2.変化、始まる新生活(3)
十四時過ぎ。サチは背筋を伸ばしてテーブルの前に正座をしていた。向かいには品の良いパンツスーツを身に纏った細身の女性が、やはり姿勢よく正座をして座っている。薄化粧だが、決して地味という印象を受けないのは元々の素材が良いからだろう。彼女は小さな丸テーブルに置いたクリアファイルから書類を数枚取り出した。
「それで、明宮さん。いえ、明宮先生……?」
目の前の女性は困ったように首を傾げる。サチは慌てて「あ、プライベートなので普通に呼んでください。すみません」と頭を下げた。
「えっと、じゃあ明宮さん。改めまして、御影真澄と申します」
静かな声は、どこか美桜の声と似ている。そのスッとした鼻筋や薄い唇も美桜とよく似ていた。
「娘がいつもお世話になっております」
「いえ、そんな。お世話になっているのはこちらの方で。お部屋まで紹介していただいて」
「うちは助かったよね? ママ」
美桜がお茶を入れた湯飲みを運んできてテーブルに置いていく。そしてサチと真澄の間に座った。しかし真澄は答えずサチをまっすぐに見据えている。なんとなく品定めされているようで緊張してしまう。
「美桜から聞いて突然だったので驚いたのですけど。本当にこんなアパートの部屋を借りられるんですか?」
「こんなアパートって……」
不満そうに美桜が言う。サチはそんな美桜に苦笑してから「はい」と頷いた。
「ちょうど家を出ようと思っていた頃だったので、よい機会だと思いまして。このあたりは静かですし、気持ちが落ち着きそうで」
「そうですか。犬がうるさくなければいいですけど」
「あ、ナナキちゃんですか。まあ、それくらいなら大丈夫だと思います」
真澄は小さく息を吐いて「すみませんね」と言った。意味がわからず、サチは首を傾げる。
「いえ、普通はこういう手続きは委託してるんですよ。委託先の事務所で、ちゃんと知識のある方にしっかり説明をしてもらって、納得をいただいてから契約という形が通常なんですけど。ただ、この物件は少し特別で」
「特別、ですか」
「ええ。元々はわたしの母が持っていたもので、母は個人で契約を行っていたんです。それを相続した形にはなるんですが、ずっと空き部屋のままでもいいかなと思っていたもので」
言いながら真澄の視線は部屋の隅に置かれたキャリーバッグに向けられていた。まさか借り手がつくなんて、そう言いたげな表情だ。
たしかに、まったく説明を受けないまま、すでに契約するつもりで荷物まで持ち込んでいるのだ。しかも相手は娘の担任。これでは断ろうにも断れないだろう。サチは美桜に視線を向ける。彼女は学校で見るような涼しげな表情でぼんやりとスマホをいじっていた。
再びため息が聞こえてサチは視線を戻す。真澄は「では、契約を進めますね」とサチの前に置いた書類に視線を向ける。
「まず家賃ですが、三万円でいかがでしょうか。支払いは口座振り込みで」
「え、三万円……」
まさか美桜が本当にその値段で交渉したのだろうか。思わず言葉を失っていると「さすがにこれ以上お安くするのは厳しいのですが」と真澄が困ったような表情で言った。慌ててサチは両手を振る。
「いえいえ。充分です。むしろ安すぎて驚いただけで」
「元の家賃は五万ちょっとなんですけどね。まあ、美桜の先生ですし。ここは家賃収入を期待できるような物件でもありませんので。三万円はほとんど管理費ですね」
「いいんですか? 本当に」
「ええ、構いませんよ。それから保証人ですが、それもなしで大丈夫です」
「……本当にいいんでしょうか。わたし、教師といっても非常勤ですし、収入は不安定ですけど」
「家賃滞納などあれば美桜が払うと言ってますから大丈夫ですよ」
「それは全然大丈夫じゃないですね」
