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9.同じ笑顔、偽りの想い(7)

 翌朝、サチは出掛ける前に洗濯を済ませることにした。洗濯物が入ったカゴを持って部屋を出る。すると、洗濯機の蓋に置いていた洗剤と柔軟剤は元のカゴに戻されていた。貼っていた付箋もなくなっている。

 美桜はもう洗濯を済ませたのだろうか。まったく気づかなかったけれど。

 思いながら洗濯物を洗濯機に放り投げて洗剤と柔軟剤を入れる。どちらも、あと二回使えるかどうかほどの量しか残っていなかった。


「ほんとにギリギリだったんだ」


 呟きながらスタートボタンを押す。そのとき「あ……」と声がした。振り向くと、ナナキの散歩から帰ってきたのだろう美桜が驚いたような表情で立ち止まっていた。サチも彼女を見つめて動きを止める。

 洗濯機が水を取り込み始めたのか。水の音が響き始めた。


「……今日、ちゃんと買ってくるからね」


 サチは彼女に微笑んで洗剤のボトルを軽く振る。美桜は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに「うん」と笑みを浮かべた。


「よろしく、先生」

「はい」


 そして二人は沈黙してしまう。気まずい空気。しかし、互いに顔を逸らすことができない。逸らしたくない。

 そのとき、ナナキがハッと息を漏らした。見ると、ナナキは嬉しそうに尻尾を振りながらサチの顔を見上げていた。


「あ、ナナキちゃん。なんだか久しぶりな感じだね」


 サチは言いながらナナキに近づくと手を伸ばして頭を撫でてやる。ナナキは目を細めてサチの手に頭を押しつけるとそれで満足したのか、もういいとばかりに歩き出した。


「え、うそ。もう終わり?」


 思わずサチは呟く。手はナナキの頭があった位置に伸ばしたままだ。フフッと笑い声が聞こえる。美桜はゆっくり足を進めながら「ナナキは自由だね」と柔らかな笑みをナナキに向けていた。

 サチはそんな彼女の顔を見つめる。その視線に気づいたのか、彼女は足を止めてサチへと顔を向けた。

 もうそこに微笑みはない。


「あの、じゅ、柔軟剤! 今度はどんな香りがいい?」


 このまま別れるのが嫌で、気づけばそんなことを聞いていた。すると美桜は「なんでも」と答えて微笑む。


「先生の好きな香りなら、なんでも」


 控えめな、どこか寂しそうな笑み。サチは「うん。わかった」と頷く。

 美桜は視線を俯かせ「行こう、ナナキ」とサチに背を向けた。そしてナナキと一緒にゆっくりアパートの裏へと消えていく。

 サチはカゴを抱えて深くため息を吐きながら部屋へ戻った。そして玄関のドアに背をつけて天井を仰ぐ。


「話せた……」


 ちゃんと、話せた。泣かずに話す事ができた。美桜の笑顔を見ることができた。あの柔らかな笑みを。自分に向けられたものではなかったけれど。

 自分に向けられた笑みや言葉には以前より距離があったように思う。しかし、きっとこれが普通なのだろう。これが、ただの何でもない関係の距離感。

 この距離感に慣れることはできるだろうか。いや、慣れていかなくてはいけないのか。


 サチはため息を吐くと「よし」と気合いを入れて出掛ける準備を始める。洗濯が終わって干し終えたらすぐに出よう。そして美桜の好きそうな香りの柔軟剤を探そう。自分が好きな香りは、美桜が好きな香りだから。

 そのときテーブルに置いていたスマホが着信を告げた。着信相手は瑞穂だ。サチは通話をタップしてスマホを耳にあてると「おはよう、瑞穂」と瑞穂よりも先に言った。


「あ、おはよう……。なんか、元気だね?」


 瑞穂の声は驚いているようだった。きっと心配して電話をかけてくれたのだろう。サチがまたメソメソしているのではないかと。

 サチは笑って「うん。元気だよ」と答えた。


「たぶん、わたしはもう大丈夫だと思うから」

「本当に?」


 瑞穂の声はサチの気持ちを探っているようだ。サチは「うん」と窓の方へ移動した。そしてサボテンを見下ろし、鉢の横に貼られた付箋へと視線を移す。


「さっき、御影さんとちゃんと会話もできたから。やっぱり前と同じようには話せないけど、でも、きっと大丈夫」

「……寂しくない?」

「寂しいよ。寂しいけど、きっとそういうのも慣れていくんだろうなって」


 サチは付箋を撫でてから「それに」とサボテンに背を向けるとテーブルの前に座った。


「わたしには瑞穂がいるから」


 テーブルの隣に置いていたバッグ。その持ち手につけられたイルカを手の平に乗せてサチは言う。息を吐くような音が聞こえた。


「うん、わたしがいるからね」


 そう言った瑞穂の声は笑っているような、泣いているような、そんな声だった。

 それからしばらく他愛もない話をする。

 昨日のこと、仕事のこと。そして自分たちのこと。


 学校では自分たちのことは秘密にしておいた方がいいだろうとサチが言うと、瑞穂は別にバレても構わないと笑う。下手に隠したりせず、自然のままでいたいと。瑞穂が言うのなら、それでも構わないと思った。どうせ今だって噂が立っているのだから。


 そんなことを話しているうちに話はまた別の話題になり、また別の話題へと移っていく。尽きることのない瑞穂との会話は楽しくて、気持ちが明るくなっていく。

 心がほんの少し満たされるような気がする。心地良い。それは彼女がサチの全てを受け入れてくれているからだろう。

 彼女はきっとわかっている。こうして話している間も、サチが頭のどこかでは美桜のことを考えているということを。実際、瑞穂と笑い合いながらサチは思ってしまっている。


 ――御影さんは、今日は何をして過ごすんだろう。


「サチ、聞いてる?」


 瑞穂の声にサチは「あ、ごめん。今日、買うものを考えてた」と慌てて誤魔化す。


「あ、買い出し? 何買うんですか?」

「えっと……」


 まずは食料を買わなければ。部屋に置く時計もそろそろ買っておこう。それから何かあったときのために体温計や薬類も。またミナミの世話になるわけにはいかない。それから洗剤と、そして美桜が好きそうな――。


「――サチ?」

「良い香りのする、柔軟剤」


 サチはサボテンを見つめながらそう答えていた。


「え、柔軟剤だけ?」


 瑞穂の笑い声が聞こえる。サチは「あ、違う違う。洗剤も。あと他にも色々と――」と笑いながら言葉を続ける。


 ほんの少し満たされた心に、ほんの少し落ちていく罪悪感。

 その罪悪感に気づかないふりをしてサチは瑞穂と会話を続ける。


 玄関の外で、洗濯機が洗濯終了のメロディーを奏でていた。

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