9.同じ笑顔、偽りの想い(9)
そして迎えた瑞穂の誕生日。その日は一学期の終業式の日だった。
体育館で終業式を終え、教室で生徒たちへ成績表を一人ずつ手渡していく。
どの生徒もソワソワした様子なのは成績が気になっているわけではなく、早く帰りたいからだろう。
それでも成績表を渡されると笑みを浮かべたりガッカリしたり、まったく見もせずに鞄に収めたりと様々な反応を見せる。その光景にサチは自然と笑みを浮かべていた。自分も高校生の頃はこんな様子だったのだろう。
「次は、高知さん」
サチが呼ぶと、三奈は挑むような顔で前へ出てくる。サチはそんな三奈を見て「テスト、頑張ったね」と笑顔で伝えた。すると彼女はきょとんとした顔をしてから「は?」と眉を寄せた。
「バカにしてんの? 来年受験なんだから頑張るのは当然でしょ」
その声にすかさず三奈のグループの一人が「似合わないって、そういう真面目キャラ。元の頭の悪い三奈に戻りなよー」と口を挟んだ。三奈は「ちょっと! わたし別に頭悪かったわけじゃないからね。あ、わかった。あんたほとんど赤点だったんでしょ?」と軽口を叩きながら席へ戻っていく。サチは彼女の背中を見送ってから次の生徒を呼んだ。
三奈のサチに対する態度は相変わらずだ。しかし、あれから彼女も少し変わった。意外にも真面目に勉強をするようになっていたのだ。そして他の生徒たちに対して悪意ある態度もとらなくなった。
軽口を叩くことはあるが、以前のようにケンカになる寸前で美桜が止めるということもない。感情の制御ができるようになった。そんな感じだ。
「三奈、そんなに成績上がったんだ?」
美桜の声にサチはちらりと視線を向ける。三奈は「そう! めっちゃ上がった!」と嬉しそうに美桜に笑みを向けている。まるで小さな子供のように。
きっとあれが本来の彼女なのだろう。美桜の前なら、ウソをついて自分の身を守る必要もないから。彼女が言っていた通り、彼女には美桜が必要なのだ。
そして美桜には――。
そのとき美桜の視線がサチに向いた。サチは反射的に目を逸らして次の生徒を呼ぶ。
名前を呼ぶたびに減っていく成績表。そして次に渡す成績表に書かれた名前を見てサチは動きを止め、少しだけ目を細めた。そっとそこに書かれた名前に手をあてて、サチは窓際の一番後ろの席へと視線を向ける。
「――御影さん」
「はい」
静かな声が、ざわついている教室の中でもはっきりとサチの耳に届く。美桜は背筋を伸ばしてサチの前に立った。
「ね、先生。わたしも成績上がってたでしょ?」
美桜は成績表を受け取りながらサチにしか聞こえない程度の声量で言った。
「うん、上がってたね。すごく」
サチが頷くと、彼女は薄く笑みを浮かべる。
「でも、わたしの授業だけ頑張るのはダメだよ?」
彼女の成績はサチが担当する科目だけ飛び抜けて上がっていた。しかし、それ以外は昨年とあまり変わっていない。
「どうせなら、全部頑張ってくれなくちゃ」
美桜は「うん」と視線を俯かせ、そして上目づかいで笑みを浮かべた。
「先生が言うなら、頑張るよ」
つられてサチも笑みを浮かべる。
「美桜、成績どうだったの?」
ふいに聞こえた三奈の声にサチは笑みを消して「えっと、次は村田くん」と次の生徒の名を呼ぶ。美桜はそれでもサチの前から動かない。ちらりと見ると、彼女は何か言いたそうな表情でサチのことを見つめていた。
「美桜ってば」
三奈に呼ばれた彼女はサチに視線を残しながら背を向け、ゆっくり席へと戻っていく。
「なに、成績そんな落ちてたの?」
「あー、美桜ってテスト期間中も全然勉強してなかったもんね」
「まあね」
美桜は苦笑しながら三奈たちと話している。それでもサチの科目だけは頑張ってくれたのだろう。
三奈の見ていないところで、一人で。
「先生?」
目の前の生徒が不思議そうな表情をして立っている。
「あ、ごめんね」
慌てて謝って、サチは成績表渡しを再開した。
夏休みに浮かれる生徒たちを帰し、サチも定時までに仕事を終わらせる。今日は一度帰ってから瑞穂の家に行くことになっていた。
すでに瑞穂の家ではミナミが料理を作ってくれているはずだ。サチは予約していたケーキを引き取りに行く係。
美桜がいないということ以外はサチの誕生日のときと同じ。けれど、きっと瑞穂が望んでいたのは美桜も一緒にいることだったのだろう。
