収める。そのとき、バッグの内ポケットに入れていたお守りに視線が止まった。サチはそっとお守りに触れ、そして深呼吸をする。
落ち着け。考えろ。さっきの美桜からの電話。そこで聞こえていた音を思い出せ。
――美桜の声。吐息。雨の音。そして……。
「カエルだ」
サチは呟く。そしてハザードランプを消すと車を発進させる。
すっかり聞き慣れてしまって違和感などなかった。しかし、町中で電話口から聞こえるほどカエルが鳴く場所はない。外にいるというのに、車の音だって聞こえなかった。
カエルがよく鳴いていて車が通らない場所。そして美桜がいそうな場所。
それは、あのアパートの近くのどこか。
サチはそう確信して車を走らせた。
美桜は大丈夫だろうか。どうして電話をかけてきたのだろう。三奈と何かあったのだろうか。声はいつもと少し違うように聞こえた。
悲しんでいたらどうしよう。辛い思いをしていたらどうしよう。会ったらなんて声をかけたらいい。どんな表情で彼女と会えばいい。
自分に、彼女と会う資格はまだあるのだろうか。
――それでも、会いたい。
いつの間にか車は田園地帯の道に入っていた。サチは少し車のスピードを落として美桜の姿を探す。
街灯が少ない道を明るく照らすのはサチの車のライトだけ。雨は少し弱くなったらしく、光に照らされる雨粒は小さかった。
しかしいくら車を走らせても人の姿はない。もう、アパートに着いてしまう。
もしかすると、すでに彼女はアパートに帰っているのではないか。帰りながら電話していたのかもしれない。
そう思い、アクセルを少し踏み込む。そしてバス停を通り過ぎた瞬間、ハッとしてブレーキを踏んだ。そのまま路肩に車を停めると傘も差さずに飛び出す。
バス停の屋根の下に置かれた古いベンチ。そこに一人の少女が座っていたのだ。一瞬だったので顔は見えなかった。けれど、きっと間違いない。
サチは彼女の元まで走ると、その前で立ち止まった。ベンチに座った彼女はサチに気づかないのか、両手で握ったスマホをぼんやりと見つめている。
バス停のトタン屋根に細かな雨粒がぶつかり、ザーッという音が鳴り響いている。それに混じるようにして聞こえるカエルたちの声。
サチは一度深く呼吸をしてから「大丈夫?」と声をかけた。すると彼女はピクリと肩を震わせ、ゆっくり顔を上げる。
「え……?」
目を見開いて驚く美桜は、頭の先からすっかり雨に濡れてしまっているようだった。
「――なん、で」
美桜は信じられないものを見たような表情で呟く。サチは彼女の顔を覗き込むように少し腰を屈めると、その頬に手を伸ばす。しっとりと雨に濡れた肌は冷たい。
「どうしてこんなに濡れてるの?」
聞くと彼女は呆然とした表情のまま「……知らない」と呟いた。
そのとき、頭上からポタポタと雫が落ちてきた。どうやら屋根に穴が開いているようだ。
「いつからここにいるの?」
「知らない」
美桜の瞳がまっすぐにサチを捉える。そしてすぐにその瞳は涙で一杯になっていく。サチは微笑んで続けた。
「どうして電話を?」
「知らない……」
知らない、と美桜は繰り返し、頬に触れていたサチの手に自らの手を重ねる。指先は頬よりも冷たく、冷え切っているようだった。
「帰ろう? 風邪引いちゃうから」
しかし美桜は首を左右に振り、そして「なんで、ここにいるの?」としゃくりあげながら言った。
瞳から溢れ出した涙がサチの手に沿って流れていく。サチは彼女を見つめながら「電話、してくれたから」と答える。
「なんで……。だってあれ、間違ってかけちゃっただけだって」
「そうなの?」
サチは両手で彼女の顔を包み込む。
「ほんとに?」
美桜は泣きながらサチを見つめ、やがて「違う……」と目を伏せた。そして泣きながらポツリ、ポツリと話し出す。
