8.幸せ、冷たい心(9)
「そういえば、色々とありがとうございました」
しばらく他愛もないお喋りをしながら食事をしていたが、ふいに思い出してサチは向かいで味噌汁を啜る瑞穂に礼を言った。彼女は不思議そうな顔をして椀を置く。
「何のことですか?」
「だから、色々です。昨日は柚原さんに連絡してくれたでしょ?」
「あ、でもあれは、わたしのせいで先生、財布も何もかも置いて出て行っちゃったから。たぶん、わたしが電話しても出てくれないと思って、それで……」
瑞穂は口ごもるように言って顔を俯かせる。
「今朝、柚原さんに電話をもらったときに聞きました。先生、すごい熱があったって。それなのに、わたしは」
彼女は顔を上げると思い詰めたような表情をサチに向けた。
「本当に、ごめ――」
「謝らないでください」
サチは彼女の言葉を遮って言った。そして自嘲するように笑う。
「わたし自身、熱があるなんて気づいてなかったんですから。言われて、確かにそうかもって思っちゃう程度で。ほんと、たいしたことなかったんです」
「でも――」
「それより、今日もうちのクラス引き受けてくれたんですか?」
サチが聞くと彼女は申し訳なさそうな顔をしながらも頷いた。
「みんな先生のこと心配してましたよ。昨日の先生、元気なかったから。生徒たちも気づいてたみたいです」
「そう……。ダメな先生ですね。生徒に心配かけるなんて」
サチは笑う。しかし、瑞穂は笑わなかった。
彼女は箸を持ったまま「御影さんも、心配してました」と小さな声で言った。サチは笑みを浮かべたまま「へえ、そう……」と答える。顔が引き攣っているのがわかり、手で頬を押さえる。
「御影さん、高知さんの目を盗んで聞きに来たんです。昨日、柚原さんに先生が病気だって聞いたけど、どんな様子なんですかって」
「それで、なんて?」
「熱を出して寝込んでたけど、今日はもう落ち着いてるみたいって答えておきました」
だからスポーツドリンクとチョコを買ってきたのかと納得する。チョコが苦かったのは、きっとサチがコーヒーをブラックで飲むから。コーヒーと一緒に食べるために買ってきてくれたに違いない。
――体調が良くなってコーヒーが飲めるようになったら、チョコを食べて元気だして。
そんな美桜の声が聞こえてくるようだった。
「先生……?」
瑞穂が心配そうにサチを見つめている。サチはヘラッと笑って「やっぱりダメですね、わたしは」と言った。
「これ以上、御影さんに負担かけたくないのに。心配なんてさせちゃって」
「でも、やっぱり御影さんは先生のこと――」
「いいですから」
サチは思わず強い口調で言った。瑞穂が目を僅かに見開く。サチはテーブルへ視線を落として「もう、いいですから」と呟いた。
「先生? 大丈夫、ですか?」
瑞穂の心配そうな声にサチは顔を上げて微笑む。
「何がですか? あ、体調? だったら全然」
「いえ、そうじゃなくて。なんだか……」
「それより、ご飯食べながらDVD観ませんか?」
言いながらサチは箸を置いてテレビの前に移動する。
「なんか、柚原さんが置いていってくれたんですけど」
「柚原さんが?」
「はい。ちょっと前に流行ったやつ。知ってます?」
DVDのディスクを瑞穂に見せると彼女は「ああ、知ってます」と頷いた。
「観たことはないですけど」
「あ、じゃあ最初から観ます?」
サチはデッキのディスクを入れ替えると再生ボタンを押す。瑞穂はどこか納得していないような表情を浮かべていたが、ドラマが流れ始めるとそちらに興味を惹かれたらしく画面に集中し始めた。
そうやって二人でDVDを観ながら食事を終え、瑞穂がカフェオレを作ってくれたのでそれを飲みながら再びDVDを観る。どうやら瑞穂はこういうドラマが好きらしく、普通に楽しんでいるようだった。
