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2.変化、始まる新生活(2)

 寄り道もせず、まっすぐにアパートへと戻ったサチは車から出る前にミラーで顔を確認する。そういえばろくに化粧もしていなかったことを思い出したが、今更だろう。大丈夫だ。すっぴんであること以外、変な顔はしていない。運転しているうちに気分も落ち着いてきた。大丈夫。自分は大人だから。彼女の前ではちゃんと大人で、そして先生でいなくてはいけないから。


「――よし」


 口の中で呟き、運転席のドアを開ける。


「おかえり、先生」


 ふいに聞こえた声に、サチは軽く悲鳴を上げて動きを止めた。


「え、なにその反応。ウケるんだけど」


 アパートの裏からこちらへ歩いてきながら美桜は口元に手の甲を当てて笑っていた。


「いきなり声かけるから。びっくりした……」

「ああ、ごめんなさい。てっきり気づいてるもんだと――」


 サチの前で立ち止まった美桜はそこで言葉を切り、サチの顔を見つめながら僅かに首を傾げた。サチは思わず視線を逸らして「なに?」と訊ねる。


「ううん。頑張ったね、先生」


 ニコっと彼女は微笑んだ。その笑みを見て安堵してしまう自分に気づき、そんな自分に対して動揺してしまう。


「な、何が?」

「さあ、何でしょうね」


 美桜はいたずらっ子のようにフフッと笑うと、アパートへ向かう。そして歩きながら顔だけ振り返った。


「ご褒美にお昼ご飯、作ってあげますよ。食べてないでしょ?」

「いや、まあ、食べてないけど……」

「ほら、帰りますよ」


 サチは美桜の背中を見ながらため息を吐いた。

 何なんだろう、この子は。まるでサチのことをすべて見透かしているかのような……。しかし、それが嫌ではないのは何故だろう。干渉されるのは嫌いなはずなのに。どうして彼女のあの笑顔を見て安心してしまうのだろう。どうして、学校ではあまり話したこともない生徒相手に、こんなに自然体で接することができるのだろう。


「先生、早く!」

「あ、はーい」


 サチは慌てて彼女の後に続いた。


「あの、お昼はわたし作るよ?」


 玄関を上がってキッチンに向かう美桜の後ろに立ってサチは言う。しかし美桜は疑わしそうな表情を浮かべて振り返った。


「料理、できるんです?」

「失礼ね。わたしだって料理くらい……」

「ふうん。たとえばどんなの作れます?」

「ハ、ハンバーグとか、ピーマンの肉詰めとか。あ! あと野菜炒めとか、ホットケーキ、とか。あと卵焼き?」


 しかし、言えば言うほど美桜はニヤニヤと笑う。そして「あのね、先生」と片手鍋を棚から出しながら言った。


「どんなの作れるかって聞かれて具体的に答えちゃうあたり、料理できない人確定だからね」

「え……」

「ほんと、先生ってポンコツだなぁ」


 呆れたように言いながら彼女は冷蔵庫を開けた。


「な! ポンコツって……」

「さっきのメッセージのやりとりだってそうですよ」


 意味がわからず、サチは眉を寄せる。


「わたしが勝手にスマホを開けてアカウント登録したのも怒らないし。それに他には何もされてないって、なんで信じちゃうかな」

「え、だって御影さんが」


 してないって言ったから信じたのに。そう言おうとして、サチは言葉を飲み込んだ。たしかに彼女の言うとおりだ。なぜ素直に信じてしまったのだろう。もし何か個人情報など見られていたら。


「……何か、見た? 御影さん」

「見てませんよ、ポンコツ先生。でも、そういうとこは気をつけた方がいいんじゃないですか?」

「気をつけてます。普段は」


 そもそも普段なら絶対に酔いつぶれたりしないのだ。酔いつぶれたりもしなければ他人にスマホを触らせることだってしない。なのに、どうして彼女の前でだけ、こんな失態ばかり……。