「声、聞きたくて。先生の。それで、かけたんだけど」
「うん」
「でも先生には松池先生がいるから、迷惑かけちゃダメだって……」
「それで、間違い電話のふり?」
彼女は「だって」と視線を伏せたまま言う。
「先生の声が聞きたくて、どうしようもなくて。たった一言でもいいから聞きたいって思っちゃって。だけど声を聞いたら今度は会いたくなって、だけど会えないから、だから――」
考えがまとまらないのだろう。美桜はしゃくり上げながら懸命に言葉を探している。サチはそっと美桜の頬から手を放すと、そのまま彼女の身体を抱き寄せた。
「会えたよ」
サチは囁くように言う。美桜の腕がサチの背中に回されるのがわかった。そしてしがみつくようにギュッと力が込められる。美桜は肩を震わせて泣いていた。
「遅くなっちゃったけどね。会えた。御影さんに」
サチもギュッと彼女を抱きしめる。
美桜の冷たい身体から、ほんの少し彼女の温もりが伝わってくる。サチは彼女を強く抱きしめたまま「何があったの?」と聞いた。
美桜は少しの間、沈黙してから「三奈とね、キスした」と呟くように言った。サチの心がズキリと痛む。
「そう……」
彼女はサチの胸に顔を埋めたまま頷き、続ける。
「そうしたら、すごく嫌な気持ちになって……。三奈はわたしのこと好きだって心からそう言ってくれてるのに、わたしはそのとき先生のこと考えちゃってさ。わたしに触れるこの手が先生だったらって、そんなこと……」
美桜はそこで言葉を切ると、呼吸を整えるように浅く息を吐いた。
「わたし、なんてひどいやつなんだろうって。なんて卑怯なやつなんだろうって、すごくすごく嫌な気持ちになって。それで自分の感情がよくわからなくなって、三奈のこと突き飛ばして出てきちゃった……」
美桜は少し身体を離すと顔を上げた。
「それで先生に電話して声を聞いて、それからずっとここで考えてた。ずっと考えて、考え続けて、やっとわかったの」
美桜はそう言うと辛そうに眉を寄せ、堪えきれなくなったように「わたしは」と語調を強めた。
「キスするのも触れ合うのも、デートするのだって先生とがいい! 先生とじゃなきゃ嫌なの! 嫌、なのに……。なのに、先生はさ」
サチは無言で彼女を再び抱きしめた。
美桜もまた、サチと同じだったのだ。しかし美桜はサチよりも純粋で繊細で、それ故にサチ以上に傷ついている。
サチ以上に苦しんで悲しんで、辛い思いをしてきたに違いない。そのことにサチは気づくことができなかった。自分のことばかり考えてしまっていた。
自分が一番苦しくて辛いのだと、そう思い込んでいた。
「ごめん。ごめんね、御影さん。ごめん」
気づけばサチは泣いていた。泣きながら「ごめんね」と繰り返す。美桜も泣きながらサチの胸に抱かれていた。そして、ごめんねと繰り返すサチに、ポツリと「先生のバカ」と呟いた。
「うん。ごめん。バカな先生で、ごめんね」
バス停の屋根を叩く雨の音が弱くなった気がする。サチと美桜を包み込むのはカエルたちの優しい合唱。
「……帰ろう? 御影さん」
しばらくしてサチは言う。美桜はそっと身体を離してサチの顔を見ると「うん」と笑った。あの、柔らかな愛しい笑みで。
「帰ろう、先生」
そして二人で手を繋いでバス停から歩き出す。車はエンジンをかけたまま路肩に停まっていた。ライトが照らす先にはアパートがぼんやりと見える。そこまでは二百メートルもない距離。
「乗ると濡れちゃうね、車」
美桜の言葉にサチは「いいよ」と微笑む。
「乗って?」
「でも」
「どうせ、わたしも濡れてるし。それに――」
「それに?」
「離れたくないから」
サチは美桜の手を握る。美桜は軽く息を吐いて「しょうがないなぁ」と笑った。そして二人で車に乗り込むと、その僅かな距離を惜しむように、低速でアパートへと向かった。




