9.同じ笑顔、偽りの想い(6)
瑞穂と別れてアパートの自室に戻ったサチは、バッグを置くとテーブルの前に腰を下ろした。そしてサボテンの育て方の本を開いて、読み進めていく。
どうやらこのサボテンは直射日光を当て続けるのは良くないらしい。適度に日光が必要で、水は季節によって量を調整。やり過ぎると根腐れしてしまうので気をつけなければならない。そして上手に育てると春先には花をつける。
紫っぽい、ピンクの小さくて可愛い花を。
サチは本を開いたままテーブルに置くと、窓辺へ移動した。買ったままの小さな鉢の中で、ホワホワとした綿のようなトゲを纏った丸いサボテン。
もらったあの日から変わった様子はないが、すでに土の表面は乾いている。たしか本には、この時期の水やりは土の表面が乾いたらたっぷりやると書いてあった。
「今、やってもいいのかな……」
それとも明日の朝の方がいいのだろうか。考えてからキッチンへ行き、コップに水を入れて窓辺へと戻る。そしてそっとサボテンの根元へ水を注いだ。少しやって様子を見て、また少しやって様子を見る。やがて受け皿に水がしみ出てきたところで手を止めた。よくわからないが、きっとこれくらいでいいだろう。
「ちゃんと育てるからね」
誰にともなくサチは呟きながら、そっとサボテンのトゲに触れる。フワフワしたそれはトゲらしくない。ちょっと皮膚に引っかかるような感触。そんな優しいトゲを持ったサボテンを、サチはしばらくずっと見つめ続けた。
しんと静まった室内。隣の部屋からは何も聞こえてこない。きっと三奈はいないのだろう。
いつもと同じ静かな夜。
まるで何事もなかったかのような、そんな空気。
サチは窓の外へ視線を向けた。真っ暗で何も見えない。少し窓を開けてみると、どうやら雨は止んでいるようだった。通り雨だったのだろうか。
「明日は洗濯しなくちゃ」
火曜日以降、洗濯ができていない。さすがにもう着るものがなくなってしまう。そういえば洗剤と柔軟剤が残り少なかったはずだ。美桜はちゃんと洗濯できているだろうか。洗剤は足りていただろうか。それとも、もう自分用に新しく買ってしまっただろうか。
――先生、洗剤がもうないよ。
今までは、いつも買い忘れるサチに美桜がそう教えてくれていた。しょうがないなぁという顔で。もう、そういうこともないのだろう。サチは窓とカーテンを閉めるとサボテンへ視線を落とす。
「明日、買いに行かなくちゃ」
新しい洗剤にしてみようか。それとも今までの物でいいだろうか。いつもは美桜と相談して決めていた。柔軟剤はどの香りがいいか、一緒に選んで買っていた。同じ香りに包まれていることが嬉しかった。しかし今はきっと、同じ香りに包まれていても切なくなるだけ。
サチは無意識にため息を吐く。そのとき、コトンと玄関の外から音が聞こえた。
「……御影さん?」
三奈がいないのだとしたら、今このアパートには美桜と自分だけだ。サチは玄関へ向かうとドアを開けた。しかし、そこに彼女の姿はない。ナナキが呼んだのだろうかと耳を澄ませたが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
不思議に思いながら、美桜の部屋との間にある洗濯機へ視線を向ける。そして「あ……」と思わず声を洩らしていた。
蓋を閉めた洗濯機の上に洗剤と柔軟剤が置かれている。そして洗剤のボトルには付箋が一枚。近づいて見ると、そこには美桜の文字でこう書かれていた。
『先生、もう洗剤も柔軟剤もないよ』
サチはしばらくその文字を見つめ、そしてそっと付箋を撫でた。自然と笑みが浮かんでくる。
嬉しかった。
この何でもない日常の関係を彼女は続けてもいいと言ってくれている。この小さな繋がりを、切らないでくれている。
ふと目を向けると、洗剤と柔軟剤を収めるカゴに未使用の付箋とボールペンが入っていた。昨日まではなかった付箋の束。サチはそれを一枚取ると文字を書いて洗剤のボトルに貼る。
『明日、買ってきます』
そして部屋に戻って窓辺に向かうと、サボテンの鉢の隣に美桜の言葉を貼った。
たった一言のメッセージ。今までは何気なく交わしていた言葉。
それが、今はとても大切に思えた。




