8.幸せ、冷たい心(8)
何も考えず、ただぼんやりとテレビを眺めて過ごす。できるだけ美桜たちの気配を感じないように意識を集中させる。しかし、集中すればするほど美桜たちのことが気になってしまう。サチはそのうち布団の上に横になって目を閉じた。
――お前はどうなんだ。いま、幸せか?
脳内で柚原の声が聞く。
幸せだった。つい、数日前までは。
――ずるくてもいいじゃん。
ミナミの声が言う。
――もっと甘えてもいいんだよ、明宮はさ。
「本当に?」
サチは枕に顔を埋めて呟く。
本当にいいのだろうか。それで誰かが傷ついても、それでも構わないと言うのだろうか。
だったら、自分は――。
そのとき、インターホンが鳴り響いた。サチはのそりと身体を起こすと玄関へ向かう。そしてドアを開けた。そこには瑞穂が緊張した面持ちで立っていた。
片手にサチが置いていった荷物を持ち、もう片方の手には総菜屋の名前が入ったビニール袋を提げている。彼女は「あの……」と消え入るような声で言うと俯き、黙り込んでしまった。
「どうぞ」
サチは瑞穂を部屋に招き入れる。彼女は少し迷う様子を見せたが「おじゃまします」と小さな声で言いながら入ってきた。
「あの、荷物を……」
「ありがとうございます」
サチは荷物を受け取って「すみません、わざわざ」と頭を下げる。
「いえ、そんな」
瑞穂は俯きがちに言いながら、玄関の近くから動こうとしない。
「松池先生」
サチが呼ぶと彼女は顔を上げた。何かに怯えたような目をしている。怒られた子供のような表情。そんな彼女を見つめながらサチは微笑んだ。
「それ、なんですか?」
言いながら瑞穂の持っている袋に視線を向ける。瑞穂は「えっと、お弁当を」と袋を軽く掲げた。
「明宮先生の体調が良くなってたら、夕飯にどうかなと思って」
「一緒に?」
「あ、いえ。二つ買いましたけど、わたしは家で――」
しかしサチは瑞穂が言い終わるよりも前に弁当の袋に手をかけた。
「一緒に食べませんか?」
「え、でも……」
「ね?」
サチは微笑みを浮かべたまま瑞穂の手を包み込むようにして握る。瞬間、瑞穂の瞳から涙がこぼれ落ちた。彼女は溢れる涙を堪えようとしているのか、苦しそうに眉を寄せ「怒ってないんですか?」としゃくり上げながら言った。
「どうして?」
「だって、わたし昨日あんなこと……。先生が体調悪いのも知ってて、心が弱ってるのもわかってて、今ならきっとって、そんな卑怯なことを思ってしまって」
瑞穂は一度、苦しそうに息を吐き出した。そして「先生の言った通り、わたしはずるかったんです」と続ける。
「正々堂々と気持ちを伝えることができなくて、卑怯でどうしようもなくて。だからもう、嫌われたかと――」
最後の方は声にもならず、瑞穂は肩を震わせながら静かに泣きじゃくった。サチは何も答えず、ただ彼女の手を握り続ける。
瑞穂の手は美桜よりも大きかった。しかし美桜と同じくらいに柔らかくて温かい。美桜と同じ、優しい手だった。
サチは泣きじゃくる瑞穂を見つめながら思う。
彼女がこんなにも泣いている理由は自分にあるのだろう。彼女がこんなにも苦しんでいる理由もまた、自分にある。
サチは彼女の手を離すと「ちょっと待っててくださいね」と笑みを向けた。
「今日、ずっとダラダラしてたので布団敷きっぱなしで。すぐ片付けるので。そしたら一緒にご飯食べましょ?」
瑞穂は泣きじゃくりながらも一瞬、驚いたような表情を浮かべる。そして空いている方の手の甲で涙を拭うと「何か、手伝います」と涙声で言った。
サチは布団を畳みながら「じゃあ、お味噌汁温めてくれますか?」と頼んだ。瑞穂はキッチンに弁当を置きながら「お味噌汁? 作ったんですか?」と更に目を丸くして言った。どうやら涙も止まったようだ。
サチは笑って「柚原さんが作ってくれたんです」と言った。
「お昼に少し頂いたんですけど、冷蔵庫にまだあるので」
「ああ、柚原さんが」
瑞穂は納得したように頷く。サチは布団を抱えて「言っときますけど、わたしだってお味噌汁くらい作れますからね」と釘を刺す。瑞穂はフフッと笑って「すみません」と謝った。
「もう……」
サチは笑みを浮かべながら布団を押し入れに片付けてテーブルを定位置に置く。そして置きっ放しにしていたチョコレートとスポーツドリンクを手にしてキッチンへと移動した。
「おやつですか?」
味噌汁の鍋をコンロに置いた瑞穂が振り返って、首を傾げた。サチは頷きながら手にしたそれを冷蔵庫に収める。
できるだけ、一番奥へ。
できるだけ目の届かない場所に。
美桜の優しさを遠ざけるように。
「よかった」
瑞穂の声にサチは冷蔵庫を閉めて振り向く。彼女はまだ涙に濡れた目を細めて微笑んでいた。
「体調戻ったみたいで、本当によかった。それからごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
瑞穂は笑みを消して深く頭を下げる。サチはそんな彼女の肩に手を置く。
謝らないでほしかった。別に瑞穂のことを怒っているわけじゃない。瑞穂のことをずるいと思った理由は瑞穂が言ったようなことじゃない。
瑞穂が謝る理由など、何もない。だから――。
「――謝らないで」
口の中で呟く。瑞穂はゆっくりと顔を上げた。まだ怯えたような瞳をしている。そしてサチの感情を探るような表情。サチは微笑みを浮かべて彼女を見つめた。
「……明宮先生?」
瑞穂は僅かに首を傾げた。サチは彼女から顔を逸らすとコンロに目をやる。
「はやく温めてお弁当食べちゃいましょう。柚原さんに言われたんですよね。栄養が偏ってるって。だから今度、料理教えてくれませんか?」
「え……?」
驚いたような声を上げたきり、瑞穂から答えが返ってこない。振り返ると、驚いた表情のまま固まっている瑞穂と目があった。
彼女はそっと胸に手を当て、そして息を吐き出すようにして笑うと「喜んで」と頷いた。泣き笑いのような笑みで。そしてコンロの前に立つ。
「すぐ準備しますね」
「うん。わたしはお弁当を食べる準備しとく」
「それ、テーブルに置くだけじゃないですか」
瑞穂とサチは笑い合う。いつも昼食を一緒に食べるときのような、温かな空気。しかし、どことなく漂う違和感。
その正体を、サチだけは理解していた。




