9.同じ笑顔、偽りの想い(5)
車は瑞穂の運転で夜の街を走り行く。瑞穂は洋楽が好きなようで、車内には知らない歌手の曲が小さな音量で流れていた。瑞穂は運転に集中しているのか、それとも何か考えているのか無言のままだ。
サチは窓の向こうを流れていく街並みをぼんやり眺める。そうしていると「今日、どうしますか?」と瑞穂が静かに口を開いた。サチは彼女へ視線を向ける。瑞穂は前方を見つめたまま「一人で大丈夫?」と続けた。
「……どうかな」
今日、美桜たちはどうするのだろう。
今日もまた三奈は泊まるのだろうか。美桜と一緒に眠るのだろうか。
そう考えると、急に不安が襲ってくる。サチは瑞穂の横顔を見つめて「あの――」と迷いながら言葉を口にする。
「瑞穂の家に、泊めてもらうっていうのは……」
それを聞いて彼女は息を吐くようにして微笑んだ。そして「いいですけど、また襲っちゃいますよ?」といたずらっ子のように言う。瞬間、サチは昨夜のことを思い出して「あー、えっと」と反応に困りながら俯いた。
「冗談ですよ。半分」
「半分……?」
「わたしはいつだってサチに触れていたいから」
瑞穂はそう言うと「でも」と微笑んだまま続ける。
「今日は頑張ってみましょ? あの部屋で」
前方の信号が赤になり、瑞穂はゆっくりと車を停車させる。
「だって、サチはこれからもあそこで暮らすつもりなんですよね?」
瑞穂は優しい笑みをサチに向けた。サチは頷く。
例え、気持ちを押し殺していかなければならないとしても、それでも美桜のそばにいたいから。
「だったら、帰らなくちゃ」
瑞穂は何もかも見透かしたような表情で優しく促す。そしてそっと左手でサチの頬に触れた。
「大丈夫。もうサチは一人じゃないから。わたしがいる。わたしはいつでもそばにいるし、いつでも抱きしめてあげる。あなたが寂しくないように。だから、頑張ろう?」
瑞穂はそう言ってサチの頬を撫でると手を下ろし、前方に視線を向けた。信号が青に変わり、車が走り出す。
頑張って、どうしたらいいのだろう。
瑞穂を好きになる?
それとも美桜への気持ちを忘れる?
何を頑張ればいいのか、今のサチにはまだわからない。だけど瑞穂の気持ちはとても温かくて――。
「ありがとう」
自然と呟いた言葉に、瑞穂は「うん」と穏やかな声で頷いた。
アパートに着くとサチの視線は自然と美桜の部屋の窓へと向く。すでに帰宅しているようで電気がついていた。
「サチ?」
瑞穂の視線が大丈夫かと言っている。サチは頷いて笑ってみせた。
「じゃあ、今日はありがとう。瑞穂」
「あ、待って」
瑞穂はシートベルトを外すと後部座席へ手を伸ばした。そして本屋の袋をサチへと差し出す。
「これ、サチに」
「え、わたし……?」
呟きながら中に入っている本を取り出す。大判のハードカバー本。車内に差し込む街灯の明かりにうっすら照らされた表紙にはサボテンの写真がある。
それは、サボテンの育て方という本だった。サチは驚きに目を丸くして瑞穂を見た。
「なんで?」
「だって、大事なサボテンでしょ?」
瑞穂は包み込むような笑みを浮かべる。
「あのサボテンの種類を調べて、それに合った本を選んだから――」
瑞穂はそこで言葉を切ると、笑みを浮かべたまま僅かに目を伏せた。
「御影さん、言ってたでしょ? あのサボテンがサチに似てるって。どういう意味だろうと思ってたんですけど、花言葉だったんですね」
「――花言葉?」
「そう。サボテンの花言葉。温かな心。燃える心。枯れない愛。偉大。どれもサチっぽい」
「そんなこと……」
「ううん。わたしはそう思った。きっと御影さんも、そう思ったから選んだんじゃないかな」
「そうなのかな。だったらちょっと、嬉しいな」
サチは笑みを浮かべて「瑞穂もそう思ってくれてるなら、嬉しい」と瑞穂を見つめる。そんなサチを見て瑞穂は悲しそうに眉を寄せると、手を伸ばしてサチを抱きしめた。
「瑞穂?」
「――別に、御影さんのこと忘れなくてもいいからね?」
彼女は囁くようにそう言った。
「え……?」
「だから、そんな苦しそうに笑わないで。わたしが見たいのは、あのときみたいにまっすぐに笑ってるサチの笑顔。無理しなくてもいいから……。我慢しなくていい。辛かったら言って? 泣きたかったらわたしの胸で泣いていいから。ね?」
サチは瑞穂の温もりに目を閉じながら「――瑞穂は、それで苦しくないの?」と聞く。苦しくないわけがないとわかっていながら。
彼女は「苦しいに決まってるよ」と少し怒ったような口調で言った。しかしすぐに「でも」と息を吐く。サチを抱きしめる彼女の両手に力が込められる。
「サチが苦しいのを我慢してたら、わたしはその何倍も苦しいし何倍も悲しい」
瑞穂は微かに震えた声でそう言うと、ゆっくりと身体を離した。その顔を見て、サチは「瑞穂……」と彼女の頬に手をやる。
彼女は、泣いていた。
彼女は泣きながら「だから、今日みたいなのは嫌だな」と笑みを浮かべた。
「辛いのに我慢して、笑って……。そんなあなたを見てるのは、わたしも辛いから」
そうか、とサチはようやく気づいた。彼女を傷つけていたのはサチの美桜への想いではなく、強がって平気なフリをしてきた自身の振るまいだったのだ。
頼ってほしい。
彼女は最初からずっとそう言っていたのに。
「――ごめん」
サチは瑞穂の頬を伝う涙を手で拭い、そして彼女の身体を引き寄せた。細い身体に腕を回して「ごめんね」と繰り返す。瑞穂はしばらく何も言わず、ただ静かに泣いていた。
ポツポツと音が聞こえ、フロントガラスに水滴が落ち始める。エンジンを切った車内にはサーッと降り始めた雨の音だけが広がっていく。
やがて気持ちが落ち着いたのだろう。彼女はサチから身体を離すと「わたしの方が泣いてちゃダメですね」とはにかむように笑った。
「わたしの胸でサチに泣いてほしいのに」
「……本当に、いいの?」
美桜への気持ちを忘れようとしなくても。その意を込めて瑞穂に聞く。彼女は頷いた。
「そんなにすぐ気持ちを切り替えられるわけないってわかってるから。それでもわたしのそばにいてくれるなら、それだけで今はいいんです」
瑞穂は言ってから「今は、それでいいんです……」と小さく繰り返した。
サチは瑞穂を見つめる。そして「ありがとう」と心からの言葉を告げて、もう一度彼女を抱きしめる。瑞穂の温もりが今はただ嬉しくて、切なかった。