あの日とまったく同じ時間を過ごすことはできない。それでも、できるだけ同じような時間を過ごせるようにしてあげたい。瑞穂が喜んでくれるのならば。
「じゃ、松池先生。またあとで」
サチは帰り支度をしてバッグを肩に掛けると瑞穂にそう声をかける。瑞穂はまだ仕事が残っているのかパソコンから顔を上げて「えー、もう帰っちゃうんですか?」と甘えた声を出した。
サチは自然と職員室内へ視線を走らせる。ほとんど教員は出払っていたが、木坂が冷めた目でこちらを見ていた。サチは軽く会釈すると視線を瑞穂に戻し、小声で「なに、まだけっこうかかる感じ?」と聞く。
「いえ。ただ、ちょっと寂しかったから言ってみただけです」
サチは苦笑しながら「主役が遅れないでくださいよ? 柚原さん、時間に厳しいから」と念を押す。
「わかってますって」
瑞穂が笑顔で頷く。サチも頷き返してから「じゃ、お先に失礼します」と職員室を出た。そして校舎を出て車に乗り込むと、まっすぐアパートへと向かう。
注文したケーキ屋はアパートから二十分ほど車で行った先にある小さな洋菓子店。一度帰宅して着替えてから出れば、引き取り時間にちょうどいい。
ついでに何か他にも買っていこうか。足りない物があるかもしれない。
そんなことを考えながらアパートへ帰ると、すぐに着替えて再び家を出る。そしてミナミに買い出しが必要かどうか確認してみようとスマホをバッグから取り出しかけたとき「先生」と声がした。
振り返ると、美桜が自分の部屋から出てきたところだった。部屋着ではない私服姿。サチは彼女に笑みを向ける。
「今から出掛けるの?」
すると美桜は小さく頷き、サチのことを見つめる。
「――出掛ける前に、先生に会いたくて」
「え……?」
バッグに入れた片手が何かに触れた。それは内ポケットに入れていたお守り。ミナミがくれた、あのお守りだった。自然とサチはそれを握りしめる。
美桜はわずかに眉を寄せて「えっと」と視線を彷徨わせる。
「先生も今から出るんだよね? 松池先生のとこ?」
彼女は視線を彷徨わせたまま言った。
「うん。瑞……松池先生、今日誕生日だから」
「知ってる」
「覚えてたの?」
「ううん。先週、あの人から電話があって」
そう言って、美桜は薄く微笑んでサチを見た。
「あの人って……」
「ミナミさん」
サチは少し驚いて美桜の顔を見つめる。美桜がミナミのことを名前で呼ぶのを聞いたのは初めてだった。美桜は続ける。
「松池先生の誕生日、一緒にパーティしないかって」
「そう、なんだ」
知らなかった。ミナミは何も言っていなかった。美桜を誘ってみないかとも、誘ったとも、何も。
「でも行けないから、松池先生におめでとうって伝えておいてほしくて」
「御影さん――」
美桜はサチの顔を見ると「あ、違うからね?」と慌てたように片手を振った。
「別に気まずいからとか、会いたくないとか、そういうわけじゃなくて――」
美桜は言いながら顔を俯かせる。サチは彼女を見つめながら首を傾げた。
どこか、様子が変だった。
何もない関係に戻ってから、こんなに会話をしたのは初めてだ。そういえば、学校でも何か言いたそうな様子だった。何を伝えたいのだろう。
また三奈が何か言ってきたのだろうか。サチがここに住んでいると知られてしまったのだろうか。
自然と首をもたげてくる不安。サチはお守りを握る手に力を込めた。
美桜は「違くて……」と呟くように言って、視線だけを上げてサチを見た。
「――今日ね、三奈の誕生日なんだ」
美桜は迷うような表情で言う。
「高知さんの……?」
「うん。だから、行けなくて」
「そっか。松池先生と同じなんだ。すごい偶然だね。今日は今から高知さんの家に?」
美桜は頷く。
「今日、親もいないから泊まっていってほしいって言われて。ナナキの世話もあるからムリって言ったんだけど、どうしてもって……」
「ナナキちゃん、大丈夫?」
「うん。ママが夜に一度見に来てくれるって」
「そう」
サチの言葉に美桜は頷く。そして沈黙。
近くの田んぼからカエルの声が聞こえてくる。ふと視線を上げると、いつの間にか空は暗い雲に覆われていた。雨が降りそうだ。せっかく梅雨が明けたというのに……。
「――あの、先生はさ」