会話もなく、ただ二人で並んでドラマを観る。それはサチがさっきまでしていたことと何も変わらない。けれど、なぜか美桜たちの様子が気になることはなかった。
しかし、やがてドラマの内容が一段落すると、彼女は「あ、すみません。こんな遅くまで」と我に返ったように腕時計に目をやった。サチもスマホを確認する。あまりにも集中しすぎていたのか、時刻はすでに二十二時を回っていた。
「もう帰らないと。病み上がりなのに無理させては申し訳ないですし」
言いながら彼女はマグカップをサチの分までキッチンへ運んで手早く洗う。サチはそんな彼女の背中を見つめながら、再び心がざわつくのを感じた。意識に膜が張ったような感覚に陥り、すべての音が少し遠く聞こえる。
聞こえるのはシンクで水が流れる音。瑞穂がマグカップを洗いながら何か言っている。よく聞き取れない。そんなことよりも心が煩い。ざわざわしている。
「――い?」
瑞穂がこちらを振り返り、首を傾げたのがわかった。そして手を拭いて近づいてくる。
「先生?」
聞こえた声に、サチはハッと彼女を見上げた。瑞穂は心配そうにサチの前で膝をつくと、その手でサチの頬に触れた。
「やっぱり、まだ無理しちゃダメだったんですよね」
「そんなことないですよ」
サチは微笑む。しかし瑞穂は首を左右に振って、少し困ったような表情を浮かべた。
「そんなことありますよ。だって今日の先生はなんかちょっと、変――」
瑞穂が言葉を止めた。気づけば、サチもまた瑞穂の頬へと手を伸ばしていた。触れた彼女の肌はやわらかく、滑らかで、温かくて。
「せ、先生?」
瑞穂は明らかに戸惑っていた。サチがゆっくり手を下ろすと、彼女もまた同じように手を下ろす。しかし、どうしたらいいのかわからないのだろう。そのまま無言で俯いている。その頬が少し紅潮しているのがわかる。サチはそんな彼女をぼんやりと見つめながら「御影さんの部屋にね、高知さんがいるんです」と言った。
「え……?」
「今日も泊まるみたいで」
「そう、なんですか」
瑞穂の視線は美桜の部屋がある方へと向けられる。サチは「だから」と浅く息を吐いた。瑞穂が視線をサチへと戻す。その瞳の奥に見える、不安の色。
サチは再び彼女の頬に手を触れた。
「先生も、泊まっていってください」
瑞穂が大きく目を見開く。サチは手を下ろし、そっと彼女の身体に身を寄せた。瑞穂の身体がびくりと強ばる。
「――ひとりは、嫌なんです」
言葉を吐き出すように、サチは続けた。
ずるくてもいいのなら、甘えてもいいのなら、それで誰かが傷ついてもいいというのなら、だったら自分は甘えてしまおう。それでこの苦しみから、寂しさから逃れることができるのなら。
――それで瑞穂が傷つくとわかっているのに?
心の中の自分が言う。
――それで、本当に苦しみから逃れられるとでも?
そんなことわからない。だけど、今だけでも楽になりたい。瑞穂はきっと、許してくれるから。
――許してくれるのなら、傷つけてもいい?
いいはずがない。そんなことダメだ。わかっている。
わかっているのに……。
ふいにギュッと瑞穂がサチの背中に腕を回した。優しく、大切なものを抱きしめるように。
「……泣かないでください」
いつの間にか溢れていた涙は、けれど悲しくて溢れたものではない。ただただ身勝手な自分への怒りから溢れたものだった。瑞穂の優しさを利用しようとしている自分への怒り。
「ごめ……なさい。わたし、きっと先生のこと――」
――きっと傷つけてしまう。悲しませてしまう。
しかし上手く声を出すことができなかった。それでも瑞穂には伝わったのか「謝る必要なんて何もないです」と強くサチを抱きしめた。
「わたしがそれでいいって、そう言ったんだから」
しかし、そう言った瑞穂の声もまた、泣いているようだった。




