8.幸せ、冷たい心(10)
どれくらいそうしていただろう。ふいにナナキの声が聞こえた。こんな時間に鳴くなんて珍しい。そしてドアが開く音。
「えー、また行くの?」
微かに三奈のそんな声が聞こえてきた。しかし、美桜の声は聞こえない。瑞穂の胸に抱かれたまま、美桜の声が聞こえないかと耳を澄ませる。そうしていると、瑞穂がそっと身体を離した。そしてサチの顔を覗き込んで微笑む。
「今日はもう休んだ方がいいですね」
サチが答えずに瑞穂の顔を見つめていると、彼女は小さく頷いてから立ち上がる。
「最近、ちゃんと湯船に浸かってます? シャワーで済ませたりしてませんか?」
「え、あ、そうですね。なんか、めんどくさくて」
「たまにはちゃんと湯船に浸かった方が良いですよ。ちゃんと温まらないと疲れも取れないし。お風呂、入れてもいいですか?」
「あ、はい」
サチが頷くと、瑞穂は立ち上がり「明宮先生はテレビでも観て待っててください」と浴室に向かう。しかし、浴室の戸に手をかけてから思い出したように「あ、DVDは先に進めないでくださいね」と言った。
サチは思わず笑って「はい」と頷く。瑞穂はサチが頷いたのを確認して、風呂の準備に取りかかった。
きっと気を遣ってくれているのだろう。いつものように振る舞う瑞穂の優しさが嬉しい。
瑞穂がいれば寂しくない。
きっと、寂しくない。
サチは心の中で自分に言い聞かせながらテレビをつける。チャンネルを回してニュース番組で止めると、ちょうど天気予報をしていた。明日の天気は晴れ。梅雨の合間の、久しぶりの晴れ予報だ。
「あ、明日は晴れなんですね」
浴室から戻ってきた瑞穂が言った。
「みたいですね。最近、全然お日様見てない気がします」
「貴重な晴れかぁ」
瑞穂は言いながらサチの隣に座る。何か考えているようだ。そしてサチへ視線を向けて「先生は何します?」と聞いた。サチは彼女を見つめて「一緒にいたいです」と呟く。
「え?」
「一緒に、いたいです……」
繰り返しながらサチは膝を抱えてテレビへ視線を向ける。
きっとまだ、ひとりになると迷ってしまうから。
「じゃ、どこか行きましょうか。二人で」
その言葉にサチは瑞穂へ視線を戻した。
「二人で?」
「はい。二人で。デート、ですね。うん。デートだ」
まるで自身に言い聞かせるような口調で瑞穂は言った。嬉しそうに。サチは「デートかぁ」と呟く。
「初めてのデートですね」
「……ちょっと、先生にそう言われると恥ずかしいです」
瑞穂が顔を赤らめたので、サチは思わず吹き出すように笑ってしまう。
「自分だって言ってのに」
「そうなんですけど」
瑞穂は恥ずかしそうにしながら「先生の行きたいところに行きましょう」と提案する。
「考えておいてくださいね」
「行きたいところ……」
どこに行きたいだろう。二人で行くならどこがいいだろう。瑞穂ならどこへ行っても楽しんでくれそうだ。
では、もしも美桜と一緒だったら――。
そこまで考えてサチは我に返る。
――何考えてるんだろう。
一瞬にして自己嫌悪に陥る。そんなサチの様子を見て瑞穂は「わたしもどこか楽しそうな場所、調べておきますね」と言った。
また、気を遣わせてしまった。
そのたびに瑞穂はきっと傷ついている。そしてサチは罪悪感を覚える。
それでもひとりでいるときのような苦しさに比べるとマシだ。きっとおそらくは、瑞穂もそうなのだろう。
そんな都合の良い考えで自分を納得させる。
しばらく二人でテレビを眺め、風呂に入って寝支度を整える。瑞穂にはサチの寝間着を貸したのだが、瑞穂の方が身長が高いのでパンツの丈が微妙に短く見えた。その姿が少しおかしくてサチは笑ってしまう。
瑞穂は「ひどい、先生」と頬を膨らませていたが、ふと気づいたように「良い匂いがする」と呟いた。
「え、そうですか? 柔軟剤かな」
サチが首を傾げると瑞穂は首を横に振った。
「――サチの、匂いがする」
ふいに名を呼ばれてサチの心臓が跳ねた。サチは布団の上に座って瑞穂を見つめる。瑞穂もまた、サチのことを見つめている。
やがて彼女はサチの前に膝をついて屈み込むと、肩に手を置いてそっと顔を近づけた。しかし、唇に触れそうで触れない位置で動きを止める。
すぐ目の前にある瑞穂の顔は、とても綺麗だ。まだ完全に乾いていない彼女の髪が頬に触れてくすぐったい。
「……キスしてもいいですか?」
瑞穂は囁くように「今度は、ちゃんと」と続ける。不安そうな瞳で。そんな瑞穂の瞳を見つめながら、サチは自然と唇を押し当てていた。
瑞穂は驚いたように目を見開く。やがて互いの唇が離れると彼女は薄く微笑み、サチの身体を抱きかかえるようにしながら布団に倒れ込んだ。そして今度は瑞穂の方から口づける。深く、強く。
――きっと、これでいい。
彼女の吐息を感じながらサチは思う。
――瑞穂に甘えると決めたのだから。
瑞穂の手が肌に触れる。温かな手。柔らかな手。優しい手。けれども美桜とは違う手。
サチもまた瑞穂の肌に触れる。滑らかで、温かくて、しっとりしていて柔らかい。
美桜の肌はどんな感じなのだろう。
「サチ、好きです」
耳元で囁く、少し低い瑞穂の声。どことなく悲しそうな声。サチはその言葉には答えられない。それでも瑞穂は囁き続ける。まるで暗示をかけるかのように「好き」と繰り返す。
突然、美桜の部屋からゴトッと物音がした。瞬間、サチは動きを止めた。ただ何かを落としただけなのだろう。しかしそれだけでも、美桜の存在を感じるには充分だった。
サチの心を一気に襲ったのは自身に対する嫌悪感。そして罪悪感。美桜がすぐ近くにいるのに彼女に触れることができない寂しさ。その代わりに瑞穂に触れている愚かな自分に対する怒り。
「大丈夫」
瑞穂が少し身体を起こしてサチを覗き込む。
「大丈夫。わたしがいるから。わたしが代わりになるから。サチは何も苦しまなくていい。だからいまは、わたしを見て」
そう言った彼女は悲しそうな笑みを浮かべてサチの唇にキスを落とす。最初は触れるだけのキス。やがて深く、何かを確かめるような強く優しいキスを。
サチは瑞穂の温もりを感じながら目を閉じた。
苦しまなくていい。その言葉に安堵する。しかし全身で瑞穂の肌を、唇を、吐息を、そして香りや温もりを感じるたびに、なぜか心が冷たくなっていく気がした。