サチが深刻な口調で言うと真澄はフフッと笑って「だったらしっかり働いてくださいね」と言った。サチは深く頷く。
「それから、お部屋はこの隣ということですけど」
「はい。もう、住まわせていただけるのならどこでも」
サチの答えに真澄は微笑むと「では、こちらの契約書にサインと印鑑を。あと身分証をお借りできますか?」と言った。
「あ、はい」
サチは財布から免許証を取り出して真澄に渡す。彼女はそれを受け取ると「美桜、プリンタ借りるわね」と部屋の隅の棚に置かれていたプリンタでコピーを取る。
「あと、これはまた後日で構わないんですけど、住民票を提出してくださいますか? 娘に渡してくださったら結構ですので」
「ああ、はい。わかりました」
真澄は再び元の場所に腰を下ろして免許証をサチへと返した。そして「これが部屋の鍵です」と銀色の鍵をテーブルに置くと、サチがサインした書類を引き寄せてクリアファイルに納めた。
「あ、それから水道と電気なんですけど、今日はまだ使えません」
「えー、なにそれ」
それまで黙っていた美桜が不満そうに口を開いた。
「仕方ないでしょう? 昨日の今日でそこまで手配はできなかったのよ。明日からなら使えるようになるんですけど、でも、もう家を出てきてしまったんですよね?」
「あー、はい。そう、ですね」
「一度帰る、ということは?」
「えーと、ちょっと厳しいかもしれません」
「そうですか」
「いいじゃん、うちに泊まれば。昨日も泊まったんだし」
軽い調子で美桜が言った。真澄は眉を寄せて「昨日も?」と聞き返す。
「うん。昨日の夜さ――」
言いかけて彼女は、ふと何かに気づいたように視線を上向かせた。微かに「フゥン」という声が聞こえる。
「ナナキだ」
「この時間だとトイレかもしれないわね」
「うん。ちょっと行ってくる」
「お願いね」
美桜は頷くと玄関へと向かった。そして外へ出る前に振り返って「ママ、変なこと言わないでね」と釘を刺して出て行った。
「まったく、あの子は――」
真澄が息を吐きながら言う。
「明宮さん、いえ、先生」
「は、はい」
「昨夜、ここに泊まられたんですか?」
真澄の声は静かだった。そこに込められている感情がよくわからない。サチは素直に頷いた。
「あの、昨夜この辺りまで気晴らしに車を走らせてましたらナナキちゃんを散歩させている御影さん……美桜さんと遭遇しまして。それで家が近くだというから上がらせてもらったんです。そして、その、つい、お酒を飲んでしまいまして……」
「この部屋に残ってたビールですか」
「はい。おばあさまのものだって言ってましたけど」
「ええ、うちは誰もお酒を呑まないから早く捨てろと言っていたんですが……。先生に無理矢理呑ませたりしませんでした?」
「ああ、いえ。わたしがつい呑んでしまったんです。ちょっと、嫌なことがあったもので……」
そうですか、と真澄は息を吐くように言って「先生、お幾つでしたっけ?」と首を傾げた。
「今年で二十七になります」
「今まではずっとご実家で?」
「ええ、恥ずかしながら」
苦笑してサチは答える。しかし真澄は「全然恥ずかしいことではありませんよ」と言った。
「むしろ、その方が今の時代の家族としては良いのかもしれません」
「え?」
「だって、ご両親と近くで暮らしていれば縁が薄くなることもないでしょう?」
サチは眉を寄せて「それは、家族によりけりだと思いますけど」と答える。すると真澄は何かを察したかのようにハッとした表情を浮かべた。
「すみません。そうですよね。先生の仰るとおりです」
彼女はそこで言葉を切ると、お茶を一口飲む。そして迷うような様子を見せてから「あの子、学校でどうでしょうか?」と小さな声で言った。そこに座っているのは先ほどまでのキリッとした女性とは違う、何かしらの不安を抱えた母親だった。