8.幸せ、冷たい心(4)
ミナミが運転する車はゆっくりと夜の街を走り行く。時刻はいつの間にか二十一時を過ぎていた。アパートに着く頃には二十二時を回るだろう。
その頃にはもう、三奈は帰っているだろうか。それとも――。
「さっきさ、柚原と何か話してたの?」
ふいにミナミが口を開いた。サチは彼女へ視線を向ける。ミナミはまっすぐ前を見ながら「なんか、ちょっと変な感じだったから」と続けた。サチは微笑んで頷いた。
「先生がどれだけ柚原さんのことが好きかっていう話を聞いてた」
「は?」
ミナミが眉を寄せて一瞬こちらへ顔を向けた。わずかにハンドルが揺れて車体がぐらつく。
「ちょっ! 危ないって、柚原さん!」
「ああ、ごめん。明宮が変なこと言うから」
ミナミは照れたような顔で前へ向き直った。そして再び安全運転で車を走らせる。
「本当なんだけどな」
「いいって、そういうのは。それにあいつが大好きなのはコウだからね。親バカ丸出し。今日だってコウとご飯食べに行ってたんだよ? わたしがいないからって二人でさ」
「それ、わたしを迎えに来たから?」
「ううん。瑞穂から電話もらったときは普通に本屋で立ち読みしてた。つい集中しちゃって一時間以上読んでた。いつもコウに怒られるんだけどね。立ち読みはしちゃいけませんって」
サチは笑って「コウちゃん、本当に良い子だね」と言った。
「だろ? 自慢の娘だからな」
「……コウちゃんって、名前どういう字を書くの?」
「え?」
「音しか聞いてないから。やっぱりカタカナ?」
「いや、漢字だけど――」
なぜかミナミは言葉を濁す。不思議に思って彼女を見ていると「幸せ」と彼女は小さな声で言った。
「幸せ?」
「そう。幸せって書いて、コウ」
幸せ、とサチは口の中で繰り返す。幸と書いてコウ。しかし、それは読み方を変えれば……。
「仕方ないじゃん」
ミナミが少し口を尖らせながら言った。
「幸を産んだとき、わたし十九だったんだから。まだ子供で、気持ちだって全然割り切れてなくて、それなのに親になって……」
交差点の信号が赤になって、ミナミは車を減速させて停める。そして深く息を吐いた。
「引いた?」
サチは首を左右に振る。驚いたけれど、引いてはいない。そう言うとミナミは「ウソ」と固い声で言った。
「わたしだったら引くよ。自分の子供に片思いしてた人の名前つけるなんて。子供をなんだと思ってるんだって、そう思う」
信号が青になってミナミはアクセルを踏む。再び流れ始めた風景へサチは視線を向けた。
「わたしさ、高校を卒業してから幸を産んで少し経つまで、ちょっと情緒不安定っていうか、鬱っていうか、荒れちゃってね」
思わずサチはミナミを見た。彼女は無表情に言葉を続ける。
「わたし何やってんだろうって。こんなはずじゃなかったのにって。どうして明宮に気持ちを伝えなかったんだろう。どうして子供を産もうと思ったんだろう。どうしてわたしは今、ここにいるんだろう。友達も誰もいない、こんなところに。どうしてってさ。そんなマイナスなことばっか考えてた。それで柚原にも母さんにもひどい態度取ってさ。幸を産んだときだってあの子のこと、まともに見られなかった」
「そんな……」
そんなこと、想像もしていなかった。きっとミナミは産まれたばかりの幸を最初から今のように愛していたのだと、勝手にそう思っていたのだ。
結婚して子供を産んで、たくさんの愛情を受けて、注いで……。高校を卒業してすぐにミナミは幸せになったのだと、そう勝手に思い込んでいた。
「幸の名前ね、柚原がつけたの」
「先生が……?」
「うん。わざわざ半紙に筆で幸って字を書いてさ。ほら、よくドラマとかで見るじゃん? あんな感じで、良い名前だろうって得意げな表情で。だけど、どこか申し訳なさそうな表情で。あのときの柚原の顔はたぶん一生忘れられないな。きっと、あいつも苦しんでたんだと思う」
サチは無言で彼女の顔を見つめながら話を聞く。
「それから、わたしは幸のことを愛せるようになった」
ミナミは自嘲するように笑った。
「ひどい母親だよ。娘の名前を呼ぶたびに、明宮のこと思い出してたんだから。あの子をあんたの代わりにしてたの。ヤバいでしょ? わかってる。自分でもわかってる。わたしの愛情は歪んでるって。きっと柚原の愛情も歪んでる。わたしたち夫婦の愛情は歪みまくってる。だけど――」
再び赤信号で車が停まる。だけど、と繰り返したミナミの表情は、愛おしい人を想うような、そんな柔らかな表情へ変化していた。
「幸だけはまっすぐなんだよね。何も知らない幸は、まっすぐにわたしたちの愛情に応えてくれる。だから今はもう、あの子はあんたの代わりじゃない。ちゃんと娘として、たった一人の大切な娘としてあの子を愛してる。柚原への愛情は、これからもやっぱり歪んだままかもしれないけど、それでもあいつのこと好きなことに変わりはない。だからわたしは今とても幸せなんだ。幸が、幸せを運んできてくれたから」
でも、と彼女はサチに顔を向けた。切なそうな表情で。
「あんたには歪んでほしくない。わたしみたいに歪んだ感情を持ち続けてほしくない。だから明宮がどんな選択をしても、わたしはそれを全力で応援するよ。明宮が変わらず、まっすぐでいられるように」
サチは彼女を見返しながら「わたしは、そんなまっすぐな良い子じゃないよ?」と微笑んだ。
「わたしは、ずるい」
ミナミは無言でサチを見つめている。
「ずるい人間なんだよ。わたしは――」
そのとき、クラクションが響いてサチは身体をビクリと震わせる。信号がいつの間にか青になっていたようだ。ミナミが舌打ちをして車を発進させる。
「――ずるくてもいいじゃん」
前方を見つめながらミナミは言う。
「ずるくても、きっと明宮はまっすぐだよ」
「……意味わかんないよ」
サチが言うと、彼女は真面目な表情で「まっすぐっていうのは、別に良い子っていう意味じゃないからさ」と言った。それきり彼女は口を閉ざす。
静かな車内に響くのは車のエンジン音と袋の中で栄養ドリンクの瓶がぶつかり合う音だけ。
サチは窓の外を流れる夜の街を眺めながら、彼女の言葉の意味を考えていた。