ふいに美桜が口を開いた。サチは彼女に視線を戻す。美桜は顔を俯かせて「松池先生の家に泊まったりとか、してますよね?」と小さな声で言った。
「そう、だね。たまに」
サチの答えに美桜の肩がピクリと動く。そして彼女は顔を上げた。何かに耐えるような、そんな笑みを浮かべて。
「やっぱり、そうだよね」
サチはお守りを握った手を自分の胸に当てる。心が苦しくなってくる。美桜のこんな表情は見たくないのに。
彼女は耐えるような笑みのまま「そのときって」と言葉を続ける。
「松池先生と、したりするんですか?」
サチはギュッと胸に手を押し当てた。そして「……なにを?」と掠れた声で聞く。
美桜は笑みを浮かべたまま、苦しそうに眉を寄せて「キスとか……。それ以上のこと、とか」と少し震えた声で言った。
「それは――」
サチはその意味を察すると視線を伏せ、両手でお守りを握りしめた。その反応を答えと受け取ったのだろう。美桜は「そうなんだ」と消え入るような声で呟いた。
視線を上げると、美桜は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。サチは思わず彼女に向かって右手を伸ばす。しかし美桜は身体を引いて、その手を避けた。
「先生、大人だもんね。付き合ってる人がいるなら、そういうこともするよね」
美桜は目に溜めた涙を必死に堪えながら言った。その目がサチを責めているようで、サチは彼女から視線を逸らす。
そのとき、心の奥底に押し込んで忘れていたはずの気持ちが一気に蘇り、気づけば「……御影さんの部屋にも、高知さん泊まってたよね」と言っていた。
あのときのサチの気持ちなど、美桜にわかるはずもない。そう思ったから。
「でも、あのときは――」
美桜は言いかけたが、すぐにグッと顎を引いて口を閉じる。そして息を吐くと、微笑んだ。
何かを諦めたような、悲しそうな、そして苦しそうな、そんな複雑な笑み。
サチはハッと息を呑んで「ごめん」と美桜に手を伸ばす。
「御影さ――」
「ごめんね、先生」
サチの言葉を遮って美桜は言った。そして一歩、後ろに下がる。
「変なこと聞いちゃってさ。そうだよね。先生は大人だから、わたしとは違う。うん。違うから……」
まるで自分に言い聞かせるような言葉。サチは伸ばしかけた手を下ろし、懸命に笑みを浮かべる彼女を見つめることしかできなかった。
「あ、もうバス来ちゃう」
美桜はそう言うと「呼び止めてごめんなさい。わたし、もう行くね」とサチに背を向けた。
「先生も、早く松池先生のところ行ってあげてください」
その言葉を残して彼女は走って行く。まるでサチの前から逃げるように。一度も振り向くこともなく。
サチはその場に立ち尽くし、遠くなっていく背中を見つめていた。その視界がぼやけてきて目に手をやる。涙が溢れていた。
また、心が苦しい。
――わたしとは違う。
そう彼女は言った。きっと美桜は違う答えを待っていたはずなのだ。美桜はサチも同じ気持ちだと信じていたのかもしれない。それを裏切ってしまった。
美桜を、傷つけてしまった。
きっと同じ気持ちだったはずなのに。
「――わからないよ」
サチは俯きながら呟く。
だって、最初に突き放したのは美桜だ。苦しくて辛くて、どうしようもなくて。瑞穂がいてくれたから立ち直ることができたのに。どうして今になって……。
心が急に冷たくなった気がする。
瑞穂のおかげで満たされ始めたと思った心は、いつの間にか罪悪感で一杯だ。
こぼれ落ちそうなほどのこの罪悪感たちは誰に対してのものなのだろう。瑞穂だろうか。それとも美桜だろうか。
「どうしたら……」
美桜には笑っていてほしいのに。幸せになって欲しいのに。そのためにどうするべきだったのだろう。何を言うべきだったのだろう。しかし、それを今考えても、もう遅い。あんな顔をさせてしまったのだから。
心がどうしようもなく痛い。
サチはしばらくその場に立ったまま、美桜が去って行った方を見ながら涙がこれ以上溢れないように堪え続ける。
自分に泣く資格なんて、ないのだから。
そんなサチの気持ちを受け取ったかのように、ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。