「ま、それならいいですけど」


 頭を抱えたサチを見やりながら、美桜は鍋に水を入れてコンロにかけた。


「料理できるできないって話をしておきながらアレですけど、お昼ご飯はラーメンです。微妙に時間ないし。それに先生、その恰好でいいんです? 生徒の親に会うのに」

「え……?」


 言われて自分の恰好を改めて見る。昨日と同じ仕事用のパンツ。美桜に借りたスウェットトレーナー。たしかに仕事として会うのならばラフかもしれないが、今日はプライベートだ。休日ならこんなものではないだろうか。首を傾げていると美桜がフフッと笑った。


「生徒の服とか着ちゃって、やーらしー」

「え! あっ! いや、やらしいとかそういうことじゃなくて! でもそうね。そうだ。うん。たしかに着替えなくちゃ。あとメイクも。あー、荷物まだ車だった!」


 慌てて玄関で靴を履き、車に起きっぱなしにしているキャリーバックを取りに行く。ドアを開けたサチの背中に面白そうに笑う美桜の声が響いた。




「――なーんか、つまんないな」


 炒めた野菜と卵が入ったラーメンを啜りながら美桜が言った。


「え? おいしいよ? 御影さん、料理上手なんだね」


 素直に感想を述べたサチを見て、美桜は「いや、違くて」とため息を吐いた。


「服着替えてメイクしたらさ、いつもの先生に戻っちゃった感じ。雰囲気が」


 サチは首を傾げた。


「わたしはいつでもいつものわたしだけど?」

「学校の先生は少なくともあんなポンコツ先生じゃないもん」

「……言っときますけど、わたしはポンコツじゃないですから」

「そうだよねー。今の先生は、なんか普通。つまんない」

「なによ、それ」


 そう言われてもどうすればいいのかわからず、サチは麺を啜る。そういう美桜も、今は学校での彼女と同じ雰囲気を醸し出していた。

 親しげでいて、しかしどこか近寄りがたい雰囲気。整った顔立ちをしているだけに、その纏った空気はなんとなく冷たく感じられた。

 さっきまでの柔らかな雰囲気がなくなってしまったのは食事を始める前、彼女がスマホを確認してからだった。


「お母さん、もう来そう?」


 サチもスマホで時間を確認する。十三時四十分。約束は十四時だったはずだ。美桜は頷いた。


「ちゃっちゃと食べましょう」

「うん」


 ズズズ、と麺を啜る音が静かな部屋に響く。なんだか気まずい。昨夜から今まで、こんなに気まずいと思った時間はなかったのに。

 サチは何か話題はないかと考える。学校での話題は答えてくれそうにない。サチ自身の話をするのは流れがおかしい気がする。考えた結果「御影さんのお母さんってどんな人?」と聞いてみた。彼女は興味なさそうに「普通ですよ」と答える。


「普通って」

「普通の働く母親です。父親はちょっとお給料の良いサラリーマン。母親は普通のOL。プラスいくつかのアパートを持ってるんで金持ちです。でも娘にはそうそう大金を渡したりしない。ごく一般的な常識を持った普通の人間、です」


 なぜか人間という言葉の語気が強かった気がする。サチは聞いていいものか考えながら「嫌い、とか?」と聞いてみた。

 親元を離れてこんな場所で一人暮らしをしているのだ。もしかすると親子仲が悪いのかもしれない。それなのに、サチのために母親に頼んでくれたのだとしたら申し訳ない。そう思ったのだが、美桜は「いえ、別に」と淡々とした口調で答えた。


「普通ですよ。親子仲も悪くないです。ここに娘一人を置くことに理解を示す、できた親だと思います」

「……そうなんだ?」


 どうやら取り越し苦労だったらしい。サチは密かに胸をなで下ろす。


「ま、一つ不満があるとしたら、金持ちのくせに小遣いが一般的っていうところくらいですかね」

「そこはそれでいいと思うよ。教師としては」


 すると美桜はしれっとした表情で「やっぱ、つまんないの」と呟いた。

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